文学

遠野物語<現代語訳#1>序文・1話~20話

11昔の人

この話に登場する「女(=のちの嫁に同じ)」は、母と子1人と住んでいる。嫁ぎ先で姑との仲が悪くなったので、しばしば親里へ帰ることがあった。

その日、嫁は親里の家で寝ていた。昼頃になって突然、息子が言った。

「ガガはとても生かしてはおけん。今日こそはきっと殺そう。」

そして、大きな草刈鎌を取り出し、ごしごしと研ぎ始めたのだった。その様子が戯れ事にも見えなかったので、母は息子に様々な事を分けて詫びたが、息子は少しも聞く耳を持たなかった。嫁も起きて泣きながら息子を諫めるも、息子は全く嫁の言うことに従う様子もなく、それどころか母が逃れようと家を出る姿を見て、前後の戸口を残らず全て閉ざしたのだった。

母が「便用に行きたい」と言うと、「俺が外から便器を持って来る。これにしろ」と言う。夕方になって母はついに諦めて、大きな囲炉裡の傍らにうずくまり、ただ泣くのであった。

息子は十二分に研いだ大鎌を手にして母に近寄り、まず左の肩口を目がけて薙ぐようにした。すると、鎌の刃先が炉の上にある火棚に引っかかって上手く斬れなかった。その時母は、弥之助(9山男)が深山の奥でしたような叫び声をあげた。二度目は、右の肩から切り下げたが、母はそれでもなお生きていた。

そこへ里人が驚いて駆けつけてきて、息子を取り抑えてすぐに警察官を呼んで引き渡したのだった。警官がまだ棒を携帯していた時代のことである。母は「男」が捕えられて、連れていかれるのを見て、血が滝のように流れているにもかかわらず、

「私は恨みも抱かずに死にますので、孫四郎はお許しください」

と言う。

これを聞きて心を動かされない者はいなかった。孫四郎は連行される途中でも、鎌を振り上げて巡査を追い廻しなどしていたが、「こいつは狂人だ」ということで放免された。家に帰り、今も里で暮らしている。

※「ガガ」とは方言で、母という意味である。

12昔の人

土淵村山口に新田乙蔵(にったおとぞう)という老人がいた。村の人は彼を乙爺(おとじい)と呼んでいた。

今は九十歳弱で存命であったが、病を患って死が近づいていた。長年、遠野郷の昔の話をよく知っいたため、「誰かに話し聞かせたい」と口癖のように言っていたが、乙爺があまりにも臭かったので、彼を立ち寄って話を聞こうとする人などいなかったのだった。所々に存在する館(たて)の主の伝記、家々の盛衰、そして昔からこの郷で行われていた歌の数々を始め、深山の伝説や、その奥に住んでいる人々の物語など、伝承はこの老人が最もよく知っていた。

13家の盛衰

数十年もの間、山の中に独り住んでいた老人がいた。高貴な身分の家の者であるが、若いころに家が不安定になり財産を失ってしまった。これが原因となって世俗との関りを絶つようになり、結果、峠の上に小屋を建て、峠を往来する人々に甘酒を売って活計を立てるようになったのだ。

老人に世話になった運送業の者らは彼を父親のように思い、いつの間にか親しい間柄となっていた。老人は少し収入に余裕あれば、町まで出てきて酒を飲んだ。赤い布で作ったはんてんを着て赤い頭巾を被る、といった風貌で町に現れるのである。酔うと町中を躍りながら峠まで帰るのだが、巡査はその振る舞いを咎めることはなかった。

いよいよ老衰してからは、故郷に帰り、しみじみとした思いで暮していた。子供たちは全員北海道へ行ってしまい、帰ってきても、老人は一人であった。

14小正月の行事

部落には必ず旧家が一戸ある。その家は大同(だいどう)といい、「オクナイサマ」という神を祀っている。この神の像は、桑の木を削って顔を描いたもので、四角い布の真ん中に穴を空け、上から通して衣裳としている。正月十五日(=小正月)には小字(こあざ)に住む人々がこの家に集まってオクナイサマを祭る。

また「オシラサマ」という神があり、この神の像もまたオクナイサマと同じようにして作り、これも同様に正月の十五日に里人が集まって祀る。その儀式では白粉(おしろい)を神像の顔に塗ることがあるという。

また、大同の家には必ず畳一帖の部屋がある。この部屋で夜に寝る者はいつも不思議な事に遭遇するという。枕がひっくり返っていることなどはいつものことで、ある時は何者かに抱き起こされて、場合によっては部屋から突き出されることもあるという。静かに眠ることが許されない。

※オシラサマは双神である。アイヌ文化にもこの神が存在することは『蝦夷風俗|彙聞』に見られる。

※羽後苅和野という町(現:秋田県大仙市)では、市の神の御神体である陰陽の神に、正月十五日に白粉を塗ってこれを祭ることがあるという。大同の家の祭りと似ている例である。

15家の神オクナイサマ

オクナイサマを祀ると良いことが多く起きると言われている。

土淵村大字柏崎の豪農である阿部氏は、村では「田圃の家(うち)」と言われている。ある年の話である。人手が足りず、田植えが終わりそうになかった。翌日は天気が怪しいこともあって、「植えてない田が少し残ってしまうな」と呟いたその時。どこからだろうか、ふと背の低い小僧が一人やってきて、「おれにも手伝わせてくれ」と言った。

