文学

遠野物語<現代語訳#4>61話~80話

作品を知ろう!!!

柳田国男明治43年

東北地方に伝わる逸話や伝承を記した説話集100話以上が収録されている。

全体構成

20話ずつ区切って記事にしました。

いずれも5000~10000文字ほどとなっています。

遠野物語<現代語訳#1>序文・1話~20話 全体構成 20話ずつ区切っています https://toracha.com/bungaku/tonomonogatari-k...
遠野物語<現代語訳#2>21話~40話 全体構成 20話ずつ区切って記事にしました。 いずれも5000~10000文字ほどとなっています。 https://t...
遠野物語<現代語訳#3>41話~60話 全体構成 20話ずつ区切って記事にしました。 いずれも5000~10000文字ほどとなっています。 https://t...
遠野物語<現代語訳#4>61話~80話 全体構成 20話ずつ区切って記事にしました。 いずれも5000~10000文字ほどとなっています。 https://t...
遠野物語<現代語訳#5>81話~100話 全体構成 20話ずつ区切って記事にしました。 いずれも5000~10000文字ほどとなっています。 https://t...
遠野物語<現代語訳#6>101話~118話(終) 全体構成 20話ずつ区切って記事にしました。 いずれも5000~10000文字ほどとなっています。 https://t...

本文

61山の霊異

60に同じ人が六角牛の中で白い鹿に逢った。『白鹿は神である』という言い伝えがあったため、「もし傷つけるだけで殺すことに失敗したら必ず祟りがあるだろう。」と思案したが、彼は名誉ある猟人であったため、殺し損じた時の世間の嘲りを恐れ、ついにこの白鹿を撃つことにした。そして思い切って白鹿を撃った。が、手応えはあったものの鹿は少しも動かなかったのである。この時も先ほどと同様に非常に胸騒ぎがして、彼は、持っていた黄金の丸を取り出し、これに蓬を巻きつけて打ち放った。これは、日頃から魔除けとして、そして山賊と遭遇した時などの危急の時のために用意していたものである。さて、鹿はというと、打ち放ってもなお動かなかった。あまりにも怪しかったので近寄ってこれを見ると、その正体は鹿の形によく似た白い石であった。数十年もの間山に暮している者が、石と鹿とを見誤るわけもない。「これは全くもって悪魔の仕業である。」と思わされたのだった。この時ばかりは猟を止めようと思い立ったという。

62天狗

和野村の嘉兵衛爺((3・41・60に同じ)が、ある夜に山中で小屋を作っていたのだが、暇がなくて夜に作業していた。とある大木の下に寄り、自分と木の周囲に魔除けのサンズ縄を引き巡らせ、鉄砲を抱えてうとうとしていた時のことである。こんな夜深くに、物音がすることに気づくと、大柄の僧形の者が赤い衣を羽のようにして羽ばたき、その木の梢に覆いかかっていた。あっと気づき、銃を打ち放すと、すぐにまた羽ばいて空の中ほどを飛び返っていった。この時の恐ろしさはこの世の者とは思えないものだった。その前後で3度このような不思議な出来事に遭遭遇しており、その度に鉄砲を止めようと心に誓っていた。氏神に願掛けなどをするもすぐに思い返して、「年を取るまで猟人の仕事を辞めるなどできない。」とよく人に語っていたのだった。

