現代語訳
文章を書くということ
人が文章を書く時、それには必ず理由がある。天が朗らかに晴れ渡っている時、人は何かを感じ筆を手にするのだ。天とは吉凶禍福を示す存在である。つまり、人の心が澄んでいる時、何かを思っては、その思いを文章に興す。これを起因として、鱗卦、聃篇、周詩、楚賦といった文体が生まれ、心の動きを紙に書き記した。生きる時代や生きる人が古今で異なるが、人が憤りの感情を文章に写すことは、凡人であれ聖人であれ、昔から一貫して変わらない。それ故に、私も思っていることを述べよう。
空海の出家
私は十五歳の時に学を志し、母方の叔父、従五位下であった阿刀大足のもとで文章を学んだ。崇め従うべき存在であった。
十八歳になり、私は槐市(大学寮の別名)に遊学し、学問に励んだ。車胤が蛍雪の光もとで書物を読んだことや、孫敬が縄や錐をもって禁欲的に書物を読んだことを心に留め、怠る気持ちを押し潰したり、さぼることを怒ったりすることで自分を戒めた。
そんな時、ある沙門が私に『虚空蔵菩薩求聞持法』を説いた。その経文にはこう書いてある。『もし、人がこの教法に従って真言を100万回暗唱すれば、全て法典の文義を理解し、暗記することができるだろう。』ここにおいて私は大聖(法華経における仏)の真言を信じて勤行に精進した。例えるならば、燃え上がる炎を目指し、きりもみして火をおこすことといえよう。大きな成果を目指して、地道な努力を重ねたのである。
阿波国にある大瀧嶽に登り(修行は龍の窟か)、土佐国室戸岬で念仏修行を行った。龍の窟では私の存在に構うことなく、虚しくこだまする。室戸岬では、明星が姿を現した。大瀧嶽で見出した虚空蔵菩薩が室戸岬において顕現し、私を真言の道に導いたのである。厳しい修行は、身を結んだ。そして私は、修行を積めば積むほど世俗の栄華が嫌になり、朝も夕も、巌や薮などの世俗離れたところで煙霞のように生涯を終えることを望むようになった。
軽やかな服装で肥えた馬に乗る。そんな富貴に溺れる者も、結局は流水のように速く、稲妻が幻に思われるほど一瞬の人生なのだ。また、醜い者、貧しい者を見ては、前世の行いの報いを今の世で受けていると感じ、悲しむことを休む暇などなかった。
目に触れた者皆が私に出家を勧めた。誰も風を繋ぎ止めることはできないというのに、どうして私の出家の意志を止めることができようか、いや、出来ない。しかし、阿刀大足をはじめ親族が、仁義礼智信の五常の徳目をもって私との繋がりを持ち続けようとし、私を俗世に縛り付けた。忠孝に背くという理由で私の出家を認めなかったのだ。
「三教」の由来
私は、ものの性質というのは、それぞれ異なっていると思っている。鳥は飛び、魚は泳ぐように。聖者が人を教導する時、三種類の教えを用いる。釈迦の仏教、李の道教、孔子の儒教である。それぞれ異なる教えのため、教義の浅い深いはあるけれども、聖者が説いたという点に関しては皆共通している。三教一致である。つまり、この三つの道以外に進みさえしなければ、忠孝に背くことにはならないということである。
『三教指帰』の構成
また私には一人の甥がいるのだが、彼は道理に反した振る舞いをしている。狩猟や酒、色恋沙汰に昼夜遊び呆け、賭博や遊戯を常にしている。これのような習性となったのは何故か。それは悪い世界に感化されてしまったからである。かれこれ親戚と、この甥のことが毎日頭から離れない。とても講義に集中できないため、私の代わりに三名の先生に登場していただき、それぞれの教えを講義していただく。
お客さんの役をする亀毛先生には儒教を教えていただく。兎角公には主人の役を。そして、虚亡士先生を後からお呼びし、道教に入ることの趣旨を話していただく。仮名児先生には受け役になってもらう。皆が仮名児先生を困らせ、それに反論するかたちで仏教の道に進む趣旨を主張してもらうのだ。
『この三人の先生が、それぞれの立場で論を展開し、兎角公の甥で放蕩者の蛭牙公子に忠孝というものについて説く。』という構成で本書を記した。三巻構成とし、『三教指帰』と名付けた。これはただ、私の心に高ぶる思いを文字に起こしただけである。誰か他の家の者に見せるつもりは無い。
延暦十六年(797)十二月一日、これを記す。
亀毛先生という人
