解説&一覧
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第一『白峯』
逢坂の関守に通行を許されて東国へ向かった。それからというもの、秋を迎えた山の紅葉を見逃し難く思い、浜千鳥の跡踏む鳴海潟(※1)や富士の高嶺の煙、浮島ヶ原、清見ヶ関、大磯小磯の浦々、紫が匂う武蔵野の野原(※2)、塩釜の海で見る凪の時間の朝景色(※3)、象潟の海人が住まう苫屋(※4)、佐野の船橋、木曽の桟橋など足を運んだ。心が惹かれないことなど無かった満足した旅となったが、それでもなお西国の歌枕の名所も見たいと思い、仁安三年(1168)の秋、葦が散る難波(※5)を経て、須磨明石の浦を吹く風(※6)を身に染みながら、行く行く讃岐国の真尾坂の林という所でしばらく杖を置いた。草枕に長い旅路の労いを委ねるためではなく、念仏修行のための庵を作るためである。
※1
『十六夜日記』
浜千鳥 鳴きてぞさそふ 世の中に
跡とめむとは 思はざりしを
浜辺の千鳥が鳴いて、私を誘っている。
この世に何かを残そうなど、思ってもいなかったのに。
※2
『古今和歌集』
紫の ひともとゆゑに 武蔵野の
草はみながら あはれとぞ見る
ただ一本だけ咲いている紫草があるというので、武蔵野の草を見ている。
そんな様子が趣深く感じる。
※3
『伊勢物語』
塩釜に いつか来にけむ 朝なぎに
釣りする舟は ここによらなむ
塩釜には、いつか来ていたのだな。
朝凪の中、釣りをしている舟よ、こちらに寄ってくれないか。
※4
『新古今和歌集』
さすらふる 我が身にあれば 象潟や
海士の苫屋に あまたたび寝ぬ
さすらいの身である私は、
象潟で、海人の粗末な苫屋に、何度も寝泊まりしたものだ。
※5
『万葉集』
海原の ゆたけき見つつ 葦が散る
難波に年は 経ぬべく思ほゆ
海原の広大さを感じ眺めながら思う。
葦の散る難波の地で、私は長い年月を過ごすのだろうと。
※6
『源氏物語 須磨』
浦風や いかに吹くらむ 思ひやる
袖うち濡らし 波間なきころ
浦風はどのように吹いているのだろう。浦風に乗って、あなたがいるあの浦を思いを馳せるよ。
今は、袖を打ち濡らす波が絶え間なく寄せる頃かな。
この里の近くに白峰というところがあるのだが、そこに新院(崇徳院)の山陵があると聞いたので、
「拝み奉ろうか。」
と思って、10月のはじめ頃にその山に登った。松柏(松とコノテガシワ)が山の奥深くまで茂っており、青雲のたなびく日ですら小雨が降っているような感覚を覚えるところであった。
児が岳という険しい山岳が背後に聳えており、千仭の谷(非常に深い谷)の底から雲霧が立ち上ってくるので、目の当たりにすると、気の遠くなるような、そして不安な気持ちになる。新院の墓は木立のわずかな隙間にあった。土を高く盛った上に石を三つ積み重ね、その上に荊蕀(うばら)や薜蘿(かづら)が覆い被さっていたのが、なんとも悲しく思われる。
「本当にこれが新院のお墓なのか。」
と心がざわつく。夢か現実かどちらか分からない心地であった。
実際に新院をお目にかかったのは、紫宸殿、清涼殿の玉座にて、政務を執り行われている時で、多くの官吏が
「歴代でも、新院は畏れ多い君だ。」
といって、みな詔を恭しく奉り、宮仕えしていた。
近衛天皇に譲位してからは、藐姑射の山(『荘子』引用。はこや。神仙が住む山。転じて、仙洞御所)に住まわれていたというのに、今、新院に通う者の足跡は鹿のみであった。
「お仕えする人もいない深い山の荊の下でお隠れになっているとは。。。」
万乗の君(天皇)であらせられた者でさえ、宿世(前世)の業という恐ろしい怨念にとりつかれ、罪を免れることができなくなったと思うと、涙が湧き出るように、世の中の儚さが絶えず思いやられる。
保元の乱の一件の後、崇徳天皇は死後怨霊として祟られました。
一晩中供養申し上げようと思い、お墓の前にあった平らな石の上に座り、ゆっくりと読経しつつ次のように歌を奉った。
松山の 浪のけしきは かはらじを
かたなく君は なりまさりけり
松山の波の景色が変わることは無いと思っていたのに、君は跡形もなくなってしまった(亡くなってしまった)
※ 西行法師『山家集』引用
引用とありますが、この物語の主人公は西行法師なので、むしろ、ここで詠んだ作品なのかもしれません。
なおも怠らずに供養した。露がどれだけ袂に降りかかっただろうか(涙を流しただろうか)、日が沈む頃となった。深山の夜は尋常でなく、石の寝床に木の葉を寝巻とするも非常に寒い。心も骨も冷えるようで、何となく恐ろしい気持ちになった。
月は出ていたが、密林の中では月の光を通さないので、頼りにならない闇に悄然とし、眠ることもできないでいた。そうしていると、
