文学 PR

天草版平家物語【現代語訳#8】鬼界ヶ島での生活と藤原成親の最期

この記事はアフィリエイト広告を利用している場合があります

プロフィール帳

『天草版平家物語』

時代:室町

作者:不明

概要:ラテン文字で書かれた平家物語。宣教師の日本語の教科書

7

オススメ度

2

日B重要度

8

文量

3

読解難易度

 

現代語訳

一覧に戻る
<<
続きを読む
>>
第八 成親の最期の事。その北の方都にて尼になり、かの後世を弔はれた事。ならびに少将重ねて鬼界が島へ流され、そこで康頼や俊寛やなどと憂目をしのがれた事。

右馬之允
どうせだから、成親卿の最期についてと、成経が鬼界ヶ島に島流しにされたことを語っていただきたい。

 

喜一
かしこまりました。おっしゃる通り、鹿ヶ谷に列席した俊寛僧都と藤原康頼、そして成経の三人は、薩摩国の鬼界ヶ島へ流されることとなりました。その島は、都を出て遥か波路を越えて行く場所であったため、定期的な船も通ってなければ、また、島に住む人も稀でした。

自然と人はいるものの、この国の人々とは異なり、肌の色は黒く牛のようであり、体にはびっしりと毛が生えている。加えて、話す言葉も理解することができませんでした。

とらちゃ
とらちゃ

都の人からしたら、畿内周辺までがこの国の人だったのでしょう

男は烏帽子を被ることもなく、女は髪を垂らすこともなく、さらには衣服をきてもなかったのです。人の姿とは思えない様子でした。また、定まった食べ物はなく、ただただ生き物を殺して食べることだけを第一としているようでした。

卑しい身分の者が山を開いて田を耕すこともないため米や穀物の類は一切なく、園で桑を育てることもないため絹や綿の類も存在しない。島の中には高い山が聳え、常に火が燃え続けている。硫黄というものが豊富にあるため、「硫黄の島」とも呼ばれているといいます。

雷は常に鳴り響き、上空で轟いたかと思えば地上にも響き渡っていました。山の麓では雨が頻りにに降る。このような環境のため、一日たりとも片時たりとも穏やかに過ごせる時はなく、人の命がいつ絶えてもおかしくないような場所でした。

さて、備前国有木の別所にいる成親卿は、ようやく少しは落ち着けるかと思われた矢先に、あの席にいた者のみならず、息子の成経までもが鬼界ヶ島へ流されたと聞き、

「今このような無情な扱いを受けて、これ以上どのような仕打ちを何を待つというのか。」

と嘆きました。その後、出家を志す旨を都にいる重盛に伝えたところ、重盛はこれを後白河法皇に申し上げ、その許しを得ることができました。こうして成親卿はすぐに出家し、栄華という名の衣を脱ぎ捨てたのです。憂き世を捨てた身として、墨染めの衣に身をやつしたのでした。

成親卿の北の方は、都の北山あたりに身を隠していました。ただでさえ慣れない場所での暮らしは心細いものなのに、ますます昔のことが偲ばれ、過ぎゆく月日をいたずらに明かし、煩わしい日々を送っていました。

かつては女房や侍が大勢仕えていたのに、今では訪ねてくれる者は一人もいない。ある者は世間体を恐れて去り、ある者は人目を憚ってて姿を見せなくなったのです。それでも、そんな中でも変わらず訪ねて来る者がいました。源左衛門尉信俊という情の深い侍です。ある時、北の方は信俊に言いました。

「ああ、哀れなことです。成親卿は備前の児島におられると聞いておりましたが、最近になって有木の別所というところに移されたと聞きました。何の役にも立たない我が筆の跡でも届けて、今一度、ご消息をお聞きしたいと思ってこります。何卒。」

信俊は涙をこらえて申し上げました

「私は幼いころから成親卿より御憐れみを受け、片時も離れずお仕えしてまいりました。それ故、流罪の際にも、何とかしてお供をしたいと願っておりましたが、平家が許さなかったため、力及ばず都に留まることになりました。今もなお、成親卿の私を呼ぶ声が耳に残っておりますし、私を諫められた言葉も肝に銘じて片時も忘れておりません。たとえこの身がどのような目に遭おうとも、急いで文をお届けし、またお返事を持ち帰ってまいります。」

そう申し上げると、北の方は非常に喜び、すぐに文を書いて信俊に託しました。幼い子ども達もそれぞれ文を書き、信俊に託しました。それらを受け取った信俊は、はるばる備前国有木の別所へと尋ね下り、成親卿を預かっている武士、粥田経遠に面会を願い出ました。経遠は信俊の成親卿に対する忠義を深く感じ入り、すぐに成親卿と対面しました。

