唐傘連判状について
唐傘連判状とは、主に南北朝時代に発生、江戸時代に発達した、身元が特定されないように作られた連判状(複数人の署名文書)のひとつです。ひとつずつ特徴を見ていきましょう。
唐傘とは
中央から外側に向かって放射状に署名を並べた姿が、唐傘(からかさ。和傘のこと)に似ていたことから、この名前で呼ばれました。目的の一つに一揆があるため、一揆が頻発するようになった鎌倉時代末期から室町時代を初現とする史料になっています。
円形に並べる理由
通常の連判状では署名のインデントによって、首謀者や中心人物が特定されやすい問題がありましたが、唐傘連判状ではそれを克服することを可能としました。
インデントとは、文章の最初の「○段下げる」のことで、現代でも使用されます。
連番状のみならず、古代からその様相は見られ、
例えば、浮浪・逃亡の史料として有名な、『山背国愛宕郡出雲郷雲上里計帳』などの計帳でも確認されます。
唐傘連判状の主な特徴として、
- 署名者を円形に均等に配置
- 誰が起草者(主犯・指導者)か分からない
があり、処罰を回避したり、責任追及を攪乱したりする効果がありました。
どのような時に使われた?
村方や武家の間で流行し、
- 共同して権力者に対して訴願を行う時(一揆など)
- 連帯を示しつつも、個人の責任を曖昧にしたい時(祭祀・公共事業など)
- 目下に対して平等に誓約させるとき(家の規則など)
などのタイミングで使用されました。
特に③に関しては、罪に問うような性質の文書でないため、権力者が一番上に書かれる例が少なくないです。
思ったより多種多様な使われ方をします。
現代語訳
今回は、戦国時代に登場する見やすい史料、『毛利家文書226号 毛利元就外十一名契状』を引用します。引用はこちら!

毛利元就外十一名契状
申合條々事
一軍勢狼籍之儀、雖堅加制止、更無停止之條、於向後、此申合衆中家人等、少[も]於有狼籍者、則可討果事、
一向後陳払仕間敷候、於背此旨輩者、是又右同前可討果事、
ー依在所、狼籍可有不苦儀候、其儀者以衆儀可免事、
八幡大菩薩、厳嶋大明神可有御照覧候、此旨不可有相違候、仍誓文如件、
弘治三年十二月二日
[時計回りに列挙]
毛利右馬頭
元就(花押)
吉川治部少輔
元春
阿曽沼少輔十郎
廣秀(花押)
毛利備中守
隆元(花押)
完戸佐衛門尉
隆家(花押)
天野藤次郎
元定(花押)
天野左衛門尉
隆誠(花押)
出羽民部太輔
元祐
天野中務少輔
隆重(花押)
小早川又四郎
隆景(花押)
平賀新九郎
廣相(花押)
熊谷兵庫頭
信直
毛利元就他十一名の約束状
申し合わせた内容の条々
一。軍兵の狼藉について。厳しい制止を加えても全く止まらないことがある。この申し合わせに署名した者の家臣が少しでも狼藉を働けば、今後、署名したその者を討ち果たすこととする。
一。今後、陣払いには従う事。この旨に背く輩がいれば、その輩の主君(署名したその者)も討ち果たすこととする。
一。状況によっては、狼藉が苦しくない(やむを得ない)場合がある。これに関しては、集団行動の一環として認められる。
八幡大菩薩、厳島大明神がご覧になることでしょう。この条々に相違があってはならない。よって、誓文としてこの通り記す。
八幡大菩薩は宇佐八幡宮、厳島大明神は厳島神社で、いずれも毛利家が所領としていた地域に存在した神社です。
弘治三年(1557)12月2日
[時計回りに列挙]
[12時]毛利右馬頭 元就(花押)
[1時]吉川治部少輔 元春
[2時]阿曽沼少輔十郎 廣秀(花押)
[3時]毛利備中守 隆元(花押)
[4時]完戸佐衛門尉 隆家(花押)
[5時]天野藤次郎 元定(花押)
[6時]天野左衛門尉 隆誠(花押)
[7時]出羽民部太輔 元祐
[8時]天野中務少輔 隆重(花押)
[9時]小早川又四郎 隆景(花押)
[10時]平賀新九郎 廣相(花押)
[11時]熊谷兵庫頭 信直
内容
題を見ての通り、毛利元就とその他重鎮らが交わした、陣中における規則の契状です。
一揆を目的とした署名でないため、毛利元就が12時の位置に書かれています。吉川元春がその右(1時)の位置にいることから、ある程度序列の通り書かれていたことが考えられます。
ある程度というのは、毛利両川と呼ばれた小早川隆景、嫡男の毛利隆元がその順にいないためです。
そう思うと、案外、深く考えていないかもしれませんし、序列に関係のない特徴がある連判なので、意図的にランダムに署名したのかもしれません。
まとめ
武家から百姓に至るまで、多種多様な使われ方をしてきた唐傘連判状。学校や会社で何か要求したり、イベントで結束力を誓い合ったりする時に、使ってみたら面白いかもしれません。
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