プロフィール帳

『奥の細道』

時代:江戸

作者:松尾芭蕉

概要:自然や歴史、人の営みの美しさを見出した、東北・北陸を巡る紀行文学

9

オススメ度

7

日探重要度

5

文量

5

読解難易度

 

登場する場所

番号と対応した地図です。東北地方の名所は頻繁に立ち寄っていることが分かります。

25『平泉』では、

53 姉歯松碑

54 尾絶橋

55 石巻

56 金華山

57 袖の渡石碑

58 尾ぶちの牧

59 萱原

60 戸伊摩

61 平泉

62 毛越寺

63 金鶏山

64 高館義経堂

65 泉ケ城

66 泰衡館跡

67 中尊寺金色堂

が該当します。

原文

十二日平和泉と心ざしあねはの松緒だえの橋など聞伝て人跡稀に雉兎蒭蕘の往かふ道そこともわかず終に路ふみたがえて石の巻といふ湊に出

こがね花咲

とよみて奉たる金花山海上に見わたし

数百の廻船入江につどひ人家地をあらそひて竈の煙立つづけたり

思ひがけず斯る所にも来れる哉

と宿からんとすれど更に宿かす人なし

漸まどしき小家に一夜をあかして明れば又しらぬ道まよひ行

袖のわたり尾ぶちの牧まのの萱はらなどよそめにみて遥なる堤を行

心細き長沼にそふて戸伊摩と云所に一宿して平泉に到る

其間二十余里ほどとおぼゆ

三代の栄耀一睡の中にして大門の跡は一里こなたに有

秀衡が跡は田野に成て金鶏山のみ形を残す

先高館にのぼれば北上川南部より流るる大河也

衣川は和泉が城をめぐりて高館の下にて大河に落入

泰衡等が旧跡は衣が関を隔て南部口をさし堅め夷をふせぐとみえたり

偖も義臣すぐつて此城にこもり功名一時の叢となる

国破れて山河あり 城春にして草青みたり

と笠打敷て時のうつるまで泪を落し侍りぬ

夏草や兵どもが夢の跡

卯の花に兼房みゆる白毛かな 曾良

兼て耳驚したる二堂開帳す

経堂は三将の像をのこし光堂は三代の棺を納め三尊の仏を安置す

七宝散うせて珠の扉風にやぶれ金の柱霜雪に朽て

既頽廃空虚の叢と成べきを四面新に囲て甍を覆て風雨を凌

暫時千歳の記念とはなれり

五月雨の降のこしてや光堂

現代語訳

5月12日、平泉を志した。

道中、あねはの松や、緒絶えの橋などの場所を人に聞きながら向かった。

とらちゃ
とらちゃ

『伊勢物語』紀貫之

『栗原の あねはの松の 人ならば 都のつとに いざと云はましを』

かの有名な栗原の姉歯(あねは)の松が、もし人の女性だったなら、帰京の土産(つと)として『さあ(一緒に京へ行きましょう)。』と言うというのに。

>あねはの松が非常に魅力的であるということを言っています。

『後拾遺集』藤原道雅

『みちのくの をだえの橋や これならん ふみみふまずみ 心惑はす』

みちのく(陸奥)にある「緒絶え(おだえ)の橋」というのは、まさにこれか。橋を踏むか踏まないか迷うように、あなたとの関係(緒)をどうしたら良いか、心惑うばかりです。

