現代語訳(続き)
⑥殉死と埴輪
而至如其用殉雖曰甚惨其所由起亦必有以矣盖国初左命功臣與宗社同休戚其忠誠惻怚之心曷嘗不期以死終始哉方臨大喪自刎陪葬以遂宿志者或有之而流風慕尚因仍成俗卒至於使生平所愛必例從死焉乃以□垂仁帝之斎聖仁恕也而為之惻然不忍其臨穴惴惴無罪而就死地誕能発徳音建明制代以土物置土師臣以司喪紀且石棺之設□先朝既有而製造未有専職至是置石作連以治焉
これらは皇族の死に付き従う臣下らの殉死(生き埋め)に用いられたものである。非常に心が痛むことだと思うが、ことが起こるには必ず理由がある。私の見解を二つ述べる。一つ。日本創世のころ、天皇の治国を補佐した功臣は、国家と幸不幸を同じくするものであった。その忠誠ゆえ天皇が亡くなり心を痛めること、悲しみが止まない。そこで死を同じくして悲しむことを終わりにしたのである。二つ。天皇崩御に行われる大喪の礼に臨む際、かねてからの願い(天皇と生死を同じくすること)を遂げるため己の首を刎ねて天皇の山陵の近くに墳丘として埋葬させた可能性も考えられる。その風潮を崇めるようになり、結果として慣習化した。普段から君主を愛することは当たり前であったため、殉死という手段に至ったのだろう。すなわち、垂仁天皇の慎み深く賢い、そして誠実さと思いやりによって殉死は廃止されたのである。罪を犯したわけでもないのにビクビクしながらその穴に臨み死を迎える彼らを見て徳あるお言葉を発した。新たな制度として、殉死に代わる、埴輪を置くようにしたのである。埴輪製作の専門として土師臣を設置し、喪事を管轄した。石棺に関しては、既に過去から存在していたため、専門の氏族は置かれなかった。そのため、石作連(いしつくりのむらじ)が設置されたのである。
[垂仁帝二十八年倭彦薨用近臣為殉生埋之其呻吟之聲旬月不絶□帝聞之惻然乃詔羣臣曰生之時愛死而為殉不亦惨乎此雖古之遺制安可遵用自今議止之明年□皇后崩詔曰殉死之俗前知不可今是葬也為之如何野見宿禰奏請以土物代之□帝嘉之立為永制以野見居其官乃因官賜姓土師臣又拠姓氏録方此時武真利根献石棺賜姓石作連然石棺暴露□孝昭陵以下往往観之則非始於此故曰□先朝已有]
(垂仁天皇28年、第10代崇神天皇の子である倭彦命が薨去した。この際、近臣はこれに殉じた。生き埋めにしたその叫び声は何日も絶えなかった。垂仁天皇はこれを聞いて心を痛めた。そして臣下らに詔を発したのである。『生前愛していたが故にその者が死ねば殉死する。なんと凄惨なことか。殉死は古から続く制度ではあるが、どうして従う必要があろうか、いやない。これより会議を開き、殉死の禁止を止めるようにせよ。』と。翌季節、垂仁天皇は崩御した。また、詔を発した。『殉死の習わしは既に禁止した。私の葬儀で殉死に相当するものは何か無いか。』これに野見宿禰が土物で代用することを奏上、垂仁天皇は大いに喜び、以降埴輪で代用することを法として定めた。野見宿禰はその官職に就任。官職名になぞらえて、土師臣の姓を賜ったのである。また、『新撰姓氏録』によると、建真利根命が石棺を献上し、石作連の姓を賜ったという。しかしながら、石棺を開けて見ると、第5代孝昭天皇陵以降往々に見られるため、建真利根命が石作連の祖とは思えない。故に、『新撰姓氏録』には「石作連は先朝に既に存在した。」と書かれている。)
其卜塋兆程土物而興徒庸也必徴於天下諸国然民以其哀如喪考妣乃咸子来服役無以為厲
墓地の場所を占い、埴輪制作に人夫を限りなく従事させた。必ず諸国にまで伝播するであろう。強制的に従事させていたが、民は哀れんで、父母を弔うかのように、父母を失った子のように埴輪制作に集まり仕事に徹し、これがかえって災いとなるようなことは無かった。
[応神陵北東之隅営築未了處名甲斐阪土人伝是当時甲斐人所当役会其邦有故不解得来焉而後遂不復治也久□仁徳陵上凹處名尾張谷即尾張役夫不畢其功者然也口碑所存実其爾哉]
