徳川吉宗江戸
享保7年(1722)に享保の改革の一環で行われた制度。一見関係なさそうだが、参勤交代の根本原理を変えた重要な制度でもある。
上米とは
上米とは、字のまま「米を上げる」の意味です。上げるとは、暴力団でいわれる“上”納金の上と同じで、要するに、献上する、という意味です。
米を幕府に献上する制度
上=献上する の意
このようになった原因は何でしょうか。
背景
端的にいうと、幕府の財政難の深刻化が原因です。
財政難の原因は主に二つです。
- 経済の発達(支出増)
- 飢饉の頻発(収入減)
経済の発達(支出増)
17世紀後半に東廻り航路と西廻り航路が整備されたといった例に代表されるように、農村部の余剰生産分が都市部へ流入、江戸、大阪、京都の三都が発達しました。大阪に蔵屋敷が誕生したのもこの時期です。
農村部に余剰生産が発生した理由は、農耕技術の向上にあります。例えば千歯扱、備中鍬。これは1697年刊行の宮崎安貞『農業全書』にみられます。さらには新田開発、金肥の普及など、作地面積の拡大に加えて農産物そのものの生産力が上がりました。
また、製鉄技術の発展は、美濃焼きや輪島塗といった各地域の特産品の誕生に貢献しました。最初に述べた通り、流通網が発展したわけですから、全国的な経済発展が起こったわけです。
当然、幕府も金がかかります。しかし、経済が発達したぶん、幕府の収入も増加しそうなイメージが湧きますが、実際はそうはいきませんでした。
飢饉の頻発(収入減)
幕府の収入は主に、石高と蔵入地からの収益です。そう、米なのです。いくら経済が発達しようと、幕府の収入は米に依存していました。
江戸時代の飢饉は天明の大飢饉が有名ですが、享保期にも飢饉は発生しています。農村部では凶作や飢饉が常態化。特に、享保の飢饉(1726)は非常に幕府の財政を圧迫したといいます。
徳川吉宗の時代、幕府と民の負担率は、五公五民、つまり半々が目標として掲げられました。しかし、享保期の石高に対する年貢の収納率は30%台を推移しており、四公六民にすら届いていない状況でした(角川書店『日本史辞典』)。
このような財政難は、可能なところから削っていく、あるいは増税する他ありません。そこで打ち出されたのが『上米の制』でした。
では、現代語訳を読んでから、その影響についてみていきましょう。
現代語訳
幕府直属の旗本に仕える御家人の数は代々増えてきた。
その一方で、蔵入地(幕府直轄地)
切米 :年数回に分けて米を支給する制度
扶持米:毎月一定の米を支給する制度
しかしながら、これまでは、各地の城に蓄えられた米(御城米)
こうした状況を受けて、先代の事例のように、
そういうわけで、御家人の内、
また、石高1万石につき米100石を幕府に積み上げる(納める)
これら対応につき、参勤交代の際、御家人の江戸滞在期間を1年間から半年間に変更した。財政の緩和を図ることが目的である。
影響
実は、ほとんどが幕府にメリットがなかったのがこの『上米の制』です。箇条書きしてみましょう。
幕府へのメリット
- 米の確保による一時的な財政緩和
当然、税収が増えるわけですので、一時的ではありましたが、財政緩和を図ることが可能となりました。米を売却して金銭に替えることで、米の流通を増やし、幕府は貯蓄にあてることができました。
幕府へのデメリット
- 大名への負担増加
1万石につき100石の増税なので、大大名はかなりの負担を強いられたことがわかります。また、扶持米の削減は、給与カットを意味するため、給与カット事業ともいえます。御家人の不満や不安は間違いなくあったでしょう。
そして、不足分を補填するためには民衆から年貢を増徴したり借金による対応しかありません。大名に向けられた政策でしたが、結果的に農民、商人といった民衆にまでも影響が及びました。
- 幕府の統治力低下
幕府の権威を示すのに最も効果があった参勤交代。これは諸大名に幕府に対抗する資金力をそぎ落とす狙いもありました。しかしこれが緩和されたわけですから、諸大名にとってはメリットになったものの、幕府にとっては大きなデメリットとなりました。
諸大名に対し、幕府の財政基盤の脆弱性が露見し、幕府の信頼が揺らぐきっかけになったわけですから。