21:昔の人
山口孫左衛門(18に同じ)は村では珍しい学者で、常に京都から和書や漢書を取り寄せては読み耽っていた。少し変人だと言われる人物であった。
狐と親しくなったことがきっかけで「家に富をもたらす術を得よう」と思い立った彼は、庭の中に稲荷の祠を建て、その後には自ら京に上って正一位の神階を請けて帰ってきたという。それからというもの、一枚の油揚げを日々欠かすことなく自ら祠の前に供えて拝んでいた。
しばらくすると、狐も彼に馴れて、近づいては逃げなくなっていた。その隙を見て、彼は手を延ばし首を抑えるなどしたという。
村にはかつて薬師の堂守(どうもり)というお堂があった。その仏様は何の御利益もないため誰もお供え物をしていなかったが、孫左衛門には御利益があったと、人々はたびたび笑い事にしたのだという。
22:魂の行方
佐々木君の曾祖母が死去した際、亡骸を棺に納めた。その夜、集まった親族の者は皆、座敷で寝た。素行の悪さが原因で離縁していた曾祖母の娘も集まりに来ていた。
『喪中は火の気を絶やすことを忌む』という風習があったため、祖母と母との二人だけが大きな囲炉裡の両側に座っていた。母人は傍に炭籠を置き、事ある毎に炭を継ぎ足していた。
その時、裏口の方から足音がしたので見てみると、なんと亡くなった曾祖母がいたのである。曾祖母は日頃、腰をかがんで着物の裾を引きずっていたため、裾を三角に取り上げて前に縫いつけていた。この老女の身なりが曾祖母の通りであっただけでなく、着物の縞目にも見覚えがあった。
「なんと!」と思う間もなく、曾祖母は二人が座っていた炉の脇を通って行った。その際、裾が炭取(炭入れの籠)に当たった。それが丸い形状であったためにくるくると回ったのだった。これが何を意味するか、そう、これは幽霊ではなく現実ということなのだ。
母は気丈な人であったため怖気ずに振り返った。曾祖母のその後の行き先を見ると、親縁の人々が寝ている座敷の方であった。近寄っていると思っていたところ、あの狂女(10昔の人)のようなけたましい声で、「おばあさんが来たぞお!!!」と叫んだのだった。
寝ていた人々はこの声に目を覚まし、ただ驚くばかりであったという。
23:まぼろし
ある人の二七日法要の前夜、知り合いが集まって夜が明けるまで念仏を唱えていた。帰ろうとした時、家の門の石に腰掛けてあちらを向いている老女がいるのを見た。そして、その老女の後ろを、亡くなった人たちが通り過ぎて行くのを見たのだった。
このことを数多くの人が見ていたため、誰も夢と疑わなかった。現世にどのような執着があったのだろうか、ついにこのことを知る人は皆亡くなってしまった。
24:家の盛衰
村々にある旧家を『大同(だいどう)』というのは、大同元年(806年)に甲斐国から移り来た家あったことが語源となっている。
大同年の頃というのは田村将軍(坂上田村麻呂)による東方征討の時代である(蝦夷征伐は802年)。また、甲斐国というのはこの地を治める南部家の本国である。つまり、人々はこの2つの事を混ぜたのではないだろうか。
※『大同』の字は『大洞』かもしれない。『洞』というのは東北で「家門」または「族」という意味である。『常陸国志(ひたちのこくし)』にその例があり、「ホラマエ」という語がここで見られる。
25:家の盛衰
大同の祖先たちが始めてこの地方に到着した時、時節は年の暮であった。そのため彼らは門松を立てたのだが、家の両脇に置く門松の片方をまだ立てていないうちに元日になってしまったという。
このことから、今も大同の家々では吉例として、門松の片方を地に伏せたままにして、しめなわを引き渡すとのことである。
26:家の盛衰
『柏崎の田んぼのうち』と称する阿倍氏は非常に有名な旧家である。この家の先代には彫刻に優れた者がいて、その者が遠野一郷の神仏の像の多くを作ったという。
27:神女
早池峯から東北方向に閉伊川(へいがわ)という川があり、宮古の海とつながっている。この流域は下閉伊郡という。
遠野の町にある『池の端(はた)』と呼ばれる家の先代主人が宮古から遠野へ帰る時の話である。
この川沿いの『原台の淵』という地名の辺りを通った時に、若い女がいて、一封の手紙を託してきた。その女は
「遠野郷の裏手にある物見山の中腹あたりの沼に行って手を叩くと宛名の人が現れるでしょう」と言ってきた。
