興禅護国論とは【わかりやすく解説】栄西はなぜ著したのか?序文から読み解く
解説
成立
『興禅護国論(こうぜんごこくろん)』は、鎌倉時代、臨済宗を日本に広めた栄西(えいさい)が著した、栄西の考え、禅宗の理念を知ることができる重要な書物です。経典ではありません。
成立は、建久9年(1198)とされています。
- 時代:鎌倉時代
- 作者:栄西
- 成立:建久9年(1198)
- 内容:仏教を否定するのではなく、仏教全体を盛んにするものであることを主張した
栄西はなぜ著したのか?
栄西は、もともと比叡山で天台宗を学んでいた僧で、その後、中国(宋)へ渡って禅を学びました。
帰国後、日本で禅宗を広めようとしましたが、当時の日本では既存の仏教勢力が非常に優勢で、さらに天台宗などから禅宗批判もあり、普及活動は困難を極めました。
そのため栄西は、禅宗が既存の仏教を否定するものではなく、むしろ仏教全体を盛んにするものであることを説明する必要がありました。
その主張をまとめたのが『興禅護国論』です。
内容
タイトルの「興禅護国」は、文字通り「禅を盛んにして国を護る」という意味です。
栄西は、禅を修行することで人々の心が正され、仏法が盛んになり、その結果として国家の安定にもつながると考えました。つまり、禅は単なる個人の精神修行ではなく、国家を安定させる(護る)ためにも重要な仏教宗派であると主張したのです。
また、この書物では、禅宗だけが正しいものとして他の宗派を排除するのではなく、禅・戒律・念仏などを含めて仏教を振興することが重要だと説いています。
栄西にとって禅の教えを普及するというのは、衰えていた仏教を再び盛んにするためのものだったのです。
新興宗教が誕生する時というのは、既存の仏教宗派では救われない、新たな精神的支柱が必要だと声をあげた時です。
そのため、既存の仏教宗派と対立することは少なくありませんが、栄西はむしろ「仏教の教え+禅の教え」が国をより盛んにすると主張したため、信者を徐々に獲得してきました。
当書は、その意義を読み取ることができます。
栄西はその後、鎌倉幕府の有力者である北条政子や源頼家・実朝らとも関係を持ち、鎌倉を中心に禅を広めました。
そして建仁2年(1202)、京都に建仁寺を建立します。建仁寺は日本の臨済宗における重要な寺院となりました。
なお、栄西は禅だけでなく、茶の普及にも大きな影響を与えた人物です。宋から茶の文化を持ち帰り、『喫茶養生記』を著して茶の効用を説きました。
日本史では、
栄西=臨済宗=『興禅護国論』=建仁寺=茶
と関連づけて覚えると整理しやすいです。
現代語訳
興禅護国論 序
大宋国天台山留学日本国阿闍梨
伝灯大法師位 栄西跋
大哉心乎。天之高不可極也。而心出乎天之上。地之厚不可測也。而心出乎地之下。日月之光不可踰也。而心出乎日月光明之表。大千沙界不可窮也。而心出乎大千沙界之外。其太虚乎。其元気乎。心則包太虚而孕元気者也。天地待我而覆載。日月待我而運行。四時待我而変化。万物待我而発生。大哉心乎。吾不得已而強名之也。是名最上乗。亦名第一義。亦名般若実相。亦名一真法界。亦名無上菩提。亦名楞厳三昧。亦名正法眼蔵。亦名𣵀槃妙心。然則三輪八蔵之文。四樹五乗之旨打併在箇裏。大雄氏釈迦文。以是心法。伝之金色頭陀。号教外別伝。洎鷲峯迴面雞嶺笑顔。拈華開千枝。玄源注万派。竺天継嗣晋地法徒。束以可知矣。寔先仏弘宣之法。法衣自伝。曩聖修行之儀。儀則已実。法之体相。全師弟之編。行之軌儀。無邪正之雑。爰西来大師鼓棹南海。杖錫東川以降。法眼逮高麗。牛頭迄日域。学之諸乗通達。修之一生発明。外打𣵀槃扶律。内併般若智慧。蓋是禅宗也。我朝聖日昌明。賢風遐暢。雞貴象尊之国。頓首丹墀。金隣玉嶺之郷。投信碧砌。素臣行治世之経。緇侶弘出世之道。四韋之法猶以用焉。五家之禅豈敢捨諸。而有謗此之者。謂為暗証禅。有疑此之者。謂為悪取空。亦謂非末世法。亦謂非我国要。或賎我之斗筲以為未徴文。或軽我之機根。以為難興廃。是則持法者滅法宝。非我者知我心也。非啻塞禅関之宗門。抑亦毀叡岳之祖道。慨然悄然是耶非耶。仍蘊三篋之大綱。示之時哲。記一宗之要目。貽之後昆。跋為三巻分立十門也。名之興禅護国論。為称法王仁王元意之故也。唯恃狂語之不違于実相。全忘緇素之弄説。憶臨済之有潤于末代。不恥翰墨之訛謬也。冀伝灯句無消。光照三会之暁。涌泉義不窮。流注千聖之世。凡厥題門支目。列於後云爾
『興禅護国論』序文 大宋国天台山留学日本国阿闍梨 伝灯大法師位 栄西跋
「心」とは何か
心とはなんと大いなるものであろうか。天の高さに限界はないが、心はその天の限界を超える。
地の深さを測ることはできないが、心はその地より更に深い。
太陽と月の光明に勝ることはできないが、心はそれらの光明以上に表れる。
大千沙界を窮めることはできないが、心は大千沙界のさらに上位へと超越する。