63家の盛衰マヨイガ

小国(おぐに)の三浦某というは村一の金持である。今より二、三代前の主人はまだ貧しく、その妻は少し愚かで鈍い人であった。ある日、妻が門の前を流れる小川に沿って蕗(ふき)を採りに行ったのだが、良い物があまり採れなかったので、次第に谷の奥深くまで登っていた。さて、ふと見ると立派な黒い門の家がある。訝しく思いながら門に入って中を見ると大きな庭があり、そこは紅白の花が一面に咲きほこり、多くの鶏が遊んでいた。その庭の裏の方へ回ってみると、牛小屋があって牛が多くおり、また、馬舎もあってこちらも馬が多くいた。しかし、誰もいない。ついに玄関を上ってみると、次の間には朱と黒との膳椀が多く取り出してあり、奥の座敷には火鉢があって鉄瓶の湯が煮立っているを見た。それでも人影がないので、「もしや山男の家ではないか」と思い、急に恐ろしくなって、走って家に帰ったのだった。この事を人に語るも、本当のことだと思う者はいなかった。またある日、我が家のカド※に出て物を洗っていた時に、川上より赤いお椀が一つ流れてきた。極めて美しかったので拾い上げたが、これを食器に用いるには汚いと人に叱られないかと思い、ケセネギツの中に置いてケセネを量る器にしたのだった。この器でケセネを量り始めてからというもの、いつまで経ってもケセネは尽きない。家の者もこれを怪く思い女に問いかけると、女は川から拾い上げたのが始まりだという話をした。この家はこれより幸運に向い、ついに今の三浦家となった。遠野では山中にある不思議な家をマヨイガという。マヨイガに行き当たった者は、必ずその家の内の家具や家畜など、何でも持ち出して帰って来るのであった。神が善行を見ていたのだろうか、褒美を授けるためか、そのような人が家を見つけるのである。女が無欲で何もも盗んで来なかったが故に、このお椀が自ら流れて来たのだろうと言われている。

64家の盛衰マヨイガ

金沢村(かねさわむら)※は白望(しろみ)の麓にあり、上閉伊郡の中でも特に山奥にある村である。そのため人の往来が少ない。六、七年前、栃内村に住む山崎某という誰かが、この村から娘の婿を取った。この婿が栃内村から金沢村の実家に行こうとしたときのことである。山路に迷い、このマヨイガに行き当ったのだった。その家の様相というのは、牛馬が多いこと、紅白の花々が咲いていることなど、すべて前の話の通りであった。これも同じく玄関に入ると、膳椀を取り出してある部屋があった。座敷にある鉄瓶が湯たぎっていたため今まさに茶を沸かそうとするところのように見え、住人は便所などのあたりに立っているようにも思われた。茫然としていたが時間が経ってだんだん恐ろしくなり、引き返してついに小国の村里に出たのであった。小国では、この話を聞いて信じる者が少なかったが、山崎の方では「それはマヨイガであろう。膳椀の類を持ち帰ると長者になるらしいぞ。」と人は語る。婿殿を先頭に多くの人がマヨイガを求めて山奥に入った。婿殿が言う門があった所まで来たけれども、特別気にかかるようなものもなく、虚しく帰ったのであった。今現在、その婿が金持ちになったという話は聞かない。

※上閉伊郡金沢村

65姥神

早池峯(はやちね)は御影石の山である。この山のうち、小国側を向いている面に安倍ヶ城という岩がある。険しい崖の中ほどにあって、とても人が行ける所ではない。ここには今でも平安時代中期の安倍氏の棟梁、安倍貞任の母がここに住んでいるとの言い伝えがある。雨が降る夕方などには、岩屋の扉を閉ざす音が聞こえるという。そのため、小国、附馬牛の人々は「安倍ヶ城の錠の音がする。明日は雨だろうな。」などと言う。

66塚と森と

同じく御影山の附馬牛側の登り口にもまた安倍屋敷(あべやしき)という巌窟がある。とにかく早池峯は安倍貞任にゆかりある山なのだ。小国にある御影山登山口にも、討ち死にした八幡太郎こと源義家の家来を埋葬したという塚が三つばかりある。これは前九年の役の事で、源義家は安倍氏を討った。

67館(たて)の址

安倍貞任に関する伝説はこの他にも多くある。土淵村には昔、栗橋村との境に橋野という土地があった。この登山口より二、三里登った山の中に、広く平らな原がある。そのあたりの地名に貞任という所がある。その場所には沼があり、貞任が馬を冷した所として伝わっている。また、貞任が陣屋を構えた跡とも言い伝えられている。景色の良い所で、東海岸がよく見える。