池の端の主人はこの頼みを請けたものの、帰路の途中ずっと心に引っかかって決心がつかないでいた。その時一人の行脚僧に出会い、行脚僧に手紙を読ませた。すると行脚僧、
「これを持って行けば、あなたの身に大きな災いが降りかかるだろう」と言うではないか。
「書き換えたものを宛名の人に渡そう」ということになって、行脚僧は主人に別の手紙を与えた。そして主人はこれを持って沼に行き、教わった通りに手を叩くと若い女が出てきて手紙を受け取った。その礼として主人は極めて小さい石臼を受け取った。その石臼に米を一粒入れて回すと下から黄金が出てきたのだった。
この宝物の力でその家はそこそこ裕福になったのだが、ある時、欲深な妻が一度にたくさんの米を入れた。すると石臼は自ら回転し始め、ついには主人が毎朝この石臼に供えていた水の、小さい窪みの中に滑り入っていて見えなくなってしまったのだった。
その水溜りはのちに小さい池になって、今も家の傍らにある。家の名を池の端というもそれが由来だという。
※この話に似た物語が西洋にもある。偶然であろうか。
28:山男
初めて早池峯に続く山路を作ったのは、附馬牛村の何某という猟師で、時は、遠野に南部家が入部した後の頃である。その頃までは、その土地の者は誰一人としてこの山に入らなかったという。
この猟師が半分ばかり道を開いて、山の中腹に仮小屋を建て下山しようとした時の話である。
ある日、炉の上に餅を並べて焼きながら食べていた時に、小屋の外を通る者がいて、頻りに中を窺っていた。よく見ると、大人の坊主である。坊主はやがて小屋の中に入って来た。
坊主はさも珍しげに餅が焼けるのを見ていたが、ついに耐えることができず、これを取って食べたのだった。猟師は恐ろしくなりながらも、自ら手に取って残っていた餅を坊主に与えたところ、坊主はなおも嬉しげに食べたのだった。餅が全て無くなると坊主は帰っていった。
猟師は、坊主が次の日もまた来るかもしれないと思い、餅によく似た白い石を二つ三つ、餅に混ぜて炉の上に載せ置いたところ、その石は焼けて火のようになった。
そして翌日。思った通り坊主はまたやって来ては餅を食った。その様子は昨日のようである。餅が無くなり、その後白い石も同じように口に入れた。
すると坊主は非常に驚いて小屋を飛び出し、遂には姿が見えなくなった。後日、谷底でこの坊主の死体を見たという。
※北上川で昔起きた大洪水に白髪水というのがある。これは、「白髪の姥を欺いて餅に似た焼石を食わせた祟りである。」と言われている。この話によく似ている。
29:天狗
鶏頭山(けいとうざん)は早池峯の前面に聳える険しい峯である。麓の里では、前薬師(まえやくし)とも呼んでいる。この山には天狗が住んでいるといわれており、早池峯に登る者は決してこの山を通らないようにしている。
山口の「ハネト」という家の主人は、佐々木君の祖父と竹馬の友である。この主人は極めて無法者で、若い時は、まさかりで草を苅り鎌で土を掘る、といったような乱暴な振る舞いばかり目立つ人であった。
ある時、人と賭け事をして、一人で前薬師に登ったことがある。帰ってきて以下のように話した。
「頂上に大きな岩があって、その上に大男が三人いた。そして彼らの前には多くの金銀が広げてあったんだ。男が俺の方に近寄ってきたと思って、気配がしたから振り返った。その男の眼光は何とも恐ろしいものだった。『早池峯に登ったのはいいものの、道に迷いながら来たのだ』と言ったら、男は『送り返してやろう』と言った。男が先を歩いて、俺たちは麓の近くまで来た。すると『目を塞げ』と言うから、言われるがままにして、しばらくそのままそこに立っていたんだ。その間に異人はたちまち見えなくなっていた。」
30:山男
小国(おぐに)村の何某という男が、ある日、早池峯に竹を切りに行った。彼は、地竹がおびただしく茂っている中に大きな男が一人寝ているのを見つけた。地竹で編んだ三尺ほど(約1m)の草履を脱いで、仰向けで寝て、大きないびきをかいていた。
※「小国」とは、下閉伊郡小国村大字小国のことである
※「地竹」は深山に生息する背の低い竹である
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