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天草版平家物語【現代語訳#4】親清盛VS子重盛!成親卿の処遇を巡る争い

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プロフィール帳

『天草版平家物語』

時代:室町

作者:不明

概要:ラテン文字で書かれた平家物語。宣教師の日本語の教科書

7

オススメ度

2

日B重要度

8

文量

3

読解難易度

 

現代語訳

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第四 重盛父の清盛に成親卿を害せられぬように教訓をせられた事。

右馬之允
重盛は、この件について清盛に意見を申し上げることはなかったのか?

 

喜一
もちろん、重盛は清盛に教訓を申し上げた。その様子を語りましょう。かなり時間が経った後重盛は、嫡男の権亮(平維盛)を車の後ろに乗せ、兵を一人も連れず、ただ日頃付けている従者だけを連れて、いかにも悠然とした様子で清盛のもとに出向きました。清盛をはじめ周囲の人々は皆彼らを不審そうに見ていました。

車から降りると、貞能がすっと寄ってきて、

「なぜこれほどの大事だというのに、兵をお連れにならないのですか。」

と尋ねました。重盛は、

「大事とは天下の大事を言うのだ。このような私事を大事と言うことがあるか。」

と答えました。武装していた者たちは皆、どうしたものかと戸惑う様子を見せていました。

さて、成親卿をどこに幽閉したのかと、あちらこちらの障子を開けて探していると、ある障子の上に蜘蛛の巣が張られているのを見つけました。ここか、と思い障子を開けて中を見ると、涙に咽び、うつ伏せになって目も合わせられない状態の成親を見つけました。重盛が

「どうだ。」

と声をかけると、成親はやっと重盛を認識したようで、嬉しそうな表情を浮かべました。その表情は、例えようがないほどの嬉しさに満ち溢れていました。

その時成親は言いました。

「何故かは分かりませんが、このような目に遭っている私をご覧くだされ。以前もそうでした、貴殿がそのようなお方でありますから、きっと助けてくださるだろうと信じておりました。平治の乱の際、本来ならば誅殺されるところでしたが、貴殿の恩情によって首を繋ぐことができました。おかげで二位の大納言にまで昇進し、年も四十を超えることができました。そのご恩は、生々世々、報い尽くせるものではありません。此度もまた同じく、甲斐なきこの命をお助けてください。助けてくだされば、私は出家して入道となり、どのような片田舎や山里にでも引き籠り、ただひたすら後世の菩提を願う勤行をしながら生活します。」

と。

「このようなことになっているとはいえ、命を失うなど決してあってはなりません。仮に、すでに死罪が決まっていたとしても、私が参上して助命請願し、我が命に代えてでもその命お救いしましょう。」

そう言って重盛はその場を後にし、父、禅門(清盛)の御前へと参上しました。

「あの成親卿を誅殺することについて、よくよくお考えください。その理由はといいますと、成親卿は先祖にもなかった正二位の大納言にまで上り詰めた才徳を持ち、また、今の君(高倉天皇)のご寵愛も並ぶものがいないほど深いためです。そのような人材を、首を刎ねるような形で失うのは、いかがなものでしょうか。ただ洛外に追放されるだけで、事足りるはずです。昔から今に至るまで、讒奏(中傷による訴え)というものは常にあるものですが、これに軽率な処罰は似合いません。すでにこのように召し置き、拘束している以上、急いで誅殺を執行しなくても問題はないでしょう。『刑罰の理由が疑わしい場合は軽くせよ。功績が疑わしい場合は重くせよ。』と申す言葉もございます。確かに、私は成親卿の妹経子を妻として娶り、さらに私と官女との間の子、維盛はまた成親卿の娘(建春門院新大納言)の婿として迎えられました。清盛公よ、成親卿との縁が理由で私がこのように申しているとお思いか? 全くもってそうではありません。これは全く私の私情ではなく、世のため、家のため、そして天皇のためを思って申し上げているのです。軽々しく人を死罪にすれば、世は乱れ、また、この行いはいずれ自分の身に返ってくると思います。なんと恐ろしいことでしょうか。清盛公の栄華は、余すところが無いほどあります。これ以上望もうにも望めないでしょう。しかし、本人は良かれど、子々孫々に渡って繁栄を願うのが人の情というものであります。『先祖の善悪は必ず子孫に報いを及ぼす』と言います。先祖が善を積んだ家には余慶があり、先祖が悪を積んだ家には余殃(よおう)があると言い伝えられているのはそういうことです。どうか、成親卿の首を今夜刎ねるようなことはおやめ下さい。」

