三善清行 平安
延喜4年(914年)に醍醐天皇に提出された政治意見書。平安末期の社会情勢と律令制の崩壊を知ることができる。
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現代語訳
導入
私、三善清行は申し上げます。
2月15日の詔において、天皇は多くの公卿大夫、方伯牧宰に対してあらゆる事柄の議論を尽くすよう、そして意見を出すようお求めになりました。
唐の皇帝は有する百の薄情を改めて、苦しい境遇の国民を助けました。陶唐の君主堯は役人に音楽遊びを控えるよう諌め、周の時代の政治の心得を示した官箴を盛んにしました。
死罪に値するほど、頭を地に擦り付けるほど、誠に恐れ多きことながら天皇に申し上げます。
私は古の記録より案を捻出いたしました。我が朝廷は神より続き、険しいほどの崇高さは限りありません。国土は肥沃で、人々は多くの富に恵まれました。その結果我が国は、東の粛慎を平定し、北の高麗を朝貢させ、西の新羅を服従させ、南の呉国を臣従させました。馬韓、辰韓、弁韓の三韓は我が国に朝貢、百済は支配下となりました。
しかし、唐は駅使を用いて百済に賄賂を送り、天竺沙門はこの賄賂ために帰化したのです。そうなったのは何故でしょうか。我が国の国民性は人情に厚く、忠誠心に厚い。だからこそ税は軽く、あまり労役として徴収しなくても問題ありませんでした。つまり、上の者は仁義をもって下の者を養い、下の者は誠実さをもって上の者を敬う。一国の政(まつりごと)は一身を治めるのと同じようなものであります。
仏教と日本の頽廃
中国の『旧唐書』では、「唐帝、倭国の天皇(天智天皇か)を推す。」と書いてあります。それからというのも、国民性は次第に薄情になり、法令は多く煩雑になりました。その結果、賦役で集められる人数は増加、徭役は倍となりました。男手が家を離れるため、家の数は月ごとに減り、田や畝は日に日に荒れたのです。
宗教においては、欽明天皇の代にはすでに仏法が日本に伝わり、推古天皇以降、仏教は盛行しました。上は公卿から下は諸国の庶民まで、寺院や仏塔を建立しない者はなく、信者の人数は把握できません。そして仏教に傾倒するあまり、ことごとく資産を仏塔造営に費やしていました。
農地を捨て、競って仏教建造物の土地に変えている有様。そして、その多くは身分の高い人が買っており、庶民は寺奴婢となっています。
天平の時代になり、仏教はあまねく尊重され、ついに農地は成り行きに従い、多くの大寺が建立されました。その殿堂の崇高さというのは、様々な形で現れました。仏像の大きさ、技巧の神妙さ、荘厳の奇異さなど。これらは鬼神が拵えた物のようであり、人が生み出したものとは思えません。
国庫金の大減少
また、聖武天皇は七道諸国に国分寺と国分尼寺の建立を命じました。この際の造営費用は正税で賄われ、国庫金は残り10分の5になりました。桓武天皇の代には長岡京に遷都しました。造営は既に終わり、都として運営に着手。大極殿を再造し、宴会の場として豊楽院(ぶらくいん)を新たに構えました。また、長岡京の宮殿には楼閣を、大勢の役人の庁舎を、親王や貴族の邸宅を、妃の離宮を建築しました。建築の技巧を追求した結果費用がかさみ、調庸をことごとく使い果たしてしまったのです。このことで、国庫金は残り5分の2(=10分の2)になりました。
仁明天皇は贅沢の限りを尽くしました。器物の文様彫刻や美しい組紐のために男は農事を損ない、女は機織りなどの手仕事を害するようになりました。その豪華絢爛な様は古今を通して例をみません。国庫金はこのことによって空っぽとなり、賦税から掻き立てることとなりました。仁明天皇の振る舞いにより国庫金はさらに2分の1(=10分の1)となりました。
貞観年中、応天門の大極殿は仕切りに火災に見舞われていました。太政大臣藤原基経の国家に力を尽くす誠実さは民衆が彼を仰ぎ見るきっかけとなり、あらゆる国の民衆が、彼のもとに集まったのです。その結果、建物の修復は一年で完了しました。このことにより、国庫金はまた失われ、残りはさらに半分の10分の0.5(20分の1)になったのです。国庫金が10分の1にも満たない状況は、かつてありませんでした。
邇磨郷の歴史
私は、寛平5年(893年)に京を去り、備中介に赴任しました。備中にある下道郡(しもつみちのこおり)には、邇磨郷という郷があり、ここにおいて備中の風土記を見ました。
皇極天皇在位の663年、唐の将軍蘇定方が新羅軍を率いて百済に侵攻したことがありました。百済より救援要請の使いが来たため、天皇は筑紫国まで行幸、今にも救兵を出そうとしました。天智天皇がまだ皇太子で中大兄皇子と呼ばれていた時、彼は行幸に参列していました。摂政も同行しており、その道中、下道郡で逗留したことがあります。この郷は非常に盛んであると感じ、天皇は詔を下しました。
「試しにこの郷で兵隊を徴収せよ。ここで精鋭二万人を得るのだ。」
精鋭二万人が集まったことで天皇は大いに喜び、二万郷と名付けられた後、改めて「邇磨郷」となりました。その後天皇は筑紫国の行宮で崩御され、この二万人の精鋭は派遣されることなく終わりっています。つまり、二万の兵士は僅かに死が遠のいたわけです。
邇磨郷と律令制崩壊
時は飛んで天平神護年間(765~767)、右大臣であった吉備真備は右大臣と下道郡の郡司長官を兼任していました。試しにこの郷の戸籍を計測しようとしたところ、課税対象が1900人強しかいなかったのです。
貞観元年(859)のことです。民部卿の藤原保則朝臣は、吉備国の国司次官として勤めており、古い記録にこの郷には二万の兵士がいたとの記録を見ました。彼は大帳を集計した後、その課役対象の丁男の数を数えました。すると859年において、人口約70人のうち、男は3人だったことが分かったのです。
時は飛んで延喜11年(911年)、吉備国の国司次官、藤原公利が任期満了で帰京しました。私、三善清行は邇磨郷の現在の戸数について彼に問いましたところ、彼は
「1人もいない。」と答えたのです。
私が恐れ多いながらも663年から911年までの記録を計りましたところ、その間僅か250年であることが分かりました。郷の衰弊は早く、また既に村の戸籍も述べた通りの状況です。この一郷のみの推測になりますが、律令制は衰退しており、この現状を明白に知るべきです。
天皇への意見封事
現在、天皇は始祖以来続く運命を集め、昔からの盛衰に光を見出しています。また、天皇は民を憐れみ、この世界に恵愛の心を施しております。天皇は政務に非常に精励なさっております。詔はあまねく国民に伝わり、身分の低い者にもその報は伝わるでしょう。
その昔、虞舜では国家として3年で成りました。これは孔子の政策によるもので、満1ヶ月をもって立案したといいます。このままでは民の繁栄は後代まで続きません。国の復興に関して10日の間に手を打つべきです。
政治の場には、媚びへつらって手を叩いて踊り喜ぶような者ではなく、あえて、他人の評価を気にしない愚直な者を並べるのです。一斑を見て全豹を見ず。物事の一部分だけで物事全体を推測するような愚行を改めましょう。
井戸の底より天を望むといっても数尺にしか過ぎないように、途方もない大事業にみえたとしても、完遂まで道のりはそう遠くないのです。
恐れ多いながら、以下12箇条を記します。無礼奉り、処罰されることを伏してお待ちます。
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