文学

東関紀行<マップ付き全現代語訳>③静岡県編

東関紀行の静岡県編を現代語訳しています。
作品を知ろう!!!

作者不詳鎌倉

京都~鎌倉までの旅を綴った紀行文。各名所の感想を和歌で締めくくる形式で統一されている。

東関紀行とは?

『東関紀行』の解説はこちらに掲載しています、是非ご覧ください。

東関紀行の序文、滋賀県編を現代語訳しています。
東関紀行<マップ付き全現代語訳>①序文・滋賀県編 東関紀行とは? 『東関紀行』とは、作者不詳の紀行文です。 特に有名な紀行文は3つあり、これは中世三大紀行文と呼ばれて...

全行程の地図だけ掲載しておきます!

静岡県の旅路

静岡県の旅程
①高師山 ⑪峠
②浜名 ⑫梶原景時供養塔
③橋本宿 ⑬清美関
④天竜川 ⑭興津
⑤今の浦 ⑮蒲原宿
⑥事任神社 ⑯田子の浦
⑦小夜の中山 ⑰浮島ヶ原
⑧菊川宿 ⑱千本の松原
⑨岡部 ⑲伊豆国府
⑩宇津山 ⑳三嶋神社

 

番号とリンクしています。

①高師山

三河国と遠江国の境に、高師山という山がある。山を越え終えたあたりで、谷川が流れ落ちており、岩瀬にあたった波が大きな音を立てているのが聞こえた。この川を境川というのだとか。

岩づたひ 駒うち渡す 谷川の 音もたかしの 山にきにけり

馬に乗って岩伝いに山を越えようとしている私の前に現れた谷川。国境というにふさわしく境川というらしい。そして川は、この高師山の名の通り、非常に大きな音を立てて流れている。

②杭瀬川(岐阜県)

杭瀬川という所に泊まった。夜が深くなったころに川端に出てみると、秋の盛りに見られる夜の晴天、美しい月が清らかな川瀬に映っていた。月だけに、これを見ては旅を始めてからの月日の移ろいが思われた。

二千里離れた所にいる友人のことが遠く思いやられて、旅愁をひどく抑えられなくなったので、墨汁のような月の影に筆先を染めてこう綴った。

『花の都を旅立って三日、杭瀬川に宿をとって一夜、しばしば中秋の十五夜の月に向かって愁いを述べてきた。数々の旅情を遠く千里先の雲に送る。』

そしてある家の障子に続けた。

しらざりき 秋の半の今宵しも かゝる旅ねの 月をみむとは

こうなるとは知らなかったよ。秋の半ばとなった今宵、このような旅情溢れる旅先で十五夜の月を見ることになるとは。

③今宿

萱津にある萱津宿の東宿という所の前を過ぎると、そこらじゅうの人々が集まり、里中に響くほど大声で騒いでおり、賑わっていた。「市の日にあたったな。」と教えてくれた。

往来の類の者の手には家族への手土産が多く握られていた。かの素性法師は

『見てのみや 人に語らむ 桜花(※5)』

と詠んでおり、その情景では花の筐(竹かご)が思い浮かばれるのだが、ここでの人々が握っているものはまた違ったものであった。風流は感じない。

花ならぬ 色香もしらぬ 市人の 徒ならで かへる家づと

花でもない、色香も知らない、何かを市で買う人々。彼らは土産を手に、それぞれの家へ帰るのである。私は風流を知っているが、帰る家はない。彼らと逆だな。

※5

古今春上

みてのみや 人にかたらむ 桜ばな てごとにをりて いへづとにせむ

この美しい桜を誰かに見て欲しい、誰かに話したい。しかし、桜の木はここから動かない。そうだ、枝ごと折って、土産にしようではないか。

④熱田神宮

尾張国熱田神宮に着いた。神社に巡らされている垣根(=神垣)が近かったので、そのまま参拝した。その道すがら、側に立っている長い年月を経た木立の間から、夕日の光が所々差しこんでいた。朱色に輝く神垣が色を変えて、ゆうしで(社殿前のしめ縄に吊るされるジグザグ状の紙)が風になびいて乱れ舞っていた。

何かと神々しい空間ではあるが、そんな中、寝ぐらを争うサギの群れは数知れず。梢に無数のサギが留まっていたが、これが雪が積もっているようにも見えた。遠くから見ると謎の白いものである。サギの群れはあれだけ寝ぐらを争って騒いでいたのに、暮れゆくにつれて徐々に静まっていく。それがとても寂しく思われた。

