文学

懐風藻【現代語訳#1】序文。淡海三船と天智天皇の関係も解説!

現代語訳

つかみ

はるか昔の賢人に聴き、はるか昔の書籍を見ると、天孫降臨した瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の御世、ならびに神武天皇が橿原(かしはら)に建国した時、まだ天地が創造されたばかりで、人間の文化は作られていなかったことが分かった。

新羅を服従させた神功皇后の息子、応神天皇の即位の時、朝貢した百済の朝貢使が厩坂道で儒教を教えひらいた。また、第30代敏達天皇の御世では、高麗国は烏の羽に書いた上表文を我が朝廷に奉った。

儒教と仏教

時を戻して第15代応神天皇の御世。王仁が応神天皇の皇居であった軽嶋豊明宮(かるしまのとよあきらのみや)で道理にくらい者に対して指導を始めた。

そして第30代敏達天皇の御世、王辰爾(おうしんに)が敏達天皇の皇居であった訳語田幸玉宮(おさださちたまんみや)で儒教を教え広めた。ここにおいて、ついに儒教は浸透、孔子の示した道(儒教)に人々を向かわせることに成功したのである。

聖徳太子の御世。彼は第33代推古天皇の摂政となり、『冠位十二階』を定めた。礼と義を法で示した、はじめての出来事である。しかしながら、この時期は儒教ではなく専ら仏教が崇拝されており、漢詩を作る暇はなかった。

天智天皇の功績

そして時代は人々が天智天皇の命を受ける時代に至る。『近江令』だ。天智天皇は広く治国を始め、治世の方針を明らかにした。この方針は日本全国の統治の基準となったほどで、その功績は無限に広がる世界の光となった。

『近江令』制定は、天智天皇が

「風俗を正してそれを習慣化させるには、文化を尊ぶほかなく、徳を身につけ身を立てるには、何よりも先に学問を習得するべきである。」

とお思いになったことに始まる。

大学寮を建て、秀才を徴収し、5つの礼儀である五禮(祭祀、冠婚、賓客、軍旅、喪葬)を定めるなど、様々な制度を定めた。これが『近江令』である。法の寛大さというのは、古より今日まで未だ見たことがないほどであり、宮中に三つの階段を設けるほどの栄華を遂げ、日本全土は繁栄した。天皇が何もする必要がないほど安定した世の中となったのである。争いごとが無いため、屈強な兵士たちも暇が多いほどであった。

余暇が生まれた天智天皇。文芸に時間を注ぐようにもなり、しばしば学問に通ずる者を招いては酒宴を開いた。この酒宴の際、天皇自ら漢詩をお作りになったのである。賢者らはこれを褒めたたえ、詩歌にして奉った。見事な表現がいくつも刻まれた詩歌の数、百首どころではなかった。

壬申の乱と漢詩の隆盛

ところが、天智天皇の御世に戦乱が起きてしまう。壬申の乱である。壬申の乱によってそれら文書はたちまち灰燼と化し、跡形もなく消えてしまう。天智天皇は心を痛めて嘆き悲しんだ。「これがきっかけで、以降漢詩が廃れてしまうのではないかーーー」そう感じたのだ。

しかし、壬申の乱後も優れた漢詩を作る者が現れた。

大津皇子は天の画紙に鶴を描いた[述志:天紙風筆画雲鶴〜]の漢詩を作り、

文武天皇は月を霧に浮かべた[詠月:月舟移霧渚〜]の漢詩を作った。

また、三輪高市麻呂(みわのたけちまろ)は公的な題の中でも奇抜な[従駕応詔:臥病已白髪〜]の漢詩を作り、

藤原不比等は年の始まりである元日と、天皇の始まりである即位を巧みに表現した[元日。應詔。:斉政敷玄造〜]の漢詩を作りました。

このように、見事な漢詩は壬申の乱以前よりも多くそして盛んになり、彼らの名声は後の時代にも伝わったのだった。

淡海三船のわたくし事

さて、わたくし事だが、私は位階が低いが故に業務にゆとりがあったため、文学界に心遊ばせた。昔の人の遺跡を見ては、風月に思いを馳せた。今の時代に、彼らの生きた証はわずかしか残っていない。しかし、残された文書や詩歌はここにある!優れた作品を愛でて、はるか昔のことを思いやると、思わず涙が流れる。体を起こし、余暇を活かして優れた作品の痕跡を訪ね歩くのだが、風のように彼らの歌が過ぎ去り消えゆくのがなんとも惜しく思う。

『懐風藻』成立

そこで私は、孔子廟魯壁の壺のように、残された優れた作品を集め、一括りにした。対象時期は、遠く天智天皇の御世(即位:663~672)から平城京(710)に至るまで、要するに飛鳥時代の約50年間である。漢詩を約120首を収め、一巻に集成した。作者は64名、題に細かく姓名を記した。あわせて、位階と出身地を始めに置いた。私がこれら漢詩を選び抜いたのは、昔の優れた賢人らの教えを忘れないようにするためである。それを由としたために「懐風」と名付けた。

天平勝宝3年、辛卯(かのとう)の年、11月季節冬、これを献上する。

(『懐風藻』序文 終)

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