蒲生君平江戸
山陵(天皇陵)に関する研究書。現在山陵の立ち入りが禁じられているため、極めて重要な史料となっている。
山陵志とは?
蒲生君平が著した天皇陵を調査した記録書です。
前方後円墳と名付けたのはこの書がはじまりとなっています。
現代語訳
①山陵における祭祀
古之帝王其奉□祖宗之而致仁孝之誠也郊以配乎天廟以配乎□祖配乎天則作之霊時至尊至厳礼弗敢涜[説在神祇志]
古の帝王は、その祖先の礼を奉じて、仁慈と孝行を尽くして政治を行ってきた。郊祀では天地を奉り、霊廟では祖先を奉る。天を奉る場として、新嘗祭の霊畤(れいじ)が生まれ、この上なく厳かにすることで、決して冒涜しない(『大日本史』「神祇志」に記述あり)。
享乎□祖則立之大官以置祝宰百世弗毀特報其有盛徳丕烈者焉[如伊勢及賀茂八幡廟是也]
祖先から与えられたものに感謝することに起因し、神宮を建てた。神官を置き、神宮は長い年月廃れることは無かった。特に、その立派な徳は大きな功烈となった(伊勢神宮や賀茂神社がこれの例である)。
而其余各就山陵以時将常典有事而祷告於是諸陵寮之職[治部省管之] 掌喪祭之礼供幣之数及陵戸名籍与其禁令而正其兆域脩其垣溝虔共所職其有儀則
そして、その徳のあまり各山陵においても行われることとなり、時を経て常例となった。事ある毎に祈りを告げる。ここにおいて、陵寮職(治部省がこれを管轄する。)は、喪にふくすことや祭祀を行うこと、献上品の管理、陵戸の登録、陵戸の規則を司り、陵墓の周溝を定めたこの職は厳格なものであったと同時に、細かい儀式や規則があった。
[延喜諸陵式謂其世之親者曰近陵疏者曰遠陵其供幣之数亦従有差歳十二月上旬寮録之併諸国山陵使姓名及驛鈴等数以申省省申大政官然後頒幣即日遣奉乃謂之荷前之祭且陵墓之側其有原野者寮仰守戸幷移所在国司共知予除之使失火無相延焼又其兆域垣溝有所損壊者令守戸脩理而専当官人巡加検校固不得葬埋臣庶及耕牧樵採也
〇按荷前之荷読為登登成也謂年熟盖薦新以其先成熟之時伝将之歳終也由名而求実起于薦新可知矣謂農神稲荷其取成熟之義可以徴矣]
(『延喜式』「諸陵式」を要約する。『その時代の為政者の墓は近陵と呼び、権力から遠い者の墓は遠陵と呼んだ。諸国からの献上品を供物として陵墓に供えるが、この数に差があり、毎年十二月上旬、陵寮職がこれを記録した。諸国の山陵へ派遣される山陵使の姓名、出張に持たされる駅鈴など、物々の数を決めて治部省に提出する。その治部省は更に太政官へ提出する。然るべき手続きを踏んだ後、幣が配分され、年末日に奉じられる。この陵墓への奉納祭を『荷前(のさき)の祭』という。陵墓側に関して、土地を所有している者は、陵寮職が陵墓を管理する賤民(守戸)に所有権を移譲する旨を伝え、その土地は国司の所在とする。官吏と民が共にこれを認知している状況を作り、原野の焼失、延焼が無いようにする。また、陵墓の周溝が破壊された場合、守戸が修理すること。そして、専属の役人を経て、物事を正す職である検校を呼び、いつも通り埋葬を行うこと。この地では、耕作、放牧、採集は行ってはならない。』
※私、蒲生君平が思うに、「荷前(のさき)」の「荷」は、読むと「登」であろう。そして「登」は登成(成熟すること)のことだ。要するに、穀物の成熟を意味する。この祭礼は、新調品を勧め、収穫に先んじて行われるため、故に、「荷前」というのである。祝礼式である荷前式。この式での献上品は初穂と呼ばれるようになる。初穂でのお供え(荷前式)は、後世において、転じて、年納めに行うものとなった。しかし、その名の本当の意味を理解しようとするならば、「諸国からの新調品を勧める」で「初」穂ということを知るべきである。農民を「稲荷(いなり)」と言うのは、成熟した(荷)命の根(稲)を取る、ということであろう。)
故曰山陵猶宗廟也苟無有之則臣子何仰焉[淳和帝臨崩遺詔令薄葬不置山陵中納言藤原吉野諫云爾]