しかし、人気が少ない雉兎蒭蕘(ちとすうじょう。猟師や木こり)が行き来に使うような道で迷子になり、ついに石巻という港に出た。

大伴家持が『~黄金花咲く』と詠んで帝に奉った金華山が海上に見え、数百の廻船が入江に集っている。

とらちゃ
とらちゃ

『万葉集』第18巻 4097 大伴家持

『すめろきの 御代栄えんと あずまなる みちのく山に 黄金花咲く』

「すめろき(天皇)の御代は栄えるだろう」と東の陸奥山に黄金の花が咲いたよ。

人家が土地を争い(密集しており)、竈の煙が立ち続けていた。

「思いがけず、このような所にも来てしまったものだ。」

と、宿を借りようとしたが、全く貸してくれる人がいない。

ようやく貧しい小家を借りることができ、そこで一夜を明かした。また知らない道を迷い行く。

袖の渡りや尾ぶちの牧、真野の萱原などをよそ目に見て、遥かに続く堤を進んだ。

心細い長沼に沿って、戸伊摩(といま。現宮城県登米市登米町に比定)という所に出て、ここで一宿借りて、翌日平泉に到着した。

迷ったのは、20里余りであろうかと思う。

とらちゃ
とらちゃ

『夫木和歌集』藤原行家

『涙川 浅き瀬ぞなき みちのくの 袖の渡りに 淵はあれども』

涙川というだけあって、浅い瀬などありません(涙=深い悲しみ だから)。また、みちのく(陸奥)の「袖の渡り」という場所は深い淵だと聞いていますよ。

>とにかく、深い悲しみに暮れていることを言っています。

『後撰和歌集』第18巻 恋歌五 読み人知らず

『みちのくの をぶちの駒も 野飼ふには 荒れこそまされ なつくものかは』

みちのく(陸奥)の「尾ぶち」で育つ馬も、野で放し飼いすれば荒々しくなって、人に懐かなくなるものですよ(あなたが私をほったらかしにするから、私はますます心が荒んでしまい、あなたに思いをかけることは絶対に無くなりましたね)。

『金槐和歌集』源実朝

『みちのくの 真野の萱原 かりにだに 来ぬ人をのみ 待つが苦しき』

みちのく(陸奥)の「真野の萱原」ではないけれども、来てくれない人ばかりを、「もしも、少しの間だけでも・・・」と、待ち続けるのは本当に心苦しいことです。

>真野の萱原は古く和歌に登場する枕詞の名所で、「仮にだに(仮にほんの少し)」という言葉にかかります。

奥州藤原三代(清衡、基衡、秀衡)の栄光も一睡のうちに消えて、毛越寺南大門(円仁が開山。二代目基衡と三代目秀衡によって大伽藍と庭園が造営された)の跡は、元の場所から一里手前にある。

秀衡の居館(伽羅御所)の跡は、田や野原となって、金鶏山のみが形を残している。

まず、高館(源義経の居館。源義経は、源頼朝に追われて秀衡を頼ったが、秀衡亡き後、子の泰衡が義経を急襲し、最期の地となった)に上って北上川を見ると、南部から流れ来る大河である。

衣川は、泉が城(秀衡の三男、忠衡の居館)の周囲を流れており、高館の下でこの大河と合流している。泰衡らの館跡は、衣が関を隔てて南部口の守りが固められており、夷(えびす。野蛮人)を防ぐためだと見て取れた。

そして、選りすぐりの義臣たちがこの城に立て籠もったものの、その功名は一時でしかなく、草むらとなって消えたのである。

杜甫『春望』の一節『国破れて山河在り 城春にして草木深し』

を思っては、笠を尻に敷いて座り、奥州藤原氏の栄華から滅亡、そして現在までの時の移りに涙を落とした。

芭蕉

夏草や 兵どもが 夢の跡

夏草がよく茂っている。ここは、夢や野望を抱いた武士達が場所なのだ。それは今や、跡でしかない。

生命を感じさせる夏草と、散っていった武士たちが対比になっています。

 

曾良

卯の花に 兼房見ゆる 白髪かな

白い卯の花を見ていると、十郎権頭兼房の白髪が思い浮かばれるよ。

十郎権頭兼房は、室町時代初期に成立した軍記物語『義経記』に登場する架空の人物です。当時、60を超えて戦っていたといいます。

かねてから耳にしては驚いていた中尊寺の二堂(経堂・金堂)が開帳した。

経堂は、三将(文殊菩薩・優填王・善財童子)を残し、金堂は藤原三代の棺を納め、三尊の仏(阿弥陀如来・観世音菩薩・勢至菩薩)を安置している。

七宝(しっぽう。仏教に由来する幾何学模様)は散り失せ、珠玉の扉は風で破れ、黄金の柱は霜や雪で朽ちていた。

とっくに頽廃した空虚な草むらとなっているはずだが、四面を新たに囲み、屋根を瓦で覆って風雨を凌いでいた。

暫時、千歳(遥か昔)を偲ぶことができる記念館となっていたのであった。

五月雨の 降り残してや 光堂

木を腐らせる五月雨は、ここだけは降らなかったのだろうか。

奥州藤原氏の栄枯盛衰と光堂の今を対比しての感想でしょう

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