貧窮問答歌について
基本情報
『貧窮問答歌』は、『万葉集』の五巻に収録されている長歌です。
- 作者:山上憶良
- 時代:奈良時代
- 内容:農民の生活の窮状を詠ったもの
そもそもの記録が少ない奈良時代で、一般国民の生活を記した超絶重要な史料として、位置付けられています。
長歌について
和歌に、5・7・5や季語必須といった一定のルールがあるように、長歌にも規則があります。
長歌のルール
- (5・7)音を3回以上続ける
- 最後を(7)音で締める
- その反歌として最後に1首を添える場合がある
『万葉集』には全部で1400首の和歌が収録されていますが、そのうち長歌が約250首収録されており、全体の17.9%を占めています。意外ですね。
『貧窮問答歌』も、上に挙げた規則に従いますが、中盤で字足らずと字余りが何度か発生しています。
貧窮問答歌の分析
よく、「農民の苦しみを詠んだ歌だ」と言われますが、原文・現代語訳をよくよく読んでみると、違和感があります。
それは、農民視点の歌になってない!!!!
ということです。詳しくみていきましょう。
あくまでも山上憶良の視点
農民の苦しい生活を・・・と言いながら、歌詞の一部の言い回しや暗喩表現から、農民の思いが反映れたた歌ではないことが分かります。
歌詞について
この歌詞がポイントです。
我を除(お)きて、人は有らじと、誇ろへど、
「自分を除いて、優れた人はいないだろう」と誇らしく思う(そんな自分は貧者)
搾取される側である農民が歌のように思うのはかなり傲慢だと思います。
このことに加え、歌詞で、家の様子や暮らしを述べている点から、真の農民ではなく、ある程度地位のある者の窮状を表していると考えることができるのではないでしょうか。
であれば、転じて、身分に関わらず国全体が窮状に立たされていたといえましょう。
具体的な生活苦は以下が歌詞に登場します。
- 潰れたような、傾いたみすぼらしい家に住んでいる
- 土の上に直に藁を敷いて
- 飯を炊くことすら忘れてしまった
- あるだけの布肩衣を全部重ね着しても寒い
決して最下位の身分ではないはずなのに、見るに堪えない窮状です。
比喩表現について
視覚的な窮状だけでなく、比喩表現からも真に農民視点の歌でないことが分かります。
- 竈の煙は立つことがなく(仁徳天皇の逸話)
- 短いものを端切るように
- 天地は広いというが、私から見れば狭いものだ。太陽や月は世界を明るく照らし、草木に英気を与えてくれるというが、私にも照らしてほしいものだ。
- 海松(みる)のように
- ぬえ鳥が物悲しそう鳴くように
③について
「天が、地が、万物を支配している、我々に秩序をもたらしてくれる」
という部分ですが、この考えは、天道思想といい、知識人に広まっていた思想になります。これの影響により官吏などの間では、天災を「為政者の責任である」と捉えるようになりました。
そのため、この一文は、「生活が苦しいのは為政者のせいである。」という意味になり、官吏視点の思考になります。
民衆視点であれば、天災が起きればまずは農耕儀礼に思考が向き、「国司のせいだ!」とはなりません。
④について
漁師でなければ、まず海松なんて見たことないでしょう。『貧窮問答歌』は漁師にクローズアップして詠まれた歌ではないため、そうでない暮らしをしている人が海松を使うと情景の想起が薄れてしまい、歌のバランスが崩れてします。
- 文学的な側面が強く、真に農民の思いを詠ったわけではない
- あくまでも役人としての山上憶良視点の歌である
山上憶良の意図
山上憶良の立場を見ると、もう2点、疑問が湧いてきます。
それは、
- 自分が治める国の窮状を詠むのは、自身に不利益では?
- 窮状を訴状や上申文(報告書)ではなく、なぜ歌集に?