故に、こう言う。
「山陵は宗廟(祖先の霊をまつった宮殿)のようなものである。」と。
つまり、山陵が有るというのは、無いのと違って臣下が何かを仰いでいるということなのだ。
(第53代淳和天皇が崩御した際、この期に及んで遺詔を残した。それに従い簡易的な葬式を行った。そして山陵も造営しなかった。淳和天皇の側近であった中納言藤原吉野が諌めたのだという。)
臣子惟仰乎此而祀焉則其礼隆矣律謀毀山陵謂之謀大逆興居八虐之一焉則其刑重矣是王者之以孝治天下所由而基也胡其可不畏敬哉上古大朴山陵之制未備□瓊杵氏□炎見氏□彦波瀲武氏邈矣[三陵皆在日向国]
臣下は思った。
「淳和天皇を仰ぎ祀る時というのは、つまり我々臣下が淳和天皇に対して大きな礼を示していることだと。遺詔とはいえ、律に背いて山陵を造らない。これは謀大逆(山陵や皇宮の破壊を計ること)である。」と。
分かっていながら八虐(謀反・謀大逆・謀叛・悪逆・不道・大不敬・不孝・不義)の一つを犯しているとなるとその罪は重い。王が孝をもって天下を治めるというのは基本のことであり、臣下はその恩恵を受けているというのに、どうして王を畏れ敬わないことができようか。
古い昔、山陵の黎明期にあたる、天照大御神の孫の瓊瓊杵(ニニギノミコト)、その子彦火火出見尊(ホホデミノミコト)、その子彦波瀲武 鸕鷀草葺不合尊(ヒコナギサタケ ウガヤフキアエズ)の山陵ははるか遠くの国に存在する。(三陵全て日向国にある。)
②初代神武~第30代敏達
自□大祖至乎□孝元猶就丘隴而起墳焉自□開化其後盖寝有制及□垂仁始備下至于□敏達凡二十有三陵制略同焉凡其営陵因山従其形勢所向無方大小高卑長短無定其為制也必象宮車而使前方後円為壇三成且環以溝
太祖、神武天皇より第8代孝元天皇までは小高い丘で墳墓を造っていた。次の第9代開化天皇で天皇陵の規則が誕生、飛んで第11代垂仁天皇の御代に初めて墓制が敷かれた。以降第30代敏達天皇に至るまでの約20代のうち3陵が左記の墓制で造営された。山の地形に従っており、方位に統一性は無い。大小、高低、長短にも規則性は無い。このことから、制定された墓制というのは、宮車のような形状にすることといえる。前は方形、後ろは円。3段構成で周囲に環溝をもつ。
[延暦十一年以廃太子早良為祟勅謝之其冡下置湟勿使濫穢湟溝也因知諸陵之溝亦其故然也壇不必三成挙其率言之]
(延暦4年(785)に藤原種継暗殺に関わったとして廃太子となった早良親王は怨霊となって祟った。そして延暦11年(792)、勅命により早良親王に謝罪、これ以上みだりに祟ることが無いよう墓の下に「湟」を置いたのだという。「湟」という字は溝の意味がある。このことから知った。あらゆる山陵に溝があるのは、これが理由(祟らないようにするため)なのだと。必ずしも3段とは限らない例として早良親王陵を挙げ、そして山陵に関する話もした。)
③前方後円墳の由来
夫其圓而高者如張盖也頂為一封即其所葬方而平者如置衡也其上隆起如梁輈也前後相接其間稍卑而左右有圓丘倚其下壇如両輪也及至後世民賭之而莫能識焉猶號曰車冡盖亦以是也
そもそも、円の部分が高いタイプの山陵は、傘を広げているような形をしている。頂きがモッコリしているのだ。祀る所であろう方形部の平らな部分は、上から見ると、牛馬とそれにつける衡(くびき:車を引かせるとき牛馬の首につける横木)のようである。 前方に向かって幅が広がっており、荷台と牛馬を繋ぐながえのようである。前方と後円は接続しており、その接続部は少し低く、接続部の左右には造り出しが見られる。その下が段となっているため、車輪のように見える。後世に至り、国民は山陵を見てきているはずだが、よく観察した者は一人もいなかった。それでも「車塚」と言われるのは、宮車が柩車と役割を変えて残っているからだろう。
