太田黒伴雄ら明治
神風連(敬神党)が熊本鎮台を襲撃した事件。熊本鎮台司令長官種田政明が討たれるなど新政府側に被害が出たが、一日のうちに鎮圧された。
神風連と敬神党の違い
「神風連の乱」は、またの名を「敬神党の乱」と言います。結論から申し上げますと、この二つは同じ組織です。一般的に神風連と呼ばれることが多いだけです。
敬神党の方が名前の由来は分かりやすいです。「神を敬う人々の集まり」で「敬神党」です。敬神党を結成するきっかけを与えた林桜園という学者が国学者でした。
国学
歴史学や有職故実など、その範囲は広い。
林桜園の場合、古来日本より続く神道に基づく考え方を尊重した。このような思想を持っていた人を「敬神家」と呼ぶ。
党首並びに首謀者である太田黒伴雄をはじめ田代儀太郎、緒方小太郎らは林桜園の門下生でした。
神風連の乱の経過
①林桜園の思想
林桜園という学者は敬神家で、「直日ノ神」と「禍日ノ神」の二流の神によって世の中の吉凶、栄枯盛衰が定められると述べました。重要なポイントは二つです。
- 神は、人が誠を尽くせばそれに必ず感応する
- 大きな決断を下す時、「宇気比(うけひ)」という神の意志を受けることができる
この二つが神風連の動向を大きく左右します。
②決起に至る国内の状況
明治新政府によって開国政策が積極的に進められていました。数々の条約が結ばれたことは最たる例です。
神風連が尊重していた復古思想は、日本古来の考え方や精神に基づく社会の在り方を創造する思想であるため、彼らは、西洋文化の急激な導入により、日本古来の考え方や精神が残らず破壊されるのではないかという不安がありました。
また、従来の日本の秩序を保ってきた身分制度が否定されるようになり、日本人の精神が内部崩壊を起こしかねないとも神風連は考えます。
神風連が危惧していたこと
- 西洋文化の急激な導入により、日本古来の考え方や精神が残らず破壊されるのではないか
- 日本の秩序を保ってきた身分制度が否定されるようになり、西洋の影響以前に、日本人の精神が先に内部崩壊を起こすかもしれない
明治新政府によって、内外による日本の秩序、精神の破壊が目に見えて進んでいたわけです。
この国の行く末を神風連は熊本中にある神社で神に祈り続けました。
③決起
神風連はついにしびれの緒を切らし、「宇気比」を行い、神の命を得ることにしました。内容は以下の通りです。
- 明治新政府に改革を要請する
- 外国と無謀な条約を結んだり、強引に新制度の確立を進める奸臣を誅罰する。
何れも神は否定(要するに、神の答えがなかったという意味か?)、これにより
- 敬神を忘れず、尊王攘夷を貫く
という方針を固めます。
その後しばらくして廃刀令や断髪令が出されると、神風連はいよいよ我慢できず、再び「宇気比」を実行。この際、挙兵の命が神より下されたのでした。
決起の直接的な原因が廃刀令や断髪令なので、士族の反乱として扱われているのです。
↓
己の信じる道を貫くため、それを妨害する事象を排除する
という方針の変更です。
挙兵の「宇気比」に関しては、かなり都合の良いところがあるので、党員の士気を神の思し召しとして、対象をすり替えたような印象を受けました。
「同志が結束を固め、信じる道以外を排除しようとする動き」は一神教でよく見られる傾向です。国内で最も有名な事例は、一向一揆でしょう。
一神教と多神教の違いについて解説しているので、こちらもご覧ください。
④神風連の乱
10月24日夜、熊本鎮台がほど近い藤崎宮で集結、複数に部隊を分けて熊本鎮台を襲撃することにしました。戦場は5箇所です。
戦場①:熊本鎮台司令官、種田政明邸
高津運記ら数名、種田政明を殺害。
戦場②:参謀長官、高島茂徳邸
石原運四郎ら数名、高島茂徳を殺害。