ちょうどその時の成親卿は、都のことを思い出して嘆き沈んでいました。そこへ

「京より信俊が参りました。」

と伝えると、成親卿は

「夢ではなかろうか。」

とつぶやき、まだ信じられない様子でしたが、すぐに起き直り、

「ここへ、ここへ」

と信俊を呼びました。参上した信俊は、成親卿の姿を見て、住居のみすぼらしさを見て辛くなることはもちろんのこと、墨染の袂を拝見しては、心が消え入るような思いになりました。それでも気を取り直し、北の方が仰せになったことなど詳細に申し上げ、手紙を取り出して成親卿に差し上げました。それを開いてご覧になる成親卿、筆跡が涙にかすんで乱れ、はっきりと読み取れませんでした。それでも、

『幼い子ども達があまりにも貴方を恋しがり悲しんでいる様子を見ると、私も、尽きることのない物思いに耐え忍ぶことができません。』

と書かれていたのを読みました。

「今感じる悲しさは、これまで日頃感じていた恋しさなどとは比べ物にならないくらい深いものだよ。」

成親卿はそう言って、ますます深く嘆かれました。

さて、4、5日ほど滞在した信俊は

「ここに留まって成親卿の最期のご様子を見届けとうございます。」

と申し出たのですが、成親卿を預かっている粥田経遠は

「それは許されぬ。」

と強く拒んだため、信俊もどうすることもできませんでした。これを見た成親卿は

「それならば都へ戻りなさい。私はもうすぐ命を落とすことになるだろう。『藤原成親はこの世にいない。』と耳にしたら、どうか、心して私の後世を弔ってほしい。」

と言い、北の方への返信を書いて信俊に託しました。信俊はこれを受け取り

「必ず、再び参ります。」

と言って、帰京を申し上げて出ていこうとしました。すると成親卿は

「お前がもう一度ここへ来るまで待てるとは到底は思えない。あまりにも名残惜しい。しばらくここにいてくれないか、信俊。」

と言っては、退出しようとする信俊を何度も呼び戻しました。

しかし、そうは言ってもどうにもならないことなので、信俊も涙を抑えて都へと帰りました。北の方に成親卿からの手紙を差し上げ、北の方がそれを開いてご覧になると、夫はすでに出家したことが察せられ、また、その手紙の奥には髪一房が添えられていました。北の方は、再びそれに目を向けることができずにいました。

「形見というものは、むしろ虚しいものですね。」

と言って、身を伏して泣いきました。それを見た幼い子ども達も声をあげて泣き悲しみます。この様子は、言葉では言い表すのが愚かなほど、哀れなものでございました。

さて、成親卿は同じ年の八月十九日、備前国と備中国の境にある庭瀬の郷、吉備の山中という場所で、ついに命を奪われました。その最期の様子は噂となって様々な話が伝わりました。

酒に毒を入れて差し出したものの、効果がなかったため、岸から二丈(約6m)ほど下に長柄の刺股(ひし)を立て並べ、その上から突き落とし、刺股で貫いて命を奪ったというのです。

本当に無慈悲な酷い出来事でございました。成親卿の北の方は、夫が亡くなったと聞くと、

「どうにかしてもう一度変わらぬ姿を見たい。見ていれば、今日まで様子も変わらなかったでしょうよ。今はどうすれば良いのだろうか。」

と言って、菩提院という寺へ行き、出家して姿を変え、形ばかりではなく心から弔いを行い、成親卿の冥福を祈られました。幼い子ども達もそれぞれ花を手折り、閼伽の水をすくって、父の冥福を祈りました。その様子は、本当に哀れで胸を打つものでした。

また、鬼界ヶ島に流された者たちは、儚い命を草葉の露のように思いながらも日々を送っていました。成経の舅である平教盛の知行国、肥前国鹿瀬の庄から常に衣食が送られてきたため、それによって俊寛僧都も康頼も命を繋ぐことができました。

康頼は流罪となった際、周防国の室積(むろづみ)で出家し、法名を性照と名乗りました。もともと出家を望んでいたため、

終にかく 背きはてける 世の中を

疾く捨てざりし ことぞ悔しき

このように背き、ついに果ててしまった。この世をもっと早く捨てなかったことが悔やまれてならない。

と詠んだのだとか。

(第八。終。)

第七に戻る
<<
第九を読む
>>