68館(たて)の址

土淵村には安倍氏という家があって、初代は安倍貞任という人だという。その昔栄えていた家で、今も屋敷の周囲には堀があって、水が通してある。刀剣馬具も多く所有している。現在の当主は安倍与右衛門で、今も村で二三等の物持ちで、村会議員もしている。安倍の子孫はこの他にも多く存在する。例えば盛岡の安倍館の付近、厨川(くりやがわ)の柵の近くにある家が挙げられる。土淵村の安倍家から北に四十五町の地点に位置する、小烏瀬川(こがらせがわ)の入り組んだところにかつての館の址がある。八幡沢の館(たて)という。八幡太郎の陣屋に該当する。ここから遠野の町への路の途中には八幡山という山もあり、その山から八幡沢の館の方を見ると視界に入る峯がある。ここにもまた館の址の一つで、貞任の陣屋という。二つの館の間の距離は二十数町で、かつて矢戦をしたという言い伝えがあり、掘り起こすと、多くの矢の根が出てくる。この二十数町の間に似田貝(にたかい)という部落があるのだが、矢戦をしていた当時、このあたりは蘆が茂っており、また、土が固まらないためユキユキと地面が動くのだった。八幡太郎がここを通った時、敵味方いずれの兵糧も粥が多いことに気づき、「この地は煮た粥か」と言った。これが村の名の由来である。似田貝の村の外を流れる小川を鳴川という。この川を隔てて向こう側に足洗川村(あしらがむら)があるのだが、源義家が鳴川で足を洗ったのが村の名になったという。

※「ニタカイ」はアイヌ語の「ニタト」と音が似ている。この「ニタト」とは湿地から生まれた言葉で、「ニタカイ」と地形もよく合っている。

69家の神オシラサマ

今の土淵村には大同(だいどう)という家が二軒ある。山口の方の大同家の当主は大洞万之丞(おおほらまんのじょう)という。この人の養母にあたる、おひという名の者は、八十を超えた今もご健在で、佐々木氏の祖母の姉である。魔法に長けている人で、まじないを使って蛇を殺したり、木に止っている鳥を落したりといった術を佐々木君はよく見せてもらっていた。昨年の旧暦正月十五日にこの老女が以下の出来事を語ってくれた。昔あるところに貧しき百姓がいた。その百姓は妻はいないが、美しい娘がおり、また、一匹の馬を飼っていた。娘はこの馬を愛しており、夜になると厩舎に行って馬と一緒に寝、ついには馬と夫婦になった。ある夜、娘の父はこの事を知って、翌、娘には知らせずに馬を連れ出し、桑の木につり下げて殺したのだった。その夜、娘は馬がいないことを父に尋ねた折に事を知り、驚き悲しんで桑の木の下に行った。死んだ馬の首にすがって泣いていたのを父は憎く思い、斧で後ろから馬の首を切り落とすと、たちまち娘はその首に乗ったまま天に昇って去っていった。オシラサマという神この時に誕生した神で、馬をつり下げたあの桑の枝でその神の像を作ってある。作られた像は三つあり、最初に作られたのは山口の大同家にある。これを姉神し、二番目に作った山崎の在家権十郎(ざいけごんじゅうろう)という人の家に2つ目がある。そして3つ目は、佐々木氏の伯母の嫁ぎ先の家にあったのだが、今は家が絶えてしまってその行方は分かっていない。噂では、今は附馬牛村にあるといわれている。

70家の神オクナイサマ

69と同じ人の話である。オシラサマがある家では必ず一緒にオクナイサマも祀ってある。しかし、例外的に、オシラサマがなくてオクナイサマだけある家も存在する。また家によってオシラサマの姿が異なる。山口の大同にあるオクナイサマは木像である。山口に住む、辷石(はねいし)たにえ、という人の家ではオクナイサマは掛軸である。田圃の中に立っているオクナイサマは木像である。飯豊の大同にも、同じようにオシラサマはないがオクナイサマだけある家があるという。