戦場③:熊本県令、安岡良亮邸
吉村義節ら数名が討ち入り。安岡良亮は傷を負いながらも逃れることに成功したが、三日後に死亡。
戦場④:砲兵営
首謀者、太田黒伴雄率いる七十名。制圧に成功。大島邦秀中佐らを殺害。
戦場⑤:歩兵営
富永守国率いる七十名と、砲兵営で勝利した太田黒伴雄ら援軍。一時優勢だったが、翌朝体制を建て直した政府軍の反撃に遭い大敗。鉄砲や大砲の餌食となり、幹部クラスの多くがここで戦死。その後撤退した。青木暦太らが奮戦している。
⑤その後
歩兵営にて重傷を負った太田黒伴雄は、逃げこんだ近くの民家にて信頼厚かった野口満雄をはじめとする党員らに次々に指示を出すも、しばらくして自刃しました。この時、「東におわす天皇に背を向けて死ぬことなどできない。」と言って、東向きに座り直したといいます。享年43。
その他生き延びた神風連は山口県萩や福岡県秋月の同志らと再起を図ろうとしましたが移動が困難となり、四散することとなりました。
二十歳に満たない若者は自宅に帰ることとなりましたが、自刃した者も少なくはありませんでした。鶴田伍一郎、享年18。島田嘉太郎、享年18。猿渡唯夫、享年16。その他にも、生き延びては、先に逝った同志に顔向けできないと自刃した者が多くいました。
友人の阿部景器邸にて、高島茂徳を討った石原運四郎も自刃します。この際、阿部景器、その妻幾子も自刃しました。こうして、幹部クラスを失った神風連の乱は終わりを遂げたのです。
この奇妙で狂気な神風連の行動は、3日後の秋月の乱、4日後の萩の乱、と大きな影響を与えました。
徳富蘆花と神風連の乱
徳富蘆花(ろか)は、民友社『国民の友』を出版した人物である、徳富蘇峰の実弟で文学者です。二人は幼少期、熊本鎮台にほど近い所に住んでいました。
徳富蘆花は『恐ろしき一夜』にて
「屋敷の二階から外を見ると火の手が上がり、障子の倒れる音や人々の悲鳴が聞こえた。」と記しました。これは神風連の乱だったのです。
実は、種田政明邸はこの屋敷から数百メートルのところにありました。
現在
林桜園をはじめ、太田黒伴雄ら志士の墓が櫻山神社に安置されています。
墓の写真は憚られるため掲載しませんが、林桜園を最奥にして、評定を行うが如く、志士の墓が左右に並んでいます。
まとめ
いかがだったでしょうか。彼らの行動は狂気じみていると私は感じました。理由は2つです。
①敬神=天皇でない点
明治新政府が掲げているのは、神の末裔である天皇を中心とした政治機構です。神=天皇を祀る事、つまり明治新政府側の考えは、神風連の理念に反していないと思うのです。
神風連の、林桜園先生の主張する神とは、天皇ではなく、もっと概念的な神のような気がします。
②尊王攘夷を掲げて明治新政府と敵対した点
尊王攘夷とは、基本的に反幕府運動として扱われます。しかし、神風連は、尊王攘夷による護国を確固たる信念として再確認しながら明治新政府に反乱を起こしました。
この時期(1870年代)は既に攘夷運動が不可能だと結論が出ているので、神風連の動向が理解できないのです。
攘夷運動が不可能と分かり倒幕に切り替わったのは、遡ること約10年前の下関戦争や薩英戦争で外国勢力の軍事力の高さを目の当たりにしてからであり、方向転換した倒幕運動も既に完遂されています。
以上から、彼らの行動が狂気じみていると考えるのは、従来の歴史の考えに一致しないからだと考えました。
神風連が掲げる「尊王攘夷」とは
尊王
天皇という意味ではなく、概念や信念のうえに構築された形而上学的なもの
攘夷
倒幕という意味ではなく、林桜園先生の復古思想を失わないために繰り出された行動
以上が神風連の乱の解説と私の考察でした!
皆さんはどう思いますか?
ぜひ、熊本まで観光においでませ♪