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【中先代の乱を読む】”若君”北条時行の史料を分かりやすく現代語訳!

鎌倉幕府を滅ぼした人物の一人、足利尊氏の画像です。本記事の主役である北条時行の因縁の相手となります。
作品を知ろう!!!

梅松論

鎌倉幕府成立~室町幕府成立までの出来事を記す。両統迭立や元弘の変、中先代の乱など、高校日本史で扱う出来事の多くが登場する。

文献

内外書籍株式会社 編『群書類従 : 新校』第十六巻,内外書籍,昭和3. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1879789 (参照 2024-03-11) コマ番号78~88

中先代の乱の概要

今話題の『逃げ上手の若君』。作中で、主人公の北条時行は、2年後の戦い、『中先代の乱』において日本をひっくり返すほどの英雄となると言われていました。

ここでは、中先代の乱の経緯が分かる史料『梅松論』を現代語訳し、史実の中先代の乱を読みます。マンガ・アニメでどう描かれているか、比較しながら読むのも良いでしょう!

~簡単な中先代の乱の流れ~

鎌倉幕府滅亡の2年後、1335年に北条時行は挙兵します。ただ鎌倉に攻め上っただけでなく、これは全国的な内乱となりました。挙兵から1か月、ついに鎌倉入りを果たします。まさか大軍が攻めてくるなんて思ってませんから、鎌倉を守る兵は手薄、尊氏の弟である直義はあっけなく敗北します。それを案じた尊氏、ガチになって挙兵。なんと20日ほどで連戦連勝を果たし、速攻で鎌倉を再び落としました。これによって北条時行は没落していくのです。

ここまでが中先代の乱の話。なかなか上手に逃げ回る北条時行は、以降も何度も立ち上がります。その話はまた別の機会に。

まずは原文を読んでみましょう。

中先代の乱

原文

かくて建武元年も暮ければ、同二年、天下弥をだやかならず、同七月の初、信濃国諏方の上の宮の祝、安芸守時継が父三河入道照雲、滋野の一族等高時の次男勝寿丸を相模次郎と号しけるを大将として国中をなびかすよし、守護小笠原信濃守貞宗、京都へ馳申間、御評定にいはく、凶徒木曽路を経て尾張黒田へ打出べきか。しからば早々に先御勢を尾張へ差向らるべきとなり。[JUMP]

かゝる所に凶徒はや一国を相従へ、鎌倉へ責上る間、渋谷刑部、岩松兵部、武蔵安顕原にをいて終に合戦に及といへども、逆徒手しげくかゝりしかば、渋谷刑部、岩松兵部、両人自害す。重而小山下野守秀朝発せしむといへども、戦難義にをよびしほどに、同国の府中にをいて秀朝をはじめとして一族家人数百人自害す。[JUMP]

依之七月二十二日、下御所左馬頭殿、鎌倉を立御向有し。同日薬師堂谷の御所にをいて兵部卿親王を失ひ奉る。御痛はしさ申もなかゝゝをろかなり。武蔵の井の出沢にをいて戦ひ暮しけるに、御方の勢多く討れし程に俄に海道を引退給ふ。上野親王成良、義詮六歳にして同相伴ひ奉る。手越の駅に御着有し時、伊豆駿河の先代方寄来る間、扈従の輩無勢成といへども、武略を廻らして防戦ふ処に、当国の工藤入江左衛門尉、百余騎にて御方に馳参て忠節を致ける程に、敵退散しけり、則宇津谷を越て三河国に馳付玉ひて人馬の息を休めたまふ。[JUMP]

爰に細川四郎入道義阿、湯治の為にとて相模の川村山に有ける処へ息陸奥守顕氏の方より是迄無異に御上洛の由使節を遣しけるに、我敵の中に有ながら、一功をなさらんも無念也。又存命せしめば面々心元なくおもふべし。所詮一命を奉り、思ふ事なく子孫に合戦の忠を致さすべしとて使の前にて自害す。此事将軍聞召れ、殊に御愁嘆深かりき。誠に忠臣の道といへども、武くもあはれ成しなり。さればにや合戦の度毎に忠功を致し、帯刀先生直俊、左近大夫将監将氏等討死す。天下せいひつの後、彼義阿の為とて子息奥州、洛中の安国寺、讃州の長興寺を建立せられ、命一塵よりもかろくして没後に其威上られし事、有がたき事なりとぞ人申ける。[JUMP]