[凡陵側之地必有三五丘冡乃視之陵頗小而班列其前後左右此盖当時所陪葬者也其状率皆円則人臣墓制亦従可知然其象宮車不必為帝陵也何者其類間有之而以其非史及諸陵式之所載莫審為何物疑是皇后皇子若重臣別勅所許或帝王改葬而其故陵尚存也]
(山陵の側一帯には、必ず3〜5の円墳が見られる。すなわち、これらが山陵を仰ぎ見る存在であるのだろう。非常に小さく、山陵の前後左右に配置されている。何故円墳が配置されているかと言うと、昔、陪葬の慣習が存在していたからである。そして円墳の形状は丸い形をしている。つまり、人臣の埋葬方法が円墳であったといえるのだ。山陵に話は戻すが、山陵の形状が宮車の形をしているからといって、必ずしも天皇陵であるとは限らない。その理由は、史記、諸陵式に山陵の情報が記載されていないからである。何を使っても前方後円墳が本当に山陵か否か明らかにすることが出来ない。疑うとすれば、皇后、皇子、もしくは重臣、特別に勅命が出された者、天皇の改葬である。改葬に伴う改陵もこれまた存在する。)
③第31代用明~第42代文武(大化の薄葬令)
自□用明至于□文武凡十陵特変是制伹円造之穿治玄室於其内而築之以堊覆之以巨石石棺在其内南面故其戸南向而累石為之羨道其制厳審既己如是是以不復環之以溝也班鳩大子治寿蔵于河内磯長即是制也当時大子自負聡明有才芸居作者之聖於旧章多所変替乃若山陵蓋亦然歟
第31代用明天皇から第42代文武天皇までの約10代の山陵においては特に変化が無い。ただし、耳にした話だと、この頃の時代から、山陵を造営した際に山陵内部に穴を開け玄室を設けだしたという。白く塗った壁で築き、巨石で玄室を塞ぐ。石棺はこの玄室の中に安置され、南面を向くようになっている。そのため、この巨石の戸は南向きであり、そこに行くまでにある石の積まれた部屋を「羨道」というのである。墓制が厳密になっていることは今記した通りである。玄室によって外界と隔離されたため、これまでのように周溝は不要となった。班鳩大子こと聖徳太子は河内国の磯長(しなが)に、生前に陵墓を造ったのだが、この陵墓も左記の墓制に従っている(聖徳太子の母は第31代用明天皇)。当時、聖徳太子は聡明な人で、才芸があり、何かを作れば聖の字がつき、時代に合わない古い法典を多く改変した。聖徳太子の陵墓は、山陵のようであるが、山陵のようでもない。
[諸陵式載大子磯長墓大子伝暦徒然艸並治寿蔵焉大子者□用明帝之子而山陵変制自□用明始是大子好異倣漢唐之制而所為然其制不惟限於帝陵下及乎諸有冠位者亦用伹視之帝陵必卑而小所以明等差也
(『諸陵式』には、磯長の聖徳太子の墓が掲載されており、『聖徳太子伝暦』と『徒然草』には生前に陵墓を建てたと書いてある。聖徳太子は第31代用明天皇の子であるから、山陵の新たな制度はこの用明から始まったのである。聖徳太子は新しいものを好み、唐の官制に倣って「冠位十二階」を制定した。これは山陵に限らず、冠位を持つ者にも適用された。ただし、臣下のみ分で山陵に及んではいけないので、必ず低く小さくした。上下関係を明確にするためである。
大化二年有詔定陵墓之度王以上之墓其内長九尺高広五尺外域方九尋高五尋上臣下臣其内皆準于上外域上臣方七尋高三尋下臣方五尋高二尋半大仁小仁其外域長九尺高広四尺平而不封焉大礼以下小智以上亦準大仁凡五等是因大子之所創而為之度也其工役王以上千人七日而竣次半之五日次又其半之三日次百次半之並一日也
大化二年(646)に『大化の薄葬令』が出され、陵墓の規模が定められた(古墳時代の終焉を意味する)。「天皇以上」「上臣・下臣」「大仁・小仁とその一族」「大礼~小智」「庶民」といった階級別の墓制が敷かれた。天皇以外の墓について記す。まずは「上臣・下臣」について。中は、長さ九尺、高さ五尺。外は、長さ九尋、高さ横幅五尋。中に関しては、冠位を持つ上臣とそうでない下臣の区別無く、左記の決まりが適用される。外に関しては、上臣は長さ七尋、高さ三尋。下臣は長さ五尋、高さ二尋半となる。「大仁・小仁とその一族」について。長さ九尺、高さ横幅四尺。形状は平らにし、蓋はしない。「大礼〜小智」について。これは大仁に準ずることとする。約5階級(厳密には、「礼信義智」の4階級)の墓制が大仁に等しいのは、いずれも聖徳太子が創った『冠位十二階』の位階だからである。