(第15代応神天皇陵は、東北部分の隅に造営が完了していないところが見られる。これを「甲斐阪」と言う。地域の住民はこう伝えられたという。『この部分は、当時、甲斐国の人が役にあたっていたのだが、途中で色々あって甲斐国から来ることが出来なくなった。それ故完成しなかったのだ。』と。また、第16代仁徳天皇陵の上部にある凹んだ部分は、『尾張谷』と言う。これは、尾張国の役にあたった人が未完成のまま造営を終わらせたためだという。これに関する伝承が存在するため、本当なのだろう。)
⑦薄葬令の変遷
孝徳中興爰制其度几陵墓高卑之等其工役之課乃有常程[評見前註]
改新の詔を発した第36代孝徳天皇は新たに制度を作り、陵墓の身分差、課役などを定めた(前に記した『薄葬令』参照)。
及□中宗継統及其徳之不如き古深恤民隠止其役焉
中宗こと第38代天智天皇の代となり、その徳は古の天皇でさえも及ばないほどであった。深く民を慈しみ、この課役を廃止した。
[天智帝葬其母斉明帝于越知以□聞人大后祔焉而曰我奉□天皇□大后之遺詔以深恤民隠不敢興石椁之役冀永世以為鑑戒〇按石椁謂穿治玄室於陵内盖其営以労民大重故工役之費乃官給之不復徒労]
(天智天皇は第35代斉明天皇を越智にて埋葬した(越智崗上陵)。天智天皇の妹である間人皇女も合葬されている。天智天皇は言った。
「私は斉明天皇と間人皇女の遺勅を仰ぎ、民を慈しんで石室の造営の課役をしなかった。私は願う。これを未来永劫の戒めとなることを。」と。
※蒲生君平が思うに、石室は、石を穿いて羨道を作り、陵墓内に設ける必要があった。ただ、これは民の負担が非常に大きい。浮いた課役の費用は専門の官が貰い受け、民に代わって作業にあたったのだろう。無駄な労力も抑えられる。)
夫惟恤民隠是以能止其役焉故□斉明及□天智陵是其治之也無乃從儉乎然而君子不以天下儉其親而況王者乎郁冝□後朝不敢安之即就其陵更修造是亦所以追思継孝也
繰り返すが、民の苦しみを慈しみ、その課役を廃止した。故に、斉明天皇と天智天皇の陵墓は簡素なものとなった。つまり、その地位でありながら贅沢に走ることが無かったのだろう。しかしながら、君主というのは天下を治めるものであり、親に対して簡素な扱いをするだろうか。天皇ならなおさらである。なるほど、だから後世において朝廷はこの陵墓を安く扱わず、修造を加えたのか。万世一系の天皇家というのは、先代の思いに共感し、孝徳を継ぐものだからであろう。
[持統帝元年皇太子率公卿百寮国司国造及百姓男女営大内山稜可見此復興其役焉□文武帝二年冬十月修越智山階二陵所謂山階是□天智陵也明其所初築皆從儉也]
(第41代持統天皇は、朱鳥元年(686)、草壁皇太子をはじめ、公卿、多くの寮人、国司、国造、百姓男女を率いて檜隈大内陵を造営した。造営後は天武天皇が、しばらくして持統天皇が合葬された。この記録から、課役が復活していることを知っていただきたい。文武天皇2年(698)10月、越智(第35代斉明天皇陵)と山科(第38代天智天皇)の2つの山陵を修造した。両天皇陵は上に記した通り、簡素に造営されていた。)
⑧第41代持統天皇(火葬のはじまり)
夫古之俗其狎乎鬼神而涜斎盟所以求福於冥寞之間固民性蒙昧之為而逮乎仏教之行拠是攬衆志獲国権擧喪祭之紀莫不咸為之所乱而自□持統之喪始行火葬其為弊也世以甚矣
そもそも、古に作られた習俗というのは、前の制度に慣れてそれを冒涜し、徳をあの世に求めようとした結果新しい制度が作られるという動態を示す。もともと日本人は道理に暗いため、仏教を取り入れた。仏教は民衆の志をひとつにまとめ、国権を獲得する力となり、喪にふくすことや祭祀を行うことといった習俗は終わりを告げた。仏教がこれを乱すことは必定であった。こうして、持統天皇の代から火葬が行われはじめたのである。その弊害は非常に多かった。
[列子楚之南炎人之国其親戚死朽其肉而棄然後埋其骨乃成為孝子泰之西有儀渠之国其親戚死聚紫積薪而焚之燻則煙上謂之登遐然後成為孝子此上以為政下以為俗而未足為異也夫然則夷蛮之喪固有如是者而仏之所生身毒国或與儀渠同俗故亦行火葬也後世浮屠氏曽不之識奉以為典章者乃不深思之過也□持統帝之時宇治之僧道昭其死始行火葬矣然彼者方外之士固不足怪今至其用諸大喪不亦悲乎]