そう言うので、小僧に任せて働かせることにした。昼飯時になって、飯を食わせてやろう、と思って小僧のところに行くも、小僧はどこにもいなかった。しかし、すぐにどこからか戻ってきて、終日、代かきをしてよく働いてくれたので、その日のうちに全ての田に植え終えてしまった。

どこの子かは知らないとはいえ懸命に働いてくれたので、「晩飯はうちでお食べになってください。」と誘ったが、日暮れるとその姿は再び見えなくなってしまった。家に帰ると、縁側に泥の付いた小さい足跡がたくさんあるのに気づいた。その足跡を追ってみると、だんだんに座敷のほうに入り、オクナイサマの神棚のところで途切れていた。

「ということは・・・」と思って神棚の扉を開くと、神像の腰から下が田の泥にまみれていたという。

16家の神

「コンセサマ」を祀っている家は少なくない。この神の神体はオコマサマとよく似ており、その社は里に多く存在する。この社では、石あるいは木で作った男性器が奉納してあるのだが、だんだんとそのような習慣もなくなってきている。

17家の神ザシキワラシ

昔からある家にはザシキワラシという神が住んでいることが少なくない。この神の見た目は十二、十三歳くらいの子供であることが多く、ときどき人に姿を見せることがある。

土淵村大字飯豊(いいで)に住む今淵勘十郎という人の家の話である。最近、高等女学校にいる娘が休暇を利用して帰省してきたのだが、ある日、廊下で不意にザシキワラシと遭遇し、驚いてしまったことがあったという。男児のザシキワラシで間違いなかったそうだ。

また、同じ村山口に住む佐々木氏の家でもザシキワラシの話がある。母がひとりで裁縫をしていた時、隣の部屋でがさがさと紙が擦れる音を聞いた。この部屋は主人の部屋なのだが、その時主人は東京に行っていて不在であった。そのため母は、怪しいと思って戸を開き、部屋の中を見るも何の物影も無かった。しかし疑問はぬぐいきれない。そこで、しばらくの間その部屋に座ってみた。

すると、今度はしきりに鼻をすする音が聞こえてきた。母はこのことではっきりと「さっきの物音も座敷ワラシの仕業だな」と思ったという。この家に座敷ワラシが住んでいたという話は随分と前からあったというから、母には物音の正体が分かったのだろう。

この2つの話から分かることは、ザシキワラシが宿った家は裕福になっているということである。

※「ザシキワラシ」は座敷童衆に同じである。この神については『石神問答』の中でも言及している

18家の盛衰

ザシキワラシは女の子である場合がある。山口にある旧家のひとつ、山口孫左衛門という者の家では、『童女の神が二人いる』という言い伝えが古くからあった。

ある年、同じ村の何某という男が町から帰る最中、留場の橋のほとりで見慣れない高貴そうな娘二人に出会った。不思議そうな様子でこちらにやってきたので、

「お前たちはどこから来たのだい。」と聞くと、「おら山口の孫左衛門の所から来た。」と答える。

「これからどこへ行くんだい。」と聞くと、「村の何某の家に。」と言う。

その何某の家はやや離れた村の家で今現在も立派な暮らしをしている豪農であった。

孫左衛門でさえ、そうまでしないといけないとなると、世も末だな。と思ったが、それから少しもせずにこの家の主従二十数人、キノコの毒にあたって一日のうちに皆死んでしまったという。当時七歳の女の子一人が残ったが、その子もまた今は年老いてしまい、そのうえ子は残さなかったと言う。最近病で亡くなった。

19家の盛衰

山口孫左衛門(18家の盛衰)の家での話である。

ある日、梨の木の周辺に見馴れないきのこがたくさん生えていた。食うか食わないか、と男どもが評議しているのを聞いて、最後の代の孫左衛門が、「食わないほうが良い」と制したが、下男の一人が、「どんなきのこも水桶の中に入れて苧殻(おがら)でよく混ぜてから食えば決してあたることはない」と言ったため、この発言に従って作業し、家内の者皆がきのこを食ったのであった。

この時、七歳の女の児は、その日外に出て遊びにいっており、夢中になって昼飯を食べに帰ることを忘れていため助かったのである。突然の主人の死に人々が動転している間、遠い親戚、近い親戚の人々は、ある者は「前世に貸しがあった」と言い、ある者は「約束がある、と称して家の貨財は味噌の類までも取り去ったのだ」と言う。

この草分(くさわけ)村の長者であったけれども、わずかな時間で跡形もなく、無くなってしまったのだった。

20前兆

この兇変(19家の盛衰)の前には色々な前兆があった。

男どもが苅り置いていた秣(まぐさ)を出そうとして三ツ歯の鍬で掻き回した時に、大きな蛇を見つけた。「これは殺すな」と主人が制せしたが、聞かずに打ち殺してしまった。

すると、その跡から秣の下に無数の蛇がいてうごめき出てきた。これを男どもは面白半分に一匹残らず殺した。さて、これらの蛇、捨てるようなところもないので、屋敷の外に穴を掘りてこれを埋めて供養塔として蛇塚を作った。

それらの蛇は簣(あじか)の中に何匹もいたのだという。

21魂の行方

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