現代語訳
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第二 重盛の次男関白殿へ狼藉をなされたこと。これ平家に対しての謀叛の根源となった事。

右馬之允
平家への謀反について語っていただきたい。

喜一
かしこまりました。嘉応元年(1169)のことです。一院こと後白河上皇は出家されましたが、出家後も依然として政治の全てを把握し、政治を裏で掌握ていました。そのため、院の御所と天皇の内裏との区別が曖昧になり、御所に仕える公卿や殿上人、さらには北面の武士たちに至るまで、財産や位等々、皆が身に余る恩恵を受けていました。
人の心の常として、贅沢はどれほど極めても満足することはありません。そのため人々は、
「ああ、あの人が滅びたらこの国は平穏になるだろう」
や
「あの人が亡くなれば俺がその地位に就くことができるだろう」
など、仲の良い者同士で密かに集まっては、ひっそりと囁き合っていたのでした。
後白河法皇も内々にこう仰ったほどです。
「昔から、その時々の御代において朝敵を討ち平らげてきた者は多いが、今の清盛のように自分の思いのままに権勢を振る舞う者はいなかった。まさに世も末。これは王法(仏教の教えや国家の秩序)が尽きようとしている兆しであろうよ。」
と。
しかし、きっかけがなければ清盛を戒めることもできないのが現実でした。その平家とて、特別朝廷を恨むようなことはありませんでした。
世が乱れ始めた原因は、過ぎし嘉応2年(1170)に遡ります。その年、重盛の次男である資盛卿は13歳でした。雪がうっすらと降り積もる日。枯野の景色が誠に趣深かったため、資盛は若い侍30騎ほどを従え、蓮台野や紫野、右近の馬場などに出かけました。
鷹をたくさん携えては鶉や雲雀などを追い立てながら、一日中狩りを楽しみましま。夕方になって六波羅への帰路のことです。道中、関白殿(藤原基房)が参内されるところにばったり行き会いました。その際、周囲の人々が
「何者だ。無礼な奴め。関白殿が御参内なされるのだぞ。馬から下りよ、下りよ。」
と資盛一行を制したのですが、資盛は、あまりにも傲慢な態度をとり、公家優位の世の中をもろともしませんでした。
加えて従う侍たちもまだ20に満たない若者であったため礼儀や作法を弁えた者などいませんでした。そのような一行でしたので、関白殿のご参内であるにも関わらず、下馬の礼を尽くすこともせずに馬を駆けて無理やり通り抜けようとしましたが、それは叶いませんでした。あたりが暗かったために、資盛が清盛の孫だと知らなかった者はさておき、多少は知っていても無視した者かいたのです。資盛をはじめ、侍たちはみな馬から引きずり下ろされ、大恥をかいたのでした。
やっとのことで六波羅へ戻った資盛は、祖父清盛禅門にこの出来事を訴えました。これを聞いた清盛は大いに怒り、こう言いました。
「たとえ関白であっても、この清盛一門に対しては慎んで振る舞うべきだというのに、まだ未熟な子どもに何の躊躇もなく恥を与えるとは、まことに遺憾である。このようなことをするから世の人から侮られるのだ。このことは必ずや思い知らせてやらねばな。関白殿への恨み、何としてでも晴らそう。」
平家に権勢が集中している=公家は侮られている ということを言っています。
重盛が申し上げます。
「恥はかきましたが、少しも苦しくはありませんよ。確かに、頼政や光基といった源氏の者たちに欺かれたのであれば、それこそ一門の恥辱といえましょう。しかし私の場合は、重盛の子供であろう者が、関白殿の御出に遭遇しながらも乗り物から下りなかったのが無礼であった、という話なだけなのです。」
そう言っては事件に関わった侍たちを呼び寄せ、重盛は
「これ以降、お前たちはよく心得よ。関白殿から『無礼な行動、言動を取ったな』と言われるような行いは決してするな。」
と言い聞かせて帰っていきました。その後、清盛と重盛はこの件に対して話し合うこともなくなりました。田舎から来た侍たちは多くが荒くれ者で、清盛の命令以外に恐れるものはない、といった風潮があったため、重盛の冷静な注意はあまり通じませんでした。
難波経遠や妹尾兼康といった者たちをはじめ、計6000人余りを召し寄せて、清盛は言いつけました。
「今度の21日、関白殿は、主上(高倉天皇)の元服の儀式に列席すべく参内されるだろう。どこでも良い、待ち構えて、お供の髻(もとどり)を全て切り落とすのだ。資盛の雪辱を注げ。」
と。関白殿はこのようなことになるとは夢にも思わず、高倉天皇の元服の儀式のために、いつも以上に身なりを整えてお出かけになりました。すると平家の兵士300騎余りが待ち伏せしており、関白殿は取り囲まれてしまいました。前から後から一斉に鬨の声を上げ、関白殿のお供たちを、あちらで追いかけ、こちらで追い詰め、馬から引きずり落としては散々叩きつけ、一人一人髻を切り落としていきました。
それでは終わらず、関白殿のいる車に向かって弓の鏃を突き入れ、簾を引き剥がし、牛の鞦(しりがい)や胸懸(むながい)を切り離し、散々に荒らし回りました。そして喜びの鬨の声を上げて六波羅へ撤退したのでした。これを聞いた清盛、「よくやった」と褒め称えました。本当に、昔から今に至るまで、関白ほどの身分の高い人が、こんな目に遭わされたことは聞いたことありません。これが平家の悪行の始まりだと言われています。
これを聞いた重盛はたいそう騒ぎながら、資盛を含めその場に向かった者ら全員を勘当しました。
「清盛からどのような無茶な命令を下されたとしても、なぜ私に知らせようと全く思わなかったのだ? そもそもこれは資盛の過ちだ。栴檀(せんだん)は芽生えたばかりの時から良い香りがすると言う。今は礼儀を知って振る舞いに気をつけているとはいえ、 12、13歳にもなろうという者なら、とっくに礼儀をわきまえて行動すべきなのだ。そして今回、このような愚かなことをして清盛の名を汚した。これ以上ない親不孝だ。この過ちはお前ひとりの責任である。」
と。そう言って、しばらくの間、資盛を伊勢国に追放する命を下しました。このことを聞いた天皇や公卿は重盛の行動に感心し、殊に称賛したのでした。
(第二。終。)
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