扨関東の合戦の事先達て京都へ申されけるに依て、将軍御奏聞有けるは、関東にをいて凶徒既に合戦をいたし、鎌倉に責入間、直義朝臣無勢にしてふせぎ戦ふべき智略なきに依て、海道に引退きし其聞え有上は、いとまを給ひて合力を加べき旨御申、たびゝゝにおよぶといへども、勅許なき間、所詮私にあらず、天下の御為のよしを申捨て、八月二日、京を御出立あり。此比公家を背奉る人々、其数をしらず有しが、皆喜悦の眉をひらきて御供申けり。三河の矢作に御着有て、京都鎌倉の両大将御対面あり。[JUMP]

今当所を立て関東に御下向有べき処に、先代方の勢遠江の橋本を要害に搆て相支る間、先陣の軍士阿保丹後守、入海を渡して合戦を致し、敵を追ちらして其身疵を蒙る間、御感の余に、其賞として家督安保左衛門入道道潭が跡を拝領せしむ。是をみる輩、命を捨ん事を忘れてぞいさみ戦ふ。[JUMP]

当所の合戦を初として同国佐夜の中山、駿河の高橋縄手、筥根山、相模川、片瀬川より鎌倉に到るまで敵に足をためさせず。七ヶ度の戦に討勝て八月十九日、鎌倉へ攻入たまふとき、[JUMP]

諏訪の祝父子、安保次郎左衛門入道道潭が子自害す。相残輩或降参し或責落さる。去程に七月の末より八月十九日に到迄二十日余、彼相模次郎、ふたゝび祖父の旧里に立帰るといへども、いく程もなくして没落しけるぞあはれなる。鎌倉に打入輩の中に曽て扶佐する古老の仁なし。大将と号せし相模次郎も幼稚なり。大仏、極楽寺、名越の子孫共、寺々にをいて僧喝食になりて適身命を助りたる輩、俄に還俗すといへ共、それとしれたる人なければ、烏合梟悪の類其功をなさゞりし事、誠に天命にそむく故とぞおぼえし。是を中先代とも二十日先代とも申也。[JUMP]

現代語訳

①挙兵

こうして建武元年も暮れ翌二年。天下はまだ穏やかにはならなかった。というのも、7月の初めに事件が起こったのである。後世に言う、『中先代の乱』である。

諏訪時継の父、諏訪頼重(戦国時代の諏訪頼重とは別人)を党首とし、信濃に拠点を置く滋野一族らが第13代執権故北条高時の次男、通称相模次郎こと勝寿丸を大将に担ぎあげて、建武政権に対抗して国中に挙兵を促した。

これを知った信濃守護小笠原貞宗が京都へ馳せた。京都の評定に曰く。

「やつらは木曽路を抜けて尾張黒田に出てくるだろう。ならば、早々に軍勢を尾張へ向かわせるべきだ。」

②女影原の戦い・小手指ヶ原の戦い

尊氏は鎌倉にいる直義に出撃を命じた。反乱軍は信濃一国を従え鎌倉へ攻め上り、渋川義季、岩松経家らと武蔵国女影原にて激突した。女影原の戦いである。反乱軍の猛攻により、渋川、岩松両者は自害した。

続く小手指ヶ原の戦いでは今川範満を破った。これを受け、重ねて直義は下野国守小山秀朝を出撃させた。

7月13日、出撃した小山秀朝は武蔵国の府中において反乱軍と激突、敗北し秀朝をはじめ小山一族100人自害した。

③護良親王暗殺、井出の沢決戦

7月22日、左馬頭殿こと足利直義は鎌倉将軍府を出向、淵辺義博に命じて、この日薬師堂御所において護良親王を暗殺した。享年28。仮にも将軍であった護良親王を反乱軍が迎え入れれば、鎌倉幕府が再興されかねないと恐れたためであった。その心の痛みは言い足りない。反乱軍は武蔵国井出の沢にまで侵攻し、ついに直義との決戦となった。結果、直義の軍勢は敗北、多くの将兵が討たれ東海道まで撤退した。

直義は成良親王と、6歳の尊氏の子義詮を連れて逃亡し、駿河国の宿駅、手越宿に着いた。この時、伊豆駿河の反乱勢力が押し寄せていた。直義や成良親王にお供する者共は無勢であったが策略を巡らして防戦、そこへ左衛門尉、入江春倫が約百騎を引き連れて防戦に加勢、忠節を示し、見事敵を退散させることに成功した。同国宇津谷(うつのや)峠を越えて三河国に入ったところで休息を取った。