亀毛先生の一論亀毛先生という人がいた。生まれつき話が上手く、体が大きかった。先生は、儒教における経典九つ(易経・書経・詩経・周礼・儀礼・礼記・春秋左氏伝・春秋公羊伝・春秋穀梁伝)と三つの歴史書(史記・漢書・後漢書)に精通しており、三つの書(伏羲・神農・黄帝)と八卦の説を暗記している。ほんの三行でも言葉に発すれば、枯れ木にも花が咲き乱れ、一言述べれば野ざらしにされている死体も息を吹き返す。弁論家として名高い蘓泰や晏平といった人ですら、亀毛先生には敵わず舌を巻くし、張儀や郭象といった弁論家ですらこの様子を遠くから見ては黙り込んでしまう。そのような人であった。
蛙牙公子という人
たまたま休暇をいただいた亀毛先生はこの日、兎角公の家を訪ねた。兎角公は筵を敷いて席を設け、食事を勧めて盃を交わした。酒宴の作法である三献を済ませた後、腹を割って語り合った。その中で、蛙牙公子という兎角公の母方の甥の話になった。
彼は狼のような心を持ち、道理に反した振る舞いをするという。叱っても言うことを聞かず、虎のように暴悪な性格で、礼儀などまるで知らないのだとか。賭博を生業とし、狩猟を趣味としている。そんな遊び呆ける不良のようなものだから頼りにもならない。そのくせ自分を大きくみせて高飛車な態度に出る。仏教観はというと、因果という考え方を信じず、善悪の行いによる報いをまるで受け入れない。日頃、酔いつぶれるまで飲み、満腹になるまで食い、女遊びが過ぎる上にいつまでも寝ている。たとえ親戚が病気に罹ったとしても心配する様子もなく、また他人に挨拶する時も敬意の念などない。挙句の果てに、父兄に馴れ馴れしく接し、徳を積んだ老人に対して奢る態度をとるという始末。
その時、兎角公が亀毛先生に言った。
「聞いた話です。王豹は歌を好んでいたため、高唐に住む人々は歌を歌うようになりました。縦之は書を教えたため、巴蜀の人々は学問に励むようになりました。橘や柚は、川北に移植すると、自然とからたち(橘や柚に似た柑橘類)になります。また、曲がったよもぎを麻の中に混ぜ込むと、勝手に真っ直ぐになります。つまり、この世のものは、どんな状態であっても他の影響を受けて変化するものなのです。お願いします、先生。これまで培った儒学の道を講義し、この頑なにひねくれた蛙牙公子の心を覚まさせてください。説教によって正しい道へ導いていただきたいのです。」
先生は言う。
「私はこう聞いています。優れた者は自分で理解しているので教える必要はない。しかし、愚かな者は教えてもその道に来てくれない。と。古の聖人はこのことについて悩んでいました。昔から愚かな者を教化するのが難しいのに、どうして今の愚かな者に教えるのが簡単でしょうか、いや、簡単ではありません。」
兎角公は言う。
「心の内を物になぞらえて述べることは古の賢者も使っている手法です。何か出来事があって、それに乗じて文章を書く。これも古から尊ばれていたことです。それ故に、韋昭は『博奕論』を、元叔は『刺世疾邪賦』を記しました。様々な書物にこれらの書のことが載せられ、時代を経てもなお自戒の手本書として読まれています。また、切れ味の鈍い刀で骨を切ることは砥石の働きを助けているし、油は差すことで重い車が軽々と走る働きを助けています。これらは心のない鉄や木です。鉄や木ですらこのように自戒して、他と支え合っているのに、心のある人類がどうして自戒することができないでしょうか。先生、今、蛙牙公子の迷いをそそぎ落として迷える道に行き先を示し、そして、あの蒙昧さに灸をすえて正しい道に帰してやって欲しいのです。そうしていただければ、何とも嬉しい限りでしょうか、何とも愉快なことでしょうか。」
これを聞いた亀毛先生。心悩み、そして心煩い、ぼんやりとして長いため息をついた。天を仰いで恨みを呑み込み、地に伏して深く憂い沈んだ。ため息をついて長い時間が経過した後、大いに嘲笑いながら言った。
