柳田国男明治
東北地方に伝わる逸話や伝承を記した説話集100話以上が収録されている。
全体構成
20話ずつ区切って記事にしました。
いずれも5000~10000文字ほどとなっています。
本文
21昔の人
山口孫左衛門(18に同じ)は村では珍しい学者で、常に京都から和書や漢書を取り寄せては読み耽っていた。少し変人だと言われる人物であった。
狐と親しくなったことがきっかけで「家に富をもたらす術を得よう」と思い立った彼は、庭の中に稲荷の祠を建て、その後には自ら京に上って正一位の神階を請けて帰ってきたという。それからというもの、一枚の油揚げを日々欠かすことなく自ら祠の前に供えて拝んでいた。
しばらくすると、狐も彼に馴れて、近づいては逃げなくなっていた。その隙を見て、彼は手を延ばし首を抑えるなどしたという。
村にはかつて薬師の堂守(どうもり)というお堂があった。その仏様は何の御利益もないため誰もお供え物をしていなかったが、孫左衛門には御利益があったと、人々はたびたび笑い事にしたのだという。
22魂の行方
佐々木君の曾祖母が死去した際、亡骸を棺に納めた。その夜、集まった親族の者は皆、座敷で寝た。素行の悪さが原因で離縁していた曾祖母の娘も集まりに来ていた。
『喪中は火の気を絶やすことを忌む』という風習があったため、祖母と母との二人だけが大きな囲炉裡の両側に座っていた。母人は傍に炭籠を置き、事ある毎に炭を継ぎ足していた。
その時、裏口の方から足音がしたので見てみると、なんと亡くなった曾祖母がいたのである。曾祖母は日頃、腰をかがんで着物の裾を引きずっていたため、裾を三角に取り上げて前に縫いつけていた。この老女の身なりが曾祖母の通りであっただけでなく、着物の縞目にも見覚えがあった。
「なんと!」と思う間もなく、曾祖母は二人が座っていた炉の脇を通って行った。その際、裾が炭取(炭入れの籠)に当たった。それが丸い形状であったためにくるくると回ったのだった。これが何を意味するか、そう、これは幽霊ではなく現実ということなのだ。
母は気丈な人であったため怖気ずに振り返った。曾祖母のその後の行き先を見ると、親縁の人々が寝ている座敷の方であった。近寄っていると思っていたところ、あの狂女(10昔の人)のようなけたましい声で、「おばあさんが来たぞお!!!」と叫んだのだった。
寝ていた人々はこの声に目を覚まし、ただ驚くばかりであったという。
23まぼろし
ある人の二七日法要の前夜、知り合いが集まって夜が明けるまで念仏を唱えていた。帰ろうとした時、家の門の石に腰掛けてあちらを向いている老女がいるのを見た。そして、その老女の後ろを、亡くなった人たちが通り過ぎて行くのを見たのだった。
このことを数多くの人が見ていたため、誰も夢と疑わなかった。現世にどのような執着があったのだろうか、ついにこのことを知る人は皆亡くなってしまった。
24家の盛衰
村々にある旧家を『大同(だいどう)』というのは、大同元年(806年)に甲斐国から移り来た家あったことが語源となっている。
大同年の頃というのは田村将軍(坂上田村麻呂)による東方征討の時代である(蝦夷征伐は802年)。また、甲斐国というのはこの地を治める南部家の本国である。つまり、人々はこの2つの事を混ぜたのではないだろうか。
※『大同』の字は『大洞』かもしれない。『洞』というのは東北で「家門」または「族」という意味である。『常陸国志(ひたちのこくし)』にその例があり、「ホラマエ」という語がここで見られる。
25家の盛衰
大同の祖先たちが始めてこの地方に到着した時、時節は年の暮であった。そのため彼らは門松を立てたのだが、家の両脇に置く門松の片方をまだ立てていないうちに元日になってしまったという。
このことから、今も大同の家々では吉例として、門松の片方を地に伏せたままにして、しめなわを引き渡すとのことである。
26家の盛衰
『柏崎の田んぼのうち』と称する阿倍氏は非常に有名な旧家である。この家の先代には彫刻に優れた者がいて、その者が遠野一郷の神仏の像の多くを作ったという。
27神女
早池峯から東北方向に閉伊川(へいがわ)という川があり、宮古の海とつながっている。この流域は下閉伊郡という。
遠野の町にある『池の端(はた)』と呼ばれる家の先代主人が宮古から遠野へ帰る時の話である。
この川沿いの『原台の淵』という地名の辺りを通った時に、若い女がいて、一封の手紙を託してきた。その女は
「遠野郷の裏手にある物見山の中腹あたりの沼に行って手を叩くと宛名の人が現れるでしょう」と言ってきた。
池の端の主人はこの頼みを請けたものの、帰路の途中ずっと心に引っかかって決心がつかないでいた。その時一人の行脚僧に出会い、行脚僧に手紙を読ませた。すると行脚僧、