④尊氏軍の家臣らの忠義深さ

所変わって相模国。細川四郎入道義阿こと細川頼貞は湯治のために相模国川村山にいた。ここで息子の細川顕氏から『反乱軍鎮圧のため上洛するよう』と報せが届くが、

「我は敵中にいながら何も出来ないとは無念である。このような者が敵中を抜けて上洛すれば面々は頼りなく思うだろう。たまたま一命を取り留めただけである。子孫にこのような足手まといに気を使わせてはならん。合戦において忠孝を示せよ。」

と言って使者の前で自害した。このことを聞いた尊氏将軍は深く嘆き悲しんた。忠臣としての姿勢を貫いたのである。武士として素晴らしい行動であった。

そうであれば、と、子孫は合戦の度に忠功を重ね、帯刀先生直俊こと細川直俊、左近大夫将監将氏(詳細不明)らが討死した(細川直俊の死亡日については他資料と相違がある)。天下が落ち着いた後、故細川頼貞のためとして子孫は奥州と洛中に安国寺を、讃岐国に長興寺を建立したという。

「塵よりも軽く命を捨てて没後に評価が上がるとはありがたいことである。」

と人々は言う。

⑤尊氏、本気の出兵

さて関東の合戦のことが京都に知らされ、これを足利将軍が後醍醐天皇に奏上した。

「関東にて北条残党が挙兵、鎌倉に攻め入られ、直義は無勢であったため防戦のための策略も使えず敗北。東海道に撤退しました。かくなる上は暇を頂いて加勢したい。」

何度もこのように申し上げるも勅許が出ず時間が過ぎた。

「これは武士の私闘ではない。天下のために私は行く。」

と申し捨てて8月2日、無断で京都を出立した。これを受けて後醍醐天皇は仕方なく尊氏に征夷大将軍の官職を与えた。建武の新政に預かる公家にお仕えする人々は無数にいるが、喜悦の眉を開き、尊氏にお供して進むこと三河国矢作(やはぎ)。ここにおいて京都鎌倉の両大将が対面した。

⑥橋本合戦

9日、官軍を名目に関東に下向する最中、反乱軍が遠江国の橋本で陣を構えたため、先陣の阿保丹後守入海こと阿保宗実を渡海させて合戦、反乱軍を蹴散らした。橋本合戦である。阿保光泰が傷を負ったが、武威のあまりを尊氏は讃え、褒賞としてかつて分倍河原の戦いで戦死した安保道潭の官職を継承した。これを見た輩は命を捨てることを忘れて勇敢に戦った。

⑦尊氏7連勝、そして鎌倉入り

この合戦を初戦として12日同国小夜の中山の戦いで名越高邦を破り、14日駿河国高橋縄手、17日箱根山、片瀬川 、18日相模川の戦いと7度の合戦を連勝、19日に鎌倉入りを果たした。

⑧諏訪頼重自害、北条時行没落

これを聞いて中先代の乱の党首諏訪頼重、諏訪時継の父子、そして安保道潭の子孫が自害した。残った輩には降参する者もおり、攻め落とされる者もいた。

7月末より8月19日までの20数日間、相模次郎こと北条行時は鎌倉に立ち返ることが出来たが程なくして没落したのは物悲しいものである。鎌倉に攻め入った輩の中にかつて先代を補佐した古老の者の仁義はない。大将の相模次郎はまだ幼い。

大仏一族、極楽寺流北条家、名越一族の幼い子孫共は寺々において喝食となった。しばらくして命助かった輩は還俗するもそれを知る人もおらず、人の道に背いたただの衆は功績を残せなかった。天命に背いたが故だと評価されている。

これを「中先代」とも、「二十日先代」とも言われた。

終わりに

いかがだったでしょうか。まとめサイトやWikipediaでは分からない細かい進軍経路が読み取れたのではないかと思います。

後醍醐天皇に味方して24日で鎌倉幕府を落とした足利尊氏は、今回も20日ほどで鎌倉を落としました。北条時行が信濃から鎌倉まで1か月を要していると考えると、尊氏、かなりの戦上手だと思います。特に兄弟揃ってからの箱根攻めは怒涛の勢いです。単純に反乱軍の体力がなかったのだとは思いますが、にしても強い。

本文は『梅松論』といい、上巻下巻の2巻構成で、室町時代に成立しました。中先代の乱はほんの一部にすぎません。上巻の30章のうちの一つです。

興味がある方は、ぜひこちらも読んでみてください。

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