三善清行 平安
延喜4年(914年)に醍醐天皇に提出された政治意見書。平安末期の社会情勢と律令制の崩壊を知ることができる。
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現代語訳
播磨国の魚住泊の修復を重く要請します
瀬戸内海航海の現状
私が見た限り、山陽道、西海道、南海道の三道において船による移動は檉生(むろう)泊から韓(から)泊まで一日、韓泊から魚住泊まで一日、魚住泊から大輪田泊まで一日、大輪田泊から河尻泊まで一日の五日となっております。これはみな行基菩薩が建設したものであります。
しかし今、公家は大輪田泊のみを修造しており、魚住泊は長い期間廃れています。この理由は、現在、公私の船は韓泊から大輪田泊まで一日一夜のうちに航海可能となったためです。両泊の間に設置された魚住泊が利用されません。
冬の季節は風が強く、夜は星が稀であるため、舵取りの前後が分からず、沿岸部の遠近を調節ができません。その結果、帆は落ち、櫂は失い、哀愁の中船は沈み、死にゆくのです。このことによって毎年多くの船が水没し、その死者は1000人どころではありません。
昔、中国において夏を建国した禹は仁徳を備えており、罪人は仁徳の深さを感じ泣くほどでした。言うまでもなく夏国の百姓らは皆王の下す労働に従いました。思うに、聖王は哀憐の心を持って天より参られたのでしょう。
魚住泊の歴史
私は恐れ多いながら古い記録を見ました。魚住泊は天平年中(729-749)に造られたものだと分かりました。
行基は749年没とされているため、港の整備が晩年であったことが分かります。
その後延暦年中(782-806)の末期に至るまでの約50年間、人々は魚住泊を活発に利用していました。弘仁年中(810-824)になり、風や波が魚住泊を侵食し、石は崩れ、砂は水に飲まれました。次の天長年中(824-834)、右大臣であった清原夏野はこの現状を議題に上げ、遂に魚住泊は修復されました。
さらに次の承和年間(834-848)末期、再び魚住泊は荒廃しました。10年飛んで貞観年中(859-877)の初期、東大寺の僧賢和は菩薩行を修め、利他心により石を背負い、鋤を担ぎ、その力を尽くして人民に貢献しました。魚住泊の修造を行ったのです。賢和一人の誠実な行動でございます。港の整備はまだ完了していませんが、数年の間、その恩恵を受けていない人はいませんでした。
しかし現在、僧賢和が亡くなって約30年が経過しました。現状はすでに述べた通りで、人民は水死しており、枚挙にいとまがありません。官物の損失は非常に大きいです。
意見申し上げる
恐れながら希求します。多くの役人、判官、身体が強く賢い者、巧みな考えを持つ者に魚住泊を修造させるのです。その給料は播磨国、備前国の正税で賄います。願います。早急に天皇の御身に仁徳が降り、その仁徳が天皇の民らが魚となる悲しみから救うことを。
意見を列記するに良い機会となりました。過ぎ去りし延喜元年より献上したく考えていた意見を記載いたしました。重ねて述べることはありません。
(意見封事十二箇条 終)
摂津五泊
律令期の海路は、難波津を始点として、九州の大宰府はもとより、唐や新羅といった大陸国への海路が展開されていました。
その中でも特に、播磨までには5日かかるとされており、
(西)檉生(むろう)ー韓(から)ー魚住ー大輪田ー河尻ー難波津(東)
の順で、これを『摂津五泊(ごとまり)』といいます。
本文で、
現在、公私の船は韓泊から大輪田泊まで一日一夜のうちに航海可能となったためです。両泊の間に設置された魚住泊が利用されません。
とありました。
航海技術の発達か、別に航路を見つけたか、色を付けた間が半分の時間に短縮されたわけですね。
単語帳
舳艫(じくろ) | 船頭と船尾 |
---|---|
哀矜(あいきょう) | 悲しみ哀れむこと |
菩薩行 | 施しを行う修行 |
鍤(すき) | 鋤 |
不可勝計 | 枚挙にいとまがない |
判官(はんがん) | 掾にあたる位。 |
幹了 | 身体が強く賢い者 |
巧思(こうし) | 巧みな考えをすること |