「これを持って行けば、あなたの身に大きな災いが降りかかるだろう」と言うではないか。
「書き換えたものを宛名の人に渡そう」ということになって、行脚僧は主人に別の手紙を与えた。そして主人はこれを持って沼に行き、教わった通りに手を叩くと若い女が出てきて手紙を受け取った。その礼として主人は極めて小さい石臼を受け取った。その石臼に米を一粒入れて回すと下から黄金が出てきたのだった。
この宝物の力でその家はそこそこ裕福になったのだが、ある時、欲深な妻が一度にたくさんの米を入れた。すると石臼は自ら回転し始め、ついには主人が毎朝この石臼に供えていた水の、小さい窪みの中に滑り入っていて見えなくなってしまったのだった。
その水溜りはのちに小さい池になって、今も家の傍らにある。家の名を池の端というもそれが由来だという。
※この話に似た物語が西洋にもある。偶然であろうか。
28山男
初めて早池峯に続く山路を作ったのは、附馬牛村の何某という猟師で、時は、遠野に南部家が入部した後の頃である。その頃までは、その土地の者は誰一人としてこの山に入らなかったという。
この猟師が半分ばかり道を開いて、山の中腹に仮小屋を建て下山しようとした時の話である。
ある日、炉の上に餅を並べて焼きながら食べていた時に、小屋の外を通る者がいて、頻りに中を窺っていた。よく見ると、大人の坊主である。坊主はやがて小屋の中に入って来た。
坊主はさも珍しげに餅が焼けるのを見ていたが、ついに耐えることができず、これを取って食べたのだった。猟師は恐ろしくなりながらも、自ら手に取って残っていた餅を坊主に与えたところ、坊主はなおも嬉しげに食べたのだった。餅が全て無くなると坊主は帰っていった。
猟師は、坊主が次の日もまた来るかもしれないと思い、餅によく似た白い石を二つ三つ、餅に混ぜて炉の上に載せ置いたところ、その石は焼けて火のようになった。
そして翌日。思った通り坊主はまたやって来ては餅を食った。その様子は昨日のようである。餅が無くなり、その後白い石も同じように口に入れた。
すると坊主は非常に驚いて小屋を飛び出し、遂には姿が見えなくなった。後日、谷底でこの坊主の死体を見たという。
※北上川で昔起きた大洪水に白髪水というのがある。これは、「白髪の姥を欺いて餅に似た焼石を食わせた祟りである。」と言われている。この話によく似ている。
29天狗
鶏頭山(けいとうざん)は早池峯の前面に聳える険しい峯である。麓の里では、前薬師(まえやくし)とも呼んでいる。この山には天狗が住んでいるといわれており、早池峯に登る者は決してこの山を通らないようにしている。
山口の「ハネト」という家の主人は、佐々木君の祖父と竹馬の友である。この主人は極めて無法者で、若い時は、まさかりで草を苅り鎌で土を掘る、といったような乱暴な振る舞いばかり目立つ人であった。
ある時、人と賭け事をして、一人で前薬師に登ったことがある。帰ってきて以下のように話した。
「頂上に大きな岩があって、その上に大男が三人いた。そして彼らの前には多くの金銀が広げてあったんだ。男が俺の方に近寄ってきたと思って、気配がしたから振り返った。その男の眼光は何とも恐ろしいものだった。『早池峯に登ったのはいいものの、道に迷いながら来たのだ』と言ったら、男は『送り返してやろう』と言った。男が先を歩いて、俺たちは麓の近くまで来た。すると『目を塞げ』と言うから、言われるがままにして、しばらくそのままそこに立っていたんだ。その間に異人はたちまち見えなくなっていた。」
30山男
小国(おぐに)村の何某という男が、ある日、早池峯に竹を切りに行った。彼は、地竹がおびただしく茂っている中に大きな男が一人寝ているのを見つけた。地竹で編んだ三尺ほど(約1m)の草履を脱いで、仰向けで寝て、大きないびきをかいていた。
※「小国」とは、下閉伊郡小国村大字小国のことである
※「地竹」は深山に生息する背の低い竹である
31山男
遠野郷の民家に住む子どもや女が、異人に攫われて行くことが年々多くある。特に女に多いという。
32山の霊異
千晩ヶ岳(せんばがだけ)の山中には沼がある。この谷は物凄く生臭い臭いがする所なので、この山に出入りする者は本当に少ない。
その昔、何の隼人という猟師がいた。その子孫は今も生きている。この猟師は白い鹿を見つけ、捕えようとこの谷に追い込んだのだが、白い鹿がこの谷に千晩も籠ってしまった。これが山の名の由来となっている。
ついに姿を現した白鹿を撃つも逃げられてしまう。逃げた白鹿は次の山まで行ったところで片肢が折れてしまった。その山を今は片羽山(かたはやま)という。