「あなたは三度も私に頼みました。そんなに懇切だとは、礼儀正しい人です。これでは断れませんね。では、わたくしめの拙い見識から考えに考え抜いて実行した愚かな行動の数々を述べ、得た見識から心を修める簡単なあらましをお教えしましょう。ただ、私は激流のように激しく心を揺さぶるような弁論術はそんなに持っていませんし、後漢の時代、青州北海郡に住んでいた哲学者、鄭玄(じょうげん)に及ばない乏しい考えしかもっていません。見事な文章で曹操の頭痛を治した後漢の陳林や、見事な文章で敵を自殺に追いやった斉の魯仲連といったような文才は持っていません。彼らの真似事をしたところで、上手く言い表すことが出来ないでしょう。とはいえ、黙って発言を避けようとしても胸中で悶々としてしまいます。うん、黙っていられません。私の考えのあらましを述べ、詳しくは語り尽くせないので、その一部をお話しましょう。他のことについては、誰かに交代することにしましょう―
亀毛先生の論
智者と愚者
心の中で考えてみると、天は清くなり地は濁るといわれる天地創造の後に、霊長類つまり我々人類の歴史は始まった。それと同時に、人類は陰と陽の性質を五体に備えた。全人類が五体を備えているとはいえ、賢者、智者と呼ばれるような人の出現は1000年に1度しか咲かないという優曇華のように稀である。しかしそれに対して愚者は、夸父(こほ)の杖がうち捨てられた際にその杖が桃の木となって次第に桃林になったように無数にいる。このような有様なので、善の心を尊ぶ者は麒麟の角の数のように少なく、悪の心に染まる者は龍の鱗よりも多い。
人の行動原理というのは星のように存在し、また、同じ顔の人がいないように、考えていることも一人一人違う。玉と石が似ていないように、全く姿かたちの違う人であっても、上・中・下をさらに上・中・下に分けた、『九等』という区別による違いがそれぞれにある。
狂人と哲人。それは、あまりにも違いすぎて三十里を隔てるほどである。各々好む環境に身を置くのは、石を水に投げ入れるようなものだ。水に入った石は、急流が来ない限り、その場から動かない。人も同様に、余程の経験をしない限り、その場から動くことは無い。動いたとしても、合わない環境に遭遇すると、水と油のようにその環境に抵抗する。アワビ屋の悪臭がいつまで経っても消えないように、悪い環境を離れて長い時が過ぎようとも、心の奥底に悪い気が残り続けるのだ。これでは、人が麻のように真っ直ぐ、そして素直に育つ兆しはみられないだろう。
世の人は頭に巣食うシラミと共に性質を磨き、晋の民は己の歯と共に心を染める(不明)。身の回りのものが為人を大きく左右するのだ。酷い場合には、外面は虎の紋様のように艶やかなのに、内面は美しい錦の袋に入った糞のような人間になってしまう。内面を育てなければ、美味の肉を食わず嫌いするように、物事の本質を見ることが出来ないまま生涯を送ることとなるだろう。載盆望天、頭に盆を載せたまま天を仰ぎ見ることはできないように、簡単な答えにすら気づかない人間になるだろう。なんて恥ずかしいことか、なんて悲しいことか。私は思う。
楚国の玉を光らせるには、必ず磨く必要があり、蜀国の錦江で作られる錦を美しく仕上げるには、長江で洗う必要がある。晋の載淵は遊侠に耽っていたが、志変わり将軍位まで上り詰め、呉の周処は乱暴者であったが改心して忠孝の名を得るほど、その道に忠実に生きた。つまり、人は学問や修行に励むことによって、皮の厚い犀を切り裂くかのごとく優れた才能を得ることが出来るのだ。玉は磨くことによって、価値を見出す。見出された玉は、希少品である車に相当する価値となる。人はこれに似ているといえよう。尖ることなく真面目に教えに従えば、凡人であっても大臣にまで上り詰めることは出来るのだ。逆に、教えに逆らえば、皇帝の子孫であっても庶民となる。曲がった木は縄で固定すると真っ直ぐになるということは、既に古くから言われているではないか。人は他人の諌言を受け入れることで聖人にまで成長することが出来るのだ。今の時代にできないだろうか、いや、できる。
上は天子から下は庶民の子供に至るまで、学んでないのに理解したつもりになった者や、教えに従わず我流で学んだりした者の中に、聖人まで成長した人はひとりとしていない。夏と殷は、教えに従わなかったことにより滅び、その後の周と漢は教えに従ったことによって隆盛した。これは、前を歩く者が転んだら後ろを歩く者が注意して歩くのと同じようなものである。前例が後世の戒めとなるのだ。諌めなければならない。慎まなければならない。蛭牙公子よ、耳を傾け目を見張って、謹んで私の教えを聞くがよい。お前の迷える道が何なのか見出してやろう。