という疑問です。
山上憶良の立場
作者の山上憶良(~733)は、筑前国を治める国司として晩年に派遣された人物です。
当然、その国民(筑前国)が貧しい暮らしをしているという事実が明らかになれば、管理職としての資質が問われるのは想像に難くありません。
しかし、自国民の窮状が公になることは自身に不都合なことであるにも関わらず、これを題材にした歌をわざわざ歌集に書き留めました。
これらを解き明かす手がかりは、『貧窮問答歌』が作られた時代背景にあります。
『貧窮問答歌』が作られたのは、天平3年~天平5年(731~733)と推測されていますが、歌の内容のような窮状になったのは何故でしょうか。
その手がかりは、723年「三世一身の法」です。この法律を知ったうえで、筑紫国の特徴と照らし合わせて、2つの疑問を解消していきましょう。
三世一身の法
三世一身の法はこちらで解説しています!
https://toracha.com/zakki/sanzei-isshin-kai01
筑前国というところ
筑前国とは、現在の福岡県に位置します。厳密には、秋月~博多~北九州西部の領域となります。
秋月は、現在の朝倉市に位置しています。城下町が残った静かな町です。かつては秋月藩が置かれており、明治時代には秋月の乱が起こった場所でもあります。神風連の乱と並んで、士族の反乱として扱われています。
博多、北九州は現在でも大都市なので説明するまでもないでしょう。
筑前国の歴史
さて、この筑前国ですが、超重要な施設と歴史を持っています。それは、「大宰府政庁」と「水城・大野城(白村江の戦いの対策)」です。
https://toracha.com/zakki/mizuki-kai01
博多には白村江の戦いや新羅滅亡から逃れた大陸の貴人、民衆が多く流れ込みました。さらには、大陸からの侵略に備えて、水城・大野城が建造されたり、防人が配置されたりしました。
福岡県では「鬼」がつく名字(「鬼塚」や「鬼河原」)が集中しているのですが、これが遠因となっているとも言われています。
というのも、朝鮮半島では「鬼」という名がよく使われていたためです。
そのような国難まみれの国、治める方も支配される方もすごく辛いわけです。国家をひとつの家と捉える考えが当時あったことも踏まえると、「大宰府」という名になったのは、しっくりくるのではないでしょうか。
官吏の繋がり
当時の大宰府長官は大友旅人という人物でした。西国を司る官庁なので、筑前国司の山上憶良は、大伴旅人の部下にあたります。そしてこの二人、かなり仲が良かったと言われています。
さて、ここで『貧窮問答歌』の話に戻るのですが、山上憶良からすれば、大伴旅人は上司にあたるので、国の現状は訴状や公文書として報告するのが道理です。しかし、山上憶良は、あえて『万葉集』を選んでいます。
その理由は、これまで説明してきた内容から推測することができます。これまでの話を全てまとめましょう。
貧窮問答歌が詠まれた裏事情
これまで説明してきたことを踏まえると、自身の任国の窮状をわざわざ歌にした理由は以下の通りであるといえます。
- 国内の窮状を、為政者に婉曲的に訴えるため。
- 訴状ではなく歌にしたのは、歌集であれば、役人に広く伝えることができるため。
700年代前半、既に説明した通り、重税や土地制度の揺らぎによって、国内の窮状がより深刻化しました。これは何も筑前国に限った話ではありません。だからこそ、任国の窮状を詠んでも特別不思議なことではなかったのでしょう。
そして、この窮状の解決は、国司という中間管理職にはどうすることもできない問題であるため、国司はより国家運営に発言力のある上級官吏に訴える他ありませんでした。
訴状や意見封事ではなく歌にその実態を込めたのは、上司にあたる大伴旅人と、役人として以上に文化人としてのつながりがあった可能性が考えられます。
仮にそうでなくても、歌集を手段として訴えることは、情景を誘いつつ、国内の窮状を広く伝えることができ、方法としては非常に有効です。それに、歌詞中に天道思想を持ち出しているのも、これの意味が理解できる役人の同情を誘った可能性があります。
また、大陸の影響を良くも悪くも受けてきた「とても辛い」大宰府のある筑前国だからこそ、歌にするだけの価値や説得力があったかもしれません。
さて、これらを踏まえた上で「貧窮問答歌」に触れてみましょう。きっと、見方が変わっているはずです。