さて、その後はというと、白鹿はまた先にある山まで行ったのだが、そこでついに死んでしまった。その地を死助(しすけ)という。現在は、死助権現(しすけごんげん)としてこの白鹿が祀られている。
※『古風土記』とそっくりな話である。まるで『古風土記』を読んでいるようであった。
33花
白望(しろみ)の山に泊まると、深夜にあたりが薄明るくなることがある。秋頃、茸を採りにこの山に行くと、山中で宿をとる者がよくこの現象に遭遇するという。
また、谷のどこかから大木を切り倒す音や歌声などが聞えてくることがあるという。この山の大さは測ることができない。
五月に萱苅りに行く時、遠く望むと桐の花が咲き満ちている山がある。まるで紫の雲がたなびいてるようである。しかし、何故かその辺りまでに近づくことができないのだ。
かつて茸を採りにこの山に入った者がいた。その者は、白望の山奥で金の樋(とい)と金の杓とを見たという。持ち帰ろうとするも極めて重く、鎌で片端を削り取とうとするもそれも出来なかった。また来ようと思って、樹の皮を白くして、これを栞(目印)とした。次の日、人々と共にここに行き、栞を探し求めたが、ついにその木の場所も見つけることが出来ず、諦めたという。
34山女
白望の山続きに離森(はなれもり)という所がある。その小字(こあざ)にある長者屋敷という小屋は、全く無人の領域である。
ここに行き炭を焼く者がいた。ある夜、その者は、その小屋の垂菰(たれごも)を掲げて小屋の中を窺う者がいるのを見た。髪を長く二つに分けて垂らしている女であった。
このあたりで深夜に女の叫び声を聞くことは珍しくはないという。
35山女
佐々木氏の祖父の弟はある日、白望に茸を採りに行き、その夜を白望で過ごした。谷を隔てて向こう側にある大きな森林の前を横切って、女が走り行くのを見た。中空を走るように思われた。
「待てちゃア!」
と二度ばかり呼ばれたのを聞いたという。
36狼(おいぬ)
猿の経立(ふったち)、御犬(おいぬ)の経立は恐ろしいものである。御犬とは狼のことである。
山口村に近い二ツ石山は岩山である。ある雨の日、小学校から帰る子どもがこの山を見ると、所々の岩の上に御犬がうずくまっているのを見た。やがて御犬は首を下から押しあげるようにして、代わる代わる吠えていた。
御犬は、正面から見ると生まれたての馬の子のように見える。後ろから見ると存外小さいらしい。御犬のうなり声ほど、物凄く、そして恐ろしいものはない。
37狼(おいぬ)
昔は、境木峠(さかいげとうげ)と和山峠(わやまとうげ)との間で、運送用の馬を引き連れる者がしばしば狼に遭遇していた。
そのため、運送業者らは、夜に仕事をする場合は約十人で群を成して行動する。端綱を一人一本用いて、一人で五~七匹の馬を引き連れる。十人で行動するため、合計で四十、五十匹の馬の数を引き連れていることとなる。
ある時、二百、三百ほどの数の狼が追ってきたことがある。その足音は山に響くほどであったため、あまりの恐ろしさに馬も人も一か所に集まって、周りに火を焚いて狼の襲来を防いだ。
しかし、それでもなお火の壁を乗り越えて入って来る狼もいたため、馬の端綱を解いてこれを周りに張り巡らせた。狼はそれを落とし穴などと思ったのだろうか、中に飛び入ってくることはなかった。その後、さらに遠くから狼を取り囲んだので、狼は成すすべなく、夜が明けるまで吠えていたのだとか。
38狼(おいぬ)
小友(おとも)村の旧家の主人である某爺(なにがしじい)という人は今も存命である。
町から村に帰る途中、頻りに御犬が吠えているのを聞いて、酒に酔っていたので某爺もまたその声を真似た。すると狼は吠えながら某爺の跡を来るようなり、某爺は恐ろしくなって急いで家に帰った。
門の戸を固く閉ざして静かに潜んでいたが、狼は家の周りを巡り、夜通し吠え続けた。夜が明けて外を見ると、狼は馬屋の土台の下を掘って中に入っており、七頭いた馬は残らず食い殺されていた。
この頃からこの家の時世は傾いた、とのことである。
39狼(おいぬ)
佐々木君が幼い頃の話、彼と彼の祖父との二人で山から帰っていた時のことである。
川の岸の上に、大なる鹿が倒れてあるを見つけた。横腹が破れており、殺されて間もないからだろうか、そこからまだ湯気が立っていた。祖父は、
「これは狼が食ったものだ。この鹿の皮が欲しいとは思うが、御犬は必ずどこかこの近くに隠れて、鹿の周囲を見ているに違いない。だから取ることはできん。」
と言った。
40狼(おいぬ)
草の長さが三寸(約1m)あれば狼は身を隠すことができるという。季節によって草木の色が移りゆくにつれて、狼の毛の色も変りゆくのである。