「円位!円位!」
と呼ぶ声がする。目を少し開けて透かして見ると、背丈が高くやせ衰えた異形な人がいた。顔や着物の模様は見えない。こちらへやってきて、自分に向って立ったのだった。西行はもともと仏教に信仰厚い法師であったので、恐ろしいと思うことなく
「そこにいるのだ誰だ。」
と聞いた。
円位とは、西行法師のことです。鳥羽法皇に仕える北面の武士であった佐藤義清は突然出家し、円位と改め、その後西行と名乗るようになりました。
その人は言う。
「あなたが前に詠んだ和歌に返歌したいと思って出て来ました。」
と。
松山の 浪にながれて こし船の
やがてむなしく なりにける哉
松山の港へ波に流されてやってきた舟は、やがて虚しく朽ち果てていった。
崇徳院は保元の乱の戦後処理として、讃岐に流刑となりました。そして崇徳院はこの地で亡くなったため、それを舟で暗示しています。波の様子、舟の様子が儚さを物語っています。
「来てくれたことを嬉しく思うぞ。」
と言ったのを聞いて、西行は新院の霊であると悟った。西行は地に額を付け涙を流しながら言った。
「それにしても、どうしてお迷いになっているのですか。濁世(カオスな現世のこと)を厭離して成仏されたことを私は羨ましく思い、今夜このように法施しておりましたのに、現世に姿を現わしなさったこと、畏れ多くも悲しく思います。ただひたすらに隔生即忘(生まれ変わり、前世の記憶を即座に忘れること)し、仏果円満(完全に悟りを得て仏となること=成仏)なさいませ。」
そう、心を尽くして諫言申し上げたのである。新院は呵々大笑なさった。
「お主は知らないのか。近頃の世の乱れは我の仕業だということを。生前、日頃から魔の道に思いを馳せており、その力で平治の乱を起こさせた。死後は今もなお朝廷を祟っている。見よや、すぐに天下に大乱を招いてやろうぞ。」
西行はこのお言葉を聞いて涙を抑えながら申し上げた。
「これはこれは。呆れたお心映えを聞きました。君はもともと聡明なお方だとの評判でございましたから、王道の理をご理解なさっているはず。試しにお尋ね申し上げます。そもそも保元の乱では、天の教えの道理に反しないと思いご謀反なさったのですか。それとも、自分の欲から謀りなさったのか。詳しくお聞かせ願いたい。」
その時、新院は顔色を変えて仰せになった。
「お主よ、聞くがいい。天皇位というのは、人としての極みである。もし天子が人道を乱したならば、天命に応じ、また民の期待に従って、その天子を討つのが道理である。そもそも永治年(1141-1142)の時、犯した罪も無いというのに、私は父帝(鳥羽天皇)の命令に恐れをなして、3歳の体仁親王(後の近衛天皇)に譲位した。ただこの行動だけで欲深いといえるか。近衛天皇が早くに亡くなった後は、皇子の重仁親王(新院の第一皇子)が次期天皇だと私も世の人々も思っていたが、美福門院(近衛天皇の母)が『崇徳は藤原頼長と結託して近衛天皇を呪い殺したのだ。』などという妬みのせいで、鳥羽法皇は四の宮(崇徳天皇の4番目の弟)の雅仁親王(後白河天皇)を即位させた。天皇位を簒奪されたのだぞ、これこそ深い怨恨となったよ。重仁親王には治国の才能があったが雅仁親王にその器がどこにあるか。人徳をみて選ばずに、後宮と相談して決めたのは父(鳥羽天皇)の過ちであったよ。そう思っていたとはいえ、私は、父が存命の間は孝悌の精神を守り難色も示さないでいた。父が崩御されてからというもの、『いつまでもそのような姿勢でいるわけにもいかぬ。』と思い、武王に同じ志を起こしたのだ。周の武王は商の紂王の家臣であったが、天命に応じ民の期待に従ったが故に商を滅ぼし、周を建国、800年も存続した大国を作り上げた。私は天皇位に御座するに相応しい身分であり、牝鶏之晨(女性が権勢を振るって政治を仕切ることのたとえ。ここでは後宮を指す)の今、代替わりを求めて行動を起こすことは道理を失っているとはいえまい。お主は出家して仏に媚びを売り、来世の解脱を求めるという私利私欲を振りかざす心を持っていながら、人としての道を仏教の因果に関連付け、天命思想の祖、尭舜の教えを仏教の教えと混ぜて我に説こうとした。なんと無礼なものか!」
新院は声を荒げたのだった。
中国の天子、天命、革命の考え方です。上皇となって政治の実権を握ろうとしていると世間から言われたのでしょうか。
一連の政争の簡単な関係図です。
Win !(父:74代鳥羽天皇 母:美福門院)体仁親王→76代近衛天皇
Lose!(父:75代崇徳天皇 母:兵衛佐局)重仁親王
※崇徳天皇の父は鳥羽天皇
西行はいよいよ恐れる様子もなく座を進めて申し上げた。













