不詳 室町
鎌倉幕府成立~室町幕府成立までの出来事を記した。両統迭立や元弘の変、中先代の乱など、高校日本史で扱う出来事の多くが登場する。
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19:建武の新政
その頃京都では後醍醐院が伯耆国より還幸。迎えに参上する大臣や殿上人の装いは華やいでいた。この度忠功を示した楠木正成、名和長年をはじめ仕える武士はその数知らず。後醍醐天皇の座するは二条富小路内裏となった。ここで建武の新政が行われる。保元平治治承以来、武家が政権を欲しいままにしていたが、元弘3年(1333)の今、貴族政権を握っている。なんとも珍しいことであろう。
南朝初代天皇として再び天皇位についた後醍醐天皇の新たな治世は、延喜・天暦の治を理想としたものであった。延喜の治は第60代醍醐天皇、天暦の治は第62代村上天皇の治世である。両治世は、摂政関白を置かず、天皇による親政政治として評価されている。武家の安寧により軒並みその権力を謳歌していた「守護」「地頭」。これらの権限により、律令官である「国司」の権限が消滅していたわけだが、この度、後醍醐天皇は諸国の「国司」と「守護」を併設、大臣や殿上人は位階を進めることとなったのである。実にめでたい善政である。
武家の者共、楠木正成、伯耆守名和長年、赤松円心をはじめとする山陽山陰の輩は朝恩により名を誇ることとなった。傍若無人なことである。雑訴決断所の設置については五畿七道を分担、八番制が敷かれ、大臣が長官に任ぜられた。「新決所」と名付けられ、これは第5代執権北条時頼が設置した訴訟機関、「引付衆」を継承している。
大きな問題に関しては、政務を扱う「記録所」が裁決することとなった。また、「窪所(侍所は誤りか)」と称する令外官が設置された。土佐守伊賀兼光、太田大夫判官結城親光、大舎人頭富部信連、参河守高師直ら倒幕の功労者が集められた。また、「武者所」を設置した。昔に言う「侍所」である。新田義貞の一族を筆頭に諸家の者を詰番とした。今の慣習というのは、過去のある時に作られたものである。そしてその慣習は、さらに過去の慣習を改めたことを意味する。
「この後醍醐が行う新たな政治は将来の者にとっての先例となるのだ。」
後醍醐天皇の勅命は次第に広く伝えられた。先代大将軍のお考えは不変であり、昇進は言うまでもない。武蔵、相模、その他数々の守護は源頼朝卿に倣い、その官位を受領した。同年(1333)の冬、関東へは成良親王が征夷大将軍として下向した(1334との記録もある)。左馬頭こと足利尊氏の弟、足利直義(ただよし)が供奉し、東国8ヶ国(常陸・上野・下野・上総・下総・武蔵・相模・安房)の輩もおおよそがこれを奉って下向した。鎌倉は昨年の鎌倉攻めの際に大乱となったが、大守こと北条得宗家がおわしたので、庶民は安堵したことであろう。ここで後醍醐天皇の判断により、「記録所」や「雑訴決断所」が置かれることとなったわけだが、臣下が事ある毎に異議申し立てるものだから、綸旨が朝に変わったと思えば夕には改まる、といったことが続いていた。手のひら返しのようである。
北条家滅亡の時に逃げた輩、あるいは北条高時一族に直接仕えていた者の他は、寛大なお心によって死罪を免れた。また、後醍醐天皇は天下統一により新たな掟によって安堵の綸旨を下した。『建武の徳政令』である。しかし、家族や土地などの財産を奪われた輩の遺恨も含み、公家にこう言われる。「尊氏なし」と。そう、足利尊氏は新政府に姿を現さなかったのである。鎌倉を滅ぼした後醍醐天皇が、武家を立てるはずが無い。そのため、成良親王下向の際、足利直義を大守として鎌倉に派遣したのである。東国の輩はこれの支配下に入ることとなり京都の方針に応じることとなったのだが、彼らは「後醍醐天皇の日本統一に利点なし」と思うのであった。そして、武家や公家に遺恨を持つ輩は、源頼朝卿のように天下を狙おうと専ら考えるようになっていった。
公家と武家で争い事をしていると年も暮れ、年が明けて改元、建武元年となった。三節会をはじめその他の儀式において、天上人は華やかな衣服を身につけた。昔に帰ったようである。しかし世の中の人々の心には不満が溜まっていた。あらゆる物事が落ち着かない。
「これほどひどい世の中になろうとは、まさかあるまい。」と恐ろしく思うのであった。