(『列子』「湯問」にはこう書いてある。「楚の南に炎人の国があった。親戚が亡くなった際、肉を朽ちさせてから捨て、その後で骨を埋めた。これがこの国における孝行である。秦の西に儀渠の国があった。親戚が亡くなった際、芝を集め薪を積んでこれを焚き、煙を上げる。煙を上げることを『登遐』といい、これが孝行であった。上は政治を作り、下は習俗を作る。それらは違うものだがその本質に違いは無い。」と。その証拠に、儀渠国の葬儀習俗が各地でも見られることが挙げられる。仏教が浸透している所の習俗が、インドや儀渠国の習俗と共通しているのだ。故に、仏教が伝来した日本で火葬が始まったのである。後世において、僧侶はこのことを認識していなかった。仏典を作った者が深く考えていなかったのだろう。持統天皇の御代、宇治の僧侶であった道昭は日本で初めて火葬が行われた人物である。しかしながら道昭は世俗を離れた身。初めてのこととはいえ、宗教者であれば奇妙に思うまでもない。今、火葬が古墳に取って代わるものとなったのは、何とも悲しいことである。
⑨平安遷都(仏教普及による問題)
及皇都奠于平安則其郊野之際負山帯川不甚博其丘阜之形盖亦冝陵者鮮矣是以其陵率皆平地之所築而遺詔依例以薄其葬蕞爾坏土無復如旧況其火之不必於陵所也余燼遺骸輶于毛髪由是遷徒弗一而塔擬山稜僧司喪祭不復奉諡遂停尊號其自居儉雖如是也至乃鋳造仏像経営伽藍務窮荘厳尤極竒麗大費国用曽莫之䘏嗟夫廃□先聖之礼奉異端之説惑已甚矣而其獘之極以山法師富擬於□王室権威於禁衛邪行横作常犯其上動輙搆兵不可復制以鴨河之暴沸為患京邑氾濫衍溢民弗安處猶得與之並称反殊劇焉
平安京に遷都した。周りは原野がなく、山に囲まれ川が通っているような場所で、非常に狭い。小高い丘ははっきりとした形をしており、まるで山陵のよう。これをそのまま山陵に用いたため、山陵が連続するようになり、そして平地に造られるようになった。加えて遺勅(『薄葬令』のこと)が効力を持ち、薄葬が加速した。非常に小さい埴輪の制度も再興される見込みもない。これらが隆盛したのは、必ずしも山陵という場所が要因ではなかったということだろうか、いや、違う。残り火や遺骸、毛髪よりも軽く扱われるようになっていた。仏教により、人々が移動し住む場所が変化したことはもとより、山陵に似せてお堂が造られるようになったという変化も生まれた。僧が喪や祭祀を司るようになり、神道の風習であった諡を奉じることも無くなり、ついには尊号も停止された。仏教の普及により自ずから倹約的な葬儀になったことは記した通りである。しかし、山陵の代わりに仏像を鋳造し、伽藍を維持する点に関しては、荘厳さを極め、絢爛さを極め、国の税金を大いに投入し、それを気にかけることもない。ああ、先帝が繋いできた「礼」を廃し、外国から来た異端の教えを奉じるとは、心惑わされていること甚だしいではないか。こうしてその弊害は極まり、比叡山延暦寺は朝廷に匹敵するほどの富を蓄え、その権力は皇居の護衛職よりも強いものとなっていった。数々の蛮行は度が過ぎたもので、どうかすれば兵を構えて力で解決する。鴨川の水は都を煩わせた。氾濫や過度な増水は民を安心させない。僧兵に並んで、特に制御できないものとして挙げられる。
[白河法皇有言曰不從朕心惟雙陸采鴨河水山法師也已]
(第72代白河法皇は言った。『私の意思に従わないのは、「サイコロの目」「鴨川の水」「山法師」である』と。)
⑩戦乱と火葬の廃止
邦国憔悴職是之由而自紀綱不振官失其職諸陵寮廃奉幣使絶而後発陵盗蔵無所畏憚戦国喪乱之際其禍何遏所在伽藍遇兵尽残塔中所蔵亦從而亡鳴乎可勝慨哉幸而其所完以存惟泉涌寺諸陵及其余二三也已矣夫喪祭礼之大経也而天下離世多難至乃園陵廃春秋闕如此之極命也謂之何既自臨大喪而火其葬点靈車赭梓宮堂堂例典委灰燼幾何其不化為夷蛮哉近世国恤纔止之自□後光明始