71姥

この話をしてくれた老女は熱心な念仏者であるが、一般的な念仏者と違い、邪宗の一種のような信仰がある。老女は信者に伝道することはあるけれども、互いに厳重なる秘密を守っており、その作法については親子であっても一切たりとも知れないようにしているという。また、寺とも僧とも少しも関係が無く、人数は多くはないが、在家の者のみの集まりであるという。同じ仲間に辷石(はねいし)たにえという婦人などがいるそうだ。阿弥陀仏の斎日には、人が静まる夜中に会合し、人目付かない部屋で祈祷している。魔法、まじないを巧みに用いるが故に、郷党に対して一種の権威がある。

72里の神カクラサマ

栃内村の字、琴畑(ことばた)は山奥の沢に位置する。家の数は五軒ばかりで、小烏瀬(こがらせ)川の支流の上流にあたる。ここから栃内の民居までは二里の距離がある。琴畑の入口には塚があり、その塚の上には木の座像がある。人の大きさほどの像で、以前は堂の中にあったのだが、今は雨晒しとなっている。この像をカクラサマという。村の子供たちはこの像を玩具として用い、引きずり出しては川へ投げ入れたり路上を引きずり回したりするため、今は鼻も口も見えないようになってしまっている。かつて、子供を叱ってこの遊びを止めようとした者がいたが、かえって祟りを受け、病むことがあったという。

※神体仏像には子供と遊ぶことを好む神も多く、遊びを制止して神の怒りを買った例もそれに伴って多い。今回と同様の話は、

遠江小笠郡大池村東光寺の薬師仏(『掛川志』)

駿河安倍郡豊田村曲金の軍陣坊社の神(『新風土記』)

信濃筑摩郡射手の弥陀堂の木仏(『信濃奇勝録』)

などに書かれている。

73里の神カクラサマ

カクラサマの木像は遠野郷に多く存在する。遠野郷だけでなく、栃内の字西内(あざなにしない)にもある。山口分の大洞(おおほら)というところにもあったということを記憶している者もいた。カクラサマを信仰する者はいない。カクラサマは粗末な彫刻で、衣裳頭の装飾品もはっきりしない。

74里の神カクラサマ

栃内のカクラサマは半身像で、大小の像が二つ存在する。土淵一村では三つか四つ存在する。いずれのカクラサマも木の半身像で、鉈(なた)で荒削りした無恰好なものである。しかし、人の顔であるということだけは見て分かる。カクラサマとは、かつては神々が旅の途中休息した場所の名である。そのため、該当の地では、常にいる神をこのように唱えることなったのである。

75山女

離森(はなれもり)の長者屋敷にはこの数年前までマッチの軸木の製造工場(こうば)があった。その小屋の戸口には、夜になると女がやってきて、人を見ては、げたげたと笑うのだという。気味が悪く心細く思われたため、ついに工場を大字山口に移した。とはいえ原材料の木を伐りに離森に行く必要があった。工場を移して後、この離森に枕木を切り出すため小屋を設けた者がいたのだが、夕方になるとどこかへ迷い行き、帰ってきたと思うと茫然としていうことがしばしばあった。このような人夫が4、5人もおり、その後も絶えずどこかへか出て行くことがあった。この者らに話を聞くと「女がきて何処かへか連れだすのだ。帰ってからは2日も3日も茫然となってしまう。」と言う。

76

長者屋敷とは、昔、時の長者が住んでいた跡であり、その辺りには糠森(ぬかもり)という山がある。長者の家の糠を捨てたことが由来という。この山の中には五つ葉のうつ木があり、その下に長者が黄金を埋めたと伝わっている。そのため、今もそのうつ木のありかを求め歩く者が稀にいる。この長者は昔の金山師であったためだろうか、この辺りには鉄を吹いた際に出る滓(かす)が見られる。恩徳(おんどく)の金山はこの糠山の山続きにあり、そう遠くないところにある。