造営日数、動員人数について。天皇は1000人、工期7日。上臣は半分の500人、工期5日。下臣はさらに半分の500人、工期は3日。大仁・小仁は100人、工期は1日。大礼〜小智はその半分の50人、工期は1日。である。
古者棺椁之制檀弓曰四寸之棺五寸之椁又曰棺周於衣椁周於棺土周於椁喪大記曰棺椁之間君容柷大夫容壺士容甒
古く、墓制について周から漢の時代に成立した『礼記』「檀弓上」ではこう書かれている。
『一般の民の葬儀には、厚さ四寸の棺、あるいは、厚さ五寸の椁を用いるのが良い。』と。また、『遺体には衣をかけるが、棺はその衣を着た遺体を覆う。椁はその棺を覆う。最後に椁を土で覆えば良い。』とある。
同じく『礼記』「喪大記」ではこう書かれている。
『身分によって棺と椁間の広さの度合いが決まる。君主を棺に入れる時は柷が入るくらいの余裕を、大夫を入れる時は壺が入るくらいの余裕を、士は小さい瓶が入るくらいの余裕をとる』と。
言其巨細不過如此而春秋戦国之間諸侯強僭日甚羨道周謂之隧隧者王章也曩以晋文之功而所不見許至乎僭王者又何憚哉即其家之高壮堅密以務其侈至秦始皇而極矣
陵墓の大小にこれが適用されるのは、この時代のみである。そうして漢の次となる春秋戦国時代、諸侯は力を強め、度を過ぎることが甚だしくなった。羨道は周の時代には「隧(ずい)」と呼ばれた。隧とは、王の証である。春秋戦国時代の晋の王、文公は王以外の陵墓造営を許さなかった。とはいえ、王に対して度を過ぎたことをする者が、どうして憚るようなことをしようか、いやしない。そういう訳で、各々が王を名乗る事態となり、墓が盛大となること限りなく、春秋戦国時代を勝ち抜いた秦の始皇帝の時代に隆盛を極めたのである。
西京襍記広川王去疾発堀魏襄王塚皆以文石為高八尺許広狭容四十人以乎手捫椁滑液如新又幽王塚甚高壮羨門既開皆是石堊併考之今陵内玄室亦謂之椁歟]
秦の次の時代である前漢。前漢の逸話集である『西京襍記(せいけいざっき)』によると、広川県の王、去疾は魏の襄王(人物名ではなく、王に死後与えられる名)の塚を発掘し、全てに墓誌を刻んだ椁を設けた。その高さ八尺、広さは四十人が入るほどである。手で椁を開けてみれば、新しい滑液のように滑らかに動くのである。また、周の時代の幽王の墓は非常に壮大で、羨門を開ければ羨道はなく、すぐに石室となっている。
以上のことから、今我々が言う陵墓内の玄室というのは、椁とも表現できるのではないだろうかと考えられる。)
⑤平城京遷都
迄于南都更復旧制惟其所仍正南面而已矣古之大喪厥紀無伝然観乎山陵遺制及石棺暴露者則其牆翣衣衾珠襦玉匣與夫銘旌皷吹之儀祭奠明器之数雖一無見文献之可徴猶足以知其礼物之有在焉
奈良時代、南都(平城京)に都を移してから旧制が復活した。私が思うに、復活したと言っても、それは正南面部分のみか。先ほど記した『喪大記』にはその記録は載っていない。しかしながら、今にまで残っている山陵の制度及び石棺を開けて得られたのは、牆翣(壁)・衣衾(死体を覆う布類)・珠襦玉匣(宝石類)に記された銘、旌(旗)、皷吹方相の儀式、祭奠(祭りのお供え物)や明器(日用の器物)の数といった情報である。これらは文献から読み取れることはできないが、実際に見ることで、礼物が存在していたことを知るには十分の資料である。
⑥殉死と埴輪
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