重盛のこの訴えにより、清盛は成親卿の斬首を思い止まったのでした。その後、重盛は中門に出て侍たちに向かって言いました。

「たとえ父上の仰せであろうとも、成親卿の命をむやみに奪うようなことはするな。清盛公は今、腹を立てたままの勢いで物騒なことをお考えだが、後になれば必ず後悔されるだろう。もし成親卿を殺すようなことをすれば、それは俺の意思に背くことを意味する。俺が恨めしいと思うようなことはするなよ。」

これを聞いた侍たちは舌を巻き、恐れおののいたといいます。さて、重盛は難波経遠と瀬尾兼康に向かってこう言いました。

「今朝、成親卿に対して情けもない仕打ちをしたのは、返す返すも奇妙なことだ思っている。俺がいずれやってくると分かっていながら、どうして恐れることなくやったのだ?田舎の者ならいざ知らず、この都でこのような振る舞いがあるとは。」

この言葉を聞いて、経遠も兼康も恐れおののいたといいます。重盛はこのように言い残して、その場を立ち去りました。さて、成親卿の侍たちは宿所へ走り帰ると、このことを成親卿の北の方(正妻)やそれに付き従う女房たちに伝えました。すると、これを聞いた者たちは皆遠慮なく声を上げて泣き叫び、その姿はまことに痛ましいものでした。

「すでに武士たちがこちらに向かっているとのことです。少将殿(成親卿の子、成経)を始め、若君たちも皆捕らえられると聞いております。急ぎどこかへ身を隠されよ。」

と侍は申し上げたのでした。北の方は

「今やこのような身の上となってしまった以上、この世に一人残されて安穏に過ごしたところで、何になりましょう。同じ一夜の露として消えることこそが、私の本意です。それにしても、今朝がこの生活の最後の日になろうとは思いもしませんでした。ああ、なんと悲しいことか。」

と言って、その場に伏せて声を上げて泣いたのでした。すでに武士たちが近いと聞いた北の方は言いました。

「こうしてまた恥辱を受けるのは耐えられません。」

と言って、10歳になる娘と8歳の息子抱いて車に乗り、行き先も分からないまま車を出しました。やっとのことで雲林院という所に着き、その近くの寺に子どもたちを匿ったところで、道中付き添った者たちは皆我が身の惜しさに暇を願い出て、北の方のもとを去りました。結果、幼い子どもたちだけが残され、尋ねることのできる人もいなくなってしまったのでした。

北の方の心中は本当に、誰が見ても哀れなものでした。日が沈むのにつけては

「成親卿の軽い命も今宵限りでしょうか。」

と、消え入るような気持ちになりました。成親卿の屋敷の様子といえば、女房や侍たちが多くいたはずなのに、こうなった今、誰も物を片付けせずに四散し、もう門を閉める者もいません。また、厩には馬たちが並んで立っていましたが、ついに草を与える者さえ一人もいないという有様となってしまいました。

夜が明ければ、馬や車が門前に並び、多くの客人が座敷で列をなし、そして遊び、戯れ、舞い、踊っていました。同じ世とは思えないほどに。近隣に住む人は、声を大にしてもの言えず、恐れ畏まって過ごしていました。それが昨日まではそうだったのに、一夜のうちに状況が一変したのです。『楽しみが終われば、悲しみが訪れる。』という大江朝綱(後江相公ともいう)の漢詩の情景が、今まさに目の前に現れたようでした。

とらちゃ
とらちゃ

祖父の大江音人を江相公と称するのに対し、朝綱は後江相公と称されました。大江朝綱の名言は、『本朝文粋』に収録されています。

生者必滅、釈尊未免栴檀之煙。楽尽哀来、天人猶逢五衰之日。「為重明親王家室四十九日御願文」大江朝綱(天慶8年3月5日)

(第四。終。)

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