ここに兵部卿護良親王、左衛門督新田義貞、楠木正成、名和長年は密かに勅命を受けて戦に出向くものの、尊氏将軍に味方する軍勢はその数を知らず。合戦を幾度としても鎮圧は出来ず、世の中は穏やかにはならなかった。関東申次という役職に就いていた西園寺公宗は鎌倉幕府滅亡に際してその職を失い、没落しかけていた。彼は裏で密かに、後の『中先代の乱』の大将となる北条孝時の弟、北条泰家を匿い仰いでいた。後醍醐天皇を暗殺しようと企てているとも知らず、後醍醐天皇は度々北山殿に御幸するのだった。北山殿とは、後に足利義満が鹿苑寺金閣を建立する地である。なお、暗殺は失敗に終わり、武者所の楠木正成、高師直らによって処刑された。
20:護良親王騒動
このようなことがあっても京とは穏やかではなかった。1334年3月、関東では本間一族と渋谷一族が幕府の残党として謀反を起こし、相模国から鎌倉へ軍を進めたのである。鎌倉将軍府の渋川義季を大将として極楽寺切り通しにてこれと激突、数時間の交戦を経て残党を打ち破った。このことはすぐに京都へ報告され、昨年の、楠木正成籠る金剛山の千早城攻めの面々である大将阿会弾正少弼こと北条治時、陸奥右馬之助こと大佛(おさらぎ)高直、長崎四郎左衛門尉こと長崎高貞は奈良の興福寺にて抗戦を続けていたが、これを聞いて般若寺にて出家して降伏、京都で処刑された。
その後もなお京都は騒動が止まなかった。こんなことがあった。建武元年(1334)6月7日、兵部卿親王こと護良親王を大将として将軍足利尊氏に攻め入ったのである。これは、護良親王がかつて入京した際、大将として入京したことが原因である。尊氏と同役職であり、対立が激化していたのだ。
また加えて、後醍醐天皇の寵愛する后、阿野廉子が実子の義良親王を天皇にするためには護良親王が邪魔であった。尊氏と阿野廉子の利害が一致していたわけである。これに耐えかねた護良親王が尊氏並びに後醍醐天皇に牙を剥いたという話だ。
足利尊氏の軍勢は御所を囲み警護、護良親王の軍勢は二条大路に充満していた。尊氏将軍が後醍醐天皇にこのことを申し上げると、天皇は「私には関係の無いことだ」と言き放ったのである。その日のうちに護良親王は捕らえられ、護良親王の強引な行いは鎮圧された。10月22日夜、護良親王が参内した。ここで武者所に預けられ、翌朝常磐井殿へ遷った。同日、警護にあたった武士に勅命を言い渡し、南部工藤(詳細不明)らをはじめとする武士数十人に預けた。
翌月11月。陸奥守細川顕氏は護良親王を引き取り、鎌倉へ下向した。思ってもいない旅路の空。そのお気持ちはどう言おうとも言い足りない。護良親王の謀反の真実は後醍醐天皇のお考えに起因したものだが、領地を宮に譲ったために尊氏に厭われ鎌倉へ下向したとも聞いている。護良親王は二階堂こと永福寺薬師堂のある谷に腰を下ろした。
「武家よりも父、後醍醐天皇のほうが恨めしい」と独り言を言っていたとか。
21:中先代の乱
中先代の乱はこちらで記事にしています。
22:建武の乱勃発
足利尊氏と直義の将軍兄弟が鎌倉に攻め入った際、二人は二階堂の長官として居座った。京都より供奉した者は勲功褒賞の列に加わることができると喜び、そして北条の先代に与力した輩は死罪流罪を赦された。
「此度のような行いを悔いてこれからは忠節を尽くそう。」そう思わない者はいなかっただろう。
京都の人々は親族を使者として、足利の反乱鎮圧の成功を祝賀した。また、勅使の中院蔵人頭中将具光朝臣こと中院具光は関東に下着。
「この度の東国反乱の即時鎮圧誠に大儀である。ただし、軍兵の論功行賞は京都で綸旨をもって行うこととする。早々に帰洛せよ。」と報せた。
急ぎ御所へ帰り参ず旨を勅使に伝えようとしたところ、下御所こと足利直義が申し上げる。
「上洛はするに値しない。北条高時が滅亡して天下が統一されることは、後醍醐天皇の武威によるものである。京都に御座している近年、公家や新田義貞による陰謀が度々繰り返されているというでは無いか。とはいえ、今は後醍醐天皇の天運によって安全な世の中となった。偶然、大敵の多い京都を逃れて関東にいる。ここに居座るのは適当だ。」
と尊氏を説得した。そして、この度の下向に同行した高師直以下諸大名の面々が肩を並べている。鎌倉のことは誠にめでたいことであると言えよう。両大将に供奉した輩には信濃国や常陸国の闕所地を与えようとしたところに、新田義貞が官軍の大将として関東へ進軍しているという噂が入ってきた。室町幕府の成立まで続く、『建武の乱』のはじまりである。