ある人が言った。

「この宮はスサノオノミコトが祀られている。初めは出雲国で宮造りなさって、そこで詠まれた『八雲立つ』という歌から、和歌は始まったのだ。その後、第十二代景行天皇の御代に、この場所に神宮を建立なさった。」

また、こう言う。

「この神宮の本殿には、草薙の剣という神剣が祀られている。景行天皇の御子、日本武尊は東部に住まう蛮夷を平定したのだが、その帰りに、白鳥となって天に召された。剣はこの熱田に留め置かれることとなったのである。」

一条院こと第66代一条天皇の御代、大江匡衡という博士がいた。長保年間の末である長保三年(1001)、尾張国の国守として赴任していた時、この神宮で経供養を行った。大般若経を写経した。経供養を遂げた時に作成した願文に、『我が願いは既に叶った。仏眼のまた叶った。今、私は故郷である都に帰ろうとしているが、未だやり残したことがいくつもある。』と書いたという。大江匡衡は死ぬわけではないが、未練を残したままこの世を旅立った日本武尊と同じ様な境遇に思われて、寂しく、そして心細く思われた。

思ひ出の なくてや人の 帰らまし 法の形見を たむけをかずは

大江匡衡はこの国での思い出もなく京に帰ったのだろうよ。経供養で写経や願文を奉納しなかったのなら。

⑤鳴海

熱田神宮を出て、鳴海潟という浜路に入った頃には、夜が明けようとしていた。有明の月が影を残し、群れから離れた千鳥が飛び渡っている。この千鳥が自分のように思われて、旅の愁いがなんとなく沸き起こって悲しみが深くなってしまった。

古郷は 日をへて遠く なるみがた 急ぐ汐干の 道ぞ苦しき

鳴海潟というだけに、故郷は日に日に遠くなるのみであると感じさせられるよ。引き潮でのみ現れるこの砂浜を急ぎ進むのは心苦しいものだ。急がないと、行く道も帰る道も無くなってしまうのだから。

⑥二村山

まだ夜が明けないうちに二村山にさしかかった。山を越え終えようとした頃に、東の方角がだんだん明るくなってきて、海が遥か遠くに現れた。波と空がひとつとなって、山路に続いているように思われた。

玉くしげ 二村山の ほのゝゝと 明けゆく末は 波路なりけり

今この情景は玉櫛笥のようだ。蓋と箱の「二つ」でひとつの玉櫛笥。これを開けると美しい化粧道具が入っている。「二」村山でほのぼのと「明け」ゆく空。明けた後に見られるのは化粧道具ともいえるほど美しい波路である。

⑦八橋

その後も進み続け、三河国八橋のあたりまで来た。在原業平が詠んだ歌、

『唐衣 着つつ慣れにし 妻しあれば はるばる来ぬる 旅をしぞ思ふ』

の情景が思い浮かばれた。

在原業平は東下りの際、八橋を渡った後にこれを詠み、聞いた皆が故郷に残した妻子や友人を思って、かれいいの上に涙を落としたのだ。いざ現在の八橋。その辺りを見渡すも、カキツバタと思わしき草は無くて、ただただ稲ばかりが見えるだけであった。

花ゆゑに おちし涙の かたみとや 稲葉の露を 残しをくらむ

カキツバタも稲も同じく植物である。在原業平は、あの時落とした涙の形見として、稲の葉に露を残していったのだろうか。

源義種が三河国守として赴任してきた時、京に残った女のもとに送った歌がある。

『もろともに 行かぬ三河の八ツ橋を 恋しとのみや 思い渡らむ(※6)』

それが思い浮かばれ、自分の境遇とも似ていて、何とも悲しいことか。そう思った。

※6

もろともに 行かぬ三河の八ツ橋を 恋しとのみや 思い渡らむ

一緒に行きませんか。ただあなたを恋しいと思いながら、三河国の八橋を渡っています。この橋を渡ったら会えないのですから。

『拾遺和歌集』別部にはこう書いてある。

「源義種が三河介として赴任した際、京に残した娘のもとに送った歌で、詠んだのは義種ではなく、娘の母である。」と。

義種の歌として噂が立ったので、この紀行を見るからに、作者は思い違いをしていたのだろう。

⑧矢作⑨宮路山⑩赤坂宿

矢作という所を出て、宮路山を越え終えようとした時、赤坂宿を見つけた。

大江定基こと寂照は三河守に赴任した。このために京から連れてきた女がいたのだが、女はここ赤坂宿で亡くなり、このことが原因で寂照は出家したという。「何と悲しいことか」と思いながら通過した。

