解説
目的
『教育勅語』は、忠君愛国を中心とした道徳教育の基本方針として出されました。結論から言うと、『教育勅語』が出された理由は、近代化による精神の西洋化が進み、青少年の愛国心低下が懸念されたためです。
出されたのは明治23年(1890)と意外に明治時代に入ってから時間が経っていた時期で、これより以前から近代化に伴う法整備が進んでいました。教育法もそのひとつで、明治5年(1872)と早い段階での展開がなされており、1890年は、教育現場も方向性が固まってきた時期ともいえます。しかしこの頃から、順調な近代化にも問題が発生しました。それは、精神の西洋化です。
近代化とは西洋の技術を取り入れた、というイメージが強いですが、精神的な側面でも西洋化が進みました。西洋崇拝、キリスト教信者の増加、生活スタイルの西洋化など。当然教育もその影響が出ており、青少年の愛国心低下が懸念されました。未成年の教育に留まらず、帝国大学でも、お雇い外国人による教育や英語、英文学など、西洋に触れる機会が多くありました。ジェーンズやクラークはもとより、夏目漱石や新渡戸稲造など、西洋と関わりを深くもつ日本人も歴史の表舞台に出てきました。
富国強兵の号令のもと始まった西洋化がもたらしたデメリットのひとつと言えましょう。1876年の神風連挙兵の要因のひとつに、日本人としての精神の消滅に危機を感じた、というのがあったのも事実です。
富国強兵なのに内部から弱体化する可能性が十分あるという矛盾。そこで、忠君愛国の精神を国民に自覚させるために、『教育勅語』が出されました。
出されたタイミング
出されたのは、明治23年(1890)10月30日です。ちょうどこの時期は、国家の在り方(国体)を明確に定めていた時期になります。西洋から多くをインプットし、今度は日本風にグレードアップする時期でした。
- 1889『大日本帝国憲法』発布国家の基本的方針を定める
- 1890/7/1 第一回衆議院総選挙国民が政治に参加するシステムを定める
- 1890/10/30『教育勅語』表明国民の精神のベクトルを定める
- 1890/11/29 第一回帝国議会開会国の運営方法を定める
そのような時期であったため、既に述べたように、国民の精神のベクトルを統一する必要もあったのです。
廃止
廃止されたのは1948年6月19日で、国会にて正式に可決されました。
第二次世界大戦敗戦後は、GHQによって、戦前に展開されてきた国家主義的法律、方針が徹底的に改革されていきました。その中でも、『教育勅語』は、特に「忠君愛国」という四文字は、戦時において非常に大きな力を発揮していました。
- 忠君:国家への自己犠牲の美化
- 愛国:天皇を神格化した道徳体系
GHQは、この精神基盤が、戦争遂行を精神的に支えたと判断しました。
戦後の民主主義的な観点から『教育勅語』を見てみると、『教育勅語』は基本的人権を否定したものと捉えることができます。「国家のために」「天皇と共に」というニュアンスは、統一された精神、大げさに表現すると、国家ぐるみの洗脳とも言えるのではないでしょうか。
それに代わるものとして、基本的人権の尊重を基盤とした『日本国憲法(1946)』や『教育法(1947)』が誕生したのです。
現代語訳
朕惟フニ我力皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
我力臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我力国体ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦実ニ此ニ存ス
爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭倹己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ
学ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓発シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ広メ世務ヲ開キ常ニ国憲ヲ重シ国法ニ遵ヒ
一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
是ノ如キハ獨り朕力忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先遺風ヲ顕彰スルニ足ラン
斯ノ道ハ実ニ我力皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所
之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス
朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
私(明治天皇)は思う。我が先祖が国を開いたことは遠くを見据えた非常に賢明な、そして大きな事業であり、そして我が先祖はこの長い歴史の中で深くそして厚い徳を立ててきた。
我が臣民たちは忠義に厚く孝行に励み、心を一つにして世々において美徳を保ってきた。これは我が国体の華々しい側面であり、我が国の教育方針の根本もこれに依拠している。
臣民よ、父母に孝行し、兄弟は友愛し合い、夫婦は仲睦まじく、朋友は信じ合い、自身は謙虚な姿で、博愛の心を多くの人々にもたらせよ。
また、学問を修め、技能を習い、知恵を啓発して徳を成就させよ。進んで公益を広め、世の務めを開拓し、常に国憲を重んじ国法に従えよ。
国に緊急事態が発生すれば、義勇の心をもって国に奉仕し、天壌無窮の皇運(天皇家の行く末)を支えよ。
以上のことをよく実践する者は、私に忠義深く仕える臣民のひとりであるのみならず、我が祖先がのこした美風を顕彰するに足る存在といえる。
この道はもっとも我が先祖が残した心得であり、我が子孫と臣民とが共に遵守すべきものなのである。
これを古今に通じて誤った認識することなく国内外に施し、矛盾しないようにしなければならない。
私はそなたたち臣民と共に心に刻み、その徳を一つにすることを願っている。
(終)
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