※諸国の「ヌカ塚」や「スクモ塚」には、その多くがこれと同じような長者伝説を伴なっている。また黄金埋蔵の伝説も諸国に限りなく多く存在する。

77

山口に住む田尻長三郎という者は土淵村一番物持ちが良い。この当主である老人の話である。当主が四十数歳の頃、甥の老人の息子が亡くなった。その葬式の夜、人々は念仏を終え各々帰ったのだが、この老人は話好きだったため、少し帰るのが遅くなった。話も終わり立ち返った時、軒にある雨落ち石を枕にして仰向けに寝ている男がいた。よく見ると、見知らぬ人で、死んでいるようにも見えた。月が出ている夜であったため、月光でその男を見ると、膝が立っており口が開いていたのである。この男は大胆者で、足を動かしてみたれど少しも身じろぎしない。道を妨げているとはいえ他に困る人もなかったため、結局、この男を跨いで家に帰ったのだった。次の朝この場に行って見ると、もちろんの昨夜の跡もなく、また、他には誰も、これを見たという人がいなかった。しかし、枕にしていた石の形とその配置とは昨夜見た通りであった。そして今、この老人は言う。「手をかけて見れば良かったのだが、半ば恐ろしかったのでただ足で触れただけだ。他にどうしたら良かったのか思いつかなかった。」と。

78

77と同じ人の話である。奉公者であった山口の長蔵という者がいた。今は七十歳強の老翁で、生存している。昔、夜遊びに出て帰りが遅くなった日のこと。主人の家の門は大槌往還路に接していたのだが、この門の前に着いた時、浜の方からやって来た人に会った。雪カッパを着ていた。近づいては立ち止まったため、長蔵も怪しみながらその姿を見ると、往還路を隔てて向こう側にある畑の方にずっと逸れて行ってしまった。「あの辺りには垣根があるはずなんだが。」と思い、よくよく見ると正しくその垣根はあった。どうやって行ったのか。急に恐ろしくなって家の中に飛び込んでは主人にこのことを語った。後々聞いた話だが、同じ時刻に新張村(にいばりむら)の何某という者が浜からの帰り道、落馬して死んだとのことだった。

79

78の長蔵の父をも同じく名を長蔵という。代々田尻家の奉公人で、妻とともに仕えていた。若いころの話である。夜遊びに出て、まだ日が落ちたばかりのうちに帰ってきた。門から入ると、洞前(ほらまえ)に立っている人影を見つけた。懐手(ふところで)をして筒袖の袖口を垂らしており、顔ははっきり見えない。妻は名をおつねという。おつねのところへ尋ね来たヨバヒト※ではないかと思ったので、勢いよく近寄ると、奥の方へは逃げるのではなく、かえって右手にある玄関の方へ寄った。馬鹿にされているようで腹立たしく思い、なお進み寄ると、その者は懐手のまま後ずさりして玄関の戸の三寸ほど明るくなっているところよりもずっと内の方に入っていった。しかし長蔵は自然なことだと思い不思議とは思わず、その戸の隙に手を差し入れて中を探ろうとしたが、中にあるの障子がしっかりと閉めてあった。ここで初めて恐ろしくなったのだった。少し引き下がろうとして上を見ると、その男が玄関の雲壁※に引っ付いていた。自分を見下すがごとく様子で、その首は低く垂れて自分の頭に触れるほどで、眼球は何尺も、飛び出ているように思われた。と語った。この時はただただ恐ろしかったため、何事かの前兆のというわけではなかった。

※「ヨバヒト」は夜這いをかける人である。女に思いを寄せる人をこのように言う。

※「雲壁」は長押(なげし)の外側のことである。

80家のさま

この話を理解するためには、田尻氏の家の構造を図にする必要がある。遠野一郷の家の造りはいずれも田尻氏の家と大同小異である。この家では門は北向きであるが、通例では東向きである。右の図で言うと、厩舎のあるあたりに門があるのが通例である。遠野郷では、門のことを城前(じょうまえ)と呼ぶ。屋敷の周囲は畠であるため、土屏などの囲いは設けていない。主人の寝室とウチとの間ある暗い小さな部屋は座頭部屋(ざとうべや)という。昔、家で宴会が行われた時は必ず座頭を呼んでいたらしく、その者を待たせておくための部屋であったという。

※この地方を旅行して最も印象的だった家は何れも鍵の手の形をしていた。この田尻家はその良い例である。

81

こちらをクリック!

error: コピーできません