いや、心とはすなわち、太虚を包み込み、元気を孕むものなのである。
どちらか一方かという意味ではなく、どちらも内包するという意味です。
天は我によって覆われ、地は我によって載せられ、太陽と月とは我によって運行し、四時(春夏秋冬)は我によって変化する。つまり、万物は我によって発生するのである。
心とはなんと大いなるものであろうか。
釈迦と「心」
私はやむを得ず、強いて心について以下のように名づけた。
これらのことからつまり、三輪八蔵に書いてある四樹五乗の趣旨というのは、全て箇裏に存在するといえるのである。
大英雄釈迦はこれを「心法(心の働き)」として文章に起こし、弟子の金色頭陀(摩訶迦葉まかかしょうのこと。釈迦の「十大弟子」の一人)に伝えた。
そして、その頭陀は、伝えられた「心法」を「教外別伝」といったのである。
釈迦が霊鷲山で説法をした際、蓮華を手に取った。
この時、弟子の面々を見回したのだが、鶏嶺(先ほど登場した摩訶迦葉のこと)だけがその意図を理解して微笑んでいた。「拈華微笑」とはこのことである。
教えを継承した摩訶迦葉は千の枝葉を開き(摩訶迦「葉」にかけている)、ついにあらゆる宗派の玄源となったのであった。
釈迦の教えの伝播
それからというもの、釈迦の教えは天竺にて継承され、唐土では後漢の時代に渡り晋の時代に隆盛しはじめた。
この地の仏教徒は、束になってこの教えを知っていることだろう。まさに、先代が仏教を広く宣揚した賜物だ。この教えが世伝されたことは法衣が物語っている。邪法に惑わされず、自然と伝えられてきたのだ。
古の聖人が修行してきた作法というのは即ち、真実であり、既に明らかなことである。
その教法の本質とあり方は、師から弟子へと完全に伝えられるものであり、儀軌に則って行われる必要がある。ここに、邪正の混雑はあってはならない。
そして、西方大師は、棹(さお)を振って海を鳴らして南海へ、錫を鳴らして東川へ布教を始め、以来、その法眼は、ついには高麗にまで及んだのである。
禅宗が日本に伝来
牛頭の教えはついに日本にまで伝わった。これを学べば、あらゆる仏教の教えに通達し、これを修めれば、一生のうちに悟りを明らかにすることができる。外に向けては𣵀槃扶律を打ち立て、内に向けては般若智慧を併せ持つ。これこそが禅宗なのである。
わが国では、聖日は明らかに栄えており、その賢明な風は遠くまで遐暢している。
鶏を貴び象を尊ぶ異国の国々の使者も、宮廷の丹墀に首を垂れ、金隣玉嶺の郷のような遠方からも、信を寄せて宮廷の碧砌に参じる。信ある臣下は経世し、僧侶は出世の道を広めている。
『興禅護国論』を著した理由
四韋法は今でもなお用いられている。五家の禅でも、どうしてこれを捨てることができようか、いや、できない。
これを謗る者は、「暗証禅だ。」と言い、これを疑う者は、「悪取空だな。」とか、「末世に適した法ではない。」とか、「我が国の要の考えではない。」と主張する。
ある者は、私の斗筲を見下して、「まだ禅の教えを裏付ける経文を示してないではないか。」と言い、またある者は、私の機根を軽んじて、「この廃れた教えを広めるのは難しい。」と言う。
そのような者らはすなわち、仏法を身に備える立場でありながら、かえってを滅ぼそうとしており、矛盾した発言をしているといえる。私でない者(=そのような程度の者)に、どうして私の心が分かるだろうか。単に、禅関を閉ざすにとどまらず、仏の教えも否定することになっているのである。
また、そもそもなぜ、叡嶽の祖、伝教大師の道を毀るのだろうか。慨然である。悄然である。どちらが是であり非であろうか。さあ、考えるべきである。
よって、三篋の大綱を綴り、今の世の哲人らに示すこととした。
禅宗という一派の要目を記して、これを後昆への贈り物とする。跋して三巻とし、十門に分けて章立てとした。名付けて『興禅護国論』。
これを著したのは、法王や仁王の元来のご意志を明らかにするためである。私の狂った主張(いい意味で使ってる)は、法王らの実相に違わないと自負している。
緇素のたわいない説など全て気にしない。そして、臨済義玄の教えが、末代まで潤うことを思うと、翰墨の訛謬など恥ずかしくない。
私はこいねがう。伝灯の言葉が消え失せることなく、三会の有難い説法に光を照らし、その教えが尽きることなく泉のように湧き出し、千聖の世に流れ広がることを。
なお、この書の題目や構成は、後に列挙する。
まとめ
『興禅護国論』では、禅の修行によって人々の心を正し、仏教を盛んにすることが国家の安定につながると説きました。
そんな臨済宗は、室町時代に入ってもなお幕府の保護を継続して受けることとなり、さらに隆盛することとなります。
特に五山制度のもとで臨済宗寺院が整備され、五山文学などの文化も発展しました。
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