人が出家を思い立つ要因は一つではない。しかし、忘れられない別れに心乱され、迷い続けることを道しるべとして、仏門をくぐることは尊い事だと思う。

別れ路に 茂りもはてで 葛のはの いかでかあらぬ 方に返りし

別れの道となったこの場所。生えていた葛の葉は繁りを過ぎて枯れはてている。寂照は仏門に、女はあの世に。二人よ、どうしてそのような方に行ってしまったのか。

⑪本野ケ原

本野ケ原に着いた。四方の眺めは良く、山も無いし丘も無い。古代中国、秦国の王都周辺の広い土地は千余里あったという。それを見ているような心地がして、一面に広がる草木は青々と繁茂していた。月夜の眺めはどれほどだろうと思われ、ずっと頭から離れなかった。

生い茂る笹原の中にたくさんの踏み分けた道があり、道に迷いそうになったが、古武蔵の前司殿こと第三代執権北条泰時公が先導の者に命令して道標として植えさせた柳の木のおかげで迷わずに済んだ。まだ影に休めるほど成長してはいないが、とりあえず道標としては活躍したので嬉しく思う。

古代中国、西周の政治家である召公奭は周を建国した武王の弟である(誤りか。そのような史料は確認されなかった)。

成王の三公(太師・太伝・太公)の一人(太師)として、燕国を治めた。陝の西方を治めていた時、一本の甘棠の木の下で政務を行った。官吏をはじめ諸々の民に至るまで、その木の下の感謝を忘れなかったという。というのも、全ての人の苦しみを断ったり、重罪であっても宥めて説教したりするという善政を敷いたからである。国民は皆、彼の徳政を懐かしみ、この世を去った後も象徴ともいえる甘棠の木は切らなかっただけでなく、彼を偲ぶ歌をも作ったのであった。

処は変わって日本。第71代後三条天皇がまだ東宮でいらっしゃった時ことである。東宮は「州民縦発甘棠詠 莫忘多年風月遊」という漢詩をお作りになった(『今鏡』)。

「召公奭を慕った民のように、善政を敷いたことに感謝されたとしても、風月を感じる遊びを忘れるでないぞ。」という意味である。

東宮がこの歌をお作りになった時期は、学士実政こと藤原実政が国司として任国に赴いた時期であろう。

たいそう畏れ多いことだと思う。前の司こと北条泰時もこの召公奭の功績に倣い、民をはぐくみ、ものを憐れむあまり、道行く人々の往来の影となるよう、道の側に柳を植えたのである。

これを見た者は皆、

「『かの召公奭を偲んだ海の向こうの民のように、この柳の木を惜しみ育てて、往来の人々の影休みとなれるように。』そのような願いがあってのことだ。違いない。」

と思うのであった。

植ゑ置きし 主なき跡の 柳原 なほその陰を 人やたのまん

植えた柳原の主はもういない。けれども、その影を人々は頼みにしているのだよ。お前の主は亡き今も慕われているよ。

⑫豊川⑬渡津

豊川という宿の前を過ぎたあたりで、ある者の話を聞いた。

「このあたりは昔、この道しか通る道がなかったんだけれど、近ごろは渡津という道が出来てね。多くの旅人はそちらを通るもんだから、今はこの道にあった宿だけでじゃなくて、人家も渡津のあたりに移動してしまったんだよ。」

これまで馴染み住んでいた土地を捨てて新しい土地に移動する世の習い。当然のことではあると思うが、どうしてそれが当然なのかは私には分からない。昔から馴染み住んでいた里人が浮かれてここを出て行く有様は、かの和歌

『~伏見の里の 荒れまくも惜し(※7)』

の情景が思い浮かばれた。

覚束な いさ豊河の かはる瀬を いかなる人の わたりそめけん

川の流れによって常に変化する豊川の瀬。これを初めて渡った人はどのような人で、どのような思いだったのだろうか。

※7

『古今和歌集』雑下 よみ人しらず

いざこゝに わが世はへなむ すがはらや ふしみの里の あれまくもをし

私はここで人生を過ごす。菅原伏見が荒れていくのが惜しいと思われるのだ。私が出て行くと、人一人分荒れていくから。

まとめ

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