当時の我が国の疲弊は、有名無実化したかつての官職を残しているためであった。法が使い物にならないため、山陵造営に関わる官は職を失った。また、諸陵寮、奉幣使は廃止となった。こうした後、山陵では盗掘が相次いだ。畏れ憚る気持ちも無い。戦乱の世となり先帝の山陵が荒らされた深い悲しみを覚える。どうして山陵が戦禍から逃れることができようか。僧兵に見つかっては外観を悉く破壊され、それに従って石室も荒らされる。ああ、これに優る憤慨はあるだろうか、いやない。幸いなことに、完全なものとして残ったのは、泉涌寺の諸陵と、その他二、三箇所ほど。そもそも、喪にふくすことや祭祀を行うことは「礼」における最重要な行いである。墓制に様々な変遷があった。そのような多難を極めた世が終わり、古墳を廃し、造営される年月は消えた。このようなことになったのは運命だったのだろう。何と言えば良いだろうか。。。既に喪祭は火葬となった。霊柩車に乗せ、主君の遺体を入れた棺は赤に塗飾される。儒教の礼典は仏教の普及により堂々と灰燼に帰したのだ。どれほどの物が仏教に取って代わられ、異民族の国となってしまったのか。17世紀においては、憂いの心が僅かとなり、火葬ですらも中止となったのである。
[後光明帝近世聖主也幼而英明慨然有志於復古不幸短命春秋二十有二以痘瘡□崩時朝議依旧将火葬有一民鬻魚為業者呼八兵衛常聴命於宰夫出入宮門聞之大悲働歎曰嗚呼□聖天子何天命之薄也可奈之何且夫火葬者非聖人之道也況令大行在天之靈盖嘗疾浮屠氏之虛誕斥異端最甚而其送終尚從事於其所斥邪吾小人苟目不瞑不肯從朝議敢諫争止之不能則身死之於是奔走於□仙洞及執政之門所至號哭悲泣敢請止火葬以從大行之志也朝議輙為之改而火葬止焉盖感八兵衛忠誠也噫匹夫有志何事不成上之人不為則其可慚已甚矣]
(第110代後光明天皇(1633-1654)は、近世の天皇である。幼い頃から聡明で、心を奮わせるほど復古への関心が高かった。しかしながら不幸なことに短命に終わり、22歳にして天然痘で崩御した。先例により、朝議において火葬が決定され、正に執り行われようとしていた。その時、魚商であった奥八兵衛という者は、御所からの注文を受けており、御所を頻繁に出入りしていた。火葬の決定を聞いた八兵衛は、大いに嘆いて言った。「ああ、なんと後光明天皇の天命が薄いことか。火葬をどうしたら良いか。火葬は仏教の習わし。後光明天皇が生前復古に関心が高く、仏教を信仰していなかった。故に火葬は後光明天皇の貫いた道ではない。火葬は不仁である。思うに、後光明天皇の霊をはじめ、死者の霊は、かつて僧侶が誕生した時、仏教などという異端を甚だ退けようとしたはずである。どうして今はそれが甚だしくないと言えようか。となれば、私が今、当時のように仏教を退けようとした先人に従おうではないか。私は道理に暗い身分ではあるが、この不仁に目を瞑ることは出来ない。朝議には従わず、論争することにしよう。火葬は止める。火葬を中止出来なければ、私は後光明天皇に殉死する。」と。そして御所や大臣の邸宅を奔走し、号哭し、号泣した。「火葬を中止し、後光明天皇の志に従いませんか。」と。そして朝議によりこれが受け入れられ、火葬は中止となったのである。八兵衛の忠誠、誠に感心する。ああ、商人という卑しい身分ですら志があれば、事を成すことができるのだ。学者という、いえば上の身分である私が何も成すことが出来ないなど、恥ずかしいことこの上ない。)
⑪『山陵志』制作にあたって
以□百王之弊其所革先発乎此如其悉皆復諸礼天将有待其時而然耶令竊因古圖参覧旧記周視陵地咨問蒭蕘尚有可以考見作山陵志
歴代天皇の風習をもとに、残らず全てを墓制に関してどのような改革が成されてきたかをまず記した。残らずこれを記そう。今回のように「礼」に復するようなことは、あるいは天が、その時を待って然るべきことをするか(後世において評価されたその時が「礼」に復するときとなるか。の意)。今、古い図をもとに旧記に記された土地に足を運んでいる。陵地をくまなく観察し、この書に記す。後世、身分の低い私のこの書に諮問する、もしくは、この書から考察するべきことがあるだろう。この書、『山陵志』を作る。