作者不明室町
中世の教科書のひとつ。学問を学び、知恵を身につけることの重要性を説いている。
今回は、中世の教科書に使用されていた『実語教』の現代語訳を行います。
当時の教科書にはいったいどのような内容が書かれていたのかみていきましょう!
実語教の意味
「実語」という言葉にはちゃんと意味があります。
- 実語:密教に関する語。言葉と行為が一致している状態
『論語』や密教・儒教に関する経典をもとに作られています。
内容を簡単に要約すると、
限界のある物的な財産ではなく、無限の可能性を秘めた知恵を己の財産として身につけよう!とにかく学べ!
といった内容です。
他には、『庭訓往来』という作品が、教科書に用いられていました。
『庭訓往来』はこちらで現代語訳しています
現代語訳
山高故不貴 以有樹為貴
人肥故不貴 以有智為貴
山は高いだけであって、尊い存在というわけではない。ただ木が多くあるから尊いのである。金持ちは財産を多く所有しているから尊ばれるのではない。物事の道理をわきまえているから尊ばれるである。
木というのは、人のみならず様々な生命の生活に欠かせない存在です。建築資材となったり、薪となったり、食料となったり。
そのため、いくら高い山があったとしても、はげ山であれば存在価値がないのです。
富是一生財 身滅即共滅
智是万代財 命終即随行
富は一生の財産である。所有者が死ねば、その富も所有者の死と共に失われる。しかし、知恵というのは、万代の財産となる。死んだとしても、その知恵は残された者たちに引き継がれる。
玉不磨無光 無光為石瓦
人不学無智 無智為愚人
玉というのは磨かなければ光を放つことはない。光を放たない玉は石瓦と同じである。それと同様に、人は学ばなければ知恵は身につかない。知恵がない人は愚者と同じである。
倉内財有朽 身内財無朽
蔵に蓄えている財産は火災や水害で失われることがあるが、身の内に存在する才(知恵)は失われることはない。
雖積千両金 不如一日学
故に、千両の金貨を積んだとしても、一日勉めた学問には及ばないのだ。
兄弟常不合 慈悲為兄弟
兄弟というのは常に意見が合うことがない。しかし、兄は弟を憐み、弟は兄を敬うといった関係を弁えているため兄弟なのだ。
財物永不存 才智為財物
貨幣といった富を示す財物は永遠ではない。しかし、知恵という財物は永遠なのだ。
四大日日衰 心神夜夜暗
人の肉体は日々衰えるものであり、それと同時に人の精神も徐々に衰えていく。
とらちゃ 「四大」とは仏語の一つです。四大とは、「地大・水大・火大・風大」のことで、この四大が人の肉体を構成していると仏教界では考えられています。
幼時不勤学 老後雖恨悔 尚無有取益
幼い時に学問に励まなければ、老後それを後悔するだろう。そうしたところで、どうしようもない。
10歳前後が学問を学ぶピークです。
故読書勿倦 学文勿怠時
除眠通夜誦 忍飢終日習
読書に退屈しなければ、学問を怠ることはないだろう。
眠気を覚まして夜通し暗誦せよ。空腹に耐えて常に学べよ。
雖会師不学 徒如向市人
師匠に出会ったとしても学ばなければ、徒に、市場で多くの人に品物を売る商人のようになる。
師匠というのは、その人の迷いを払い、正しい道を示す存在です。そして人とはそれぞれが一つの道を持っています。
- 弟子→師匠(ただ一人の存在)
- 商人→顧客(大勢を相手する)
師匠という一つの道に出会ったとしても、学ばなければ、大勢の道に出会うこと(=迷いが晴れないまま)となってしまうという意味です
雖習読不復 只如計隣財
学んだあとに日ごろからそのことを意識しなければ、隣の家の財産を数えるようになってしまうだろう。
学問とは自分自身で顧みるものです。しかしそれを意識しなければ、他者と比べてしまう人になってしまうと言っているのです。
君子愛智者 小人愛福人
君子(賢者)は知者を愛し、小人(愚者)は金持ちを愛する。
雖入富貴家 為無財人者 猶如霜下花
富貴の家の仲間入りをしたとしても財産がなければ霜下で縮こまって咲く花のようになる。
とらちゃ 適材適所ということです。お金が無いのに金持ちの仲間入りしても、馴染めずに己に才能や能力を潰してしまうことになります。
雖出貧賤門 為有智人者 宛如泥中蓮
貧賤の家出身で知恵ある者は、泥の中から咲き誇る蓮のようである。
父母如天地 師君如日月
父母は偉大なる天地のようである。師君は日月のようである。
親族譬如葦 夫妻猶如瓦
それに対して親族は葦のようである。夫妻は石瓦のようである。
葦も石瓦も卑下される存在として比喩によく用いられます
父母孝朝夕 師君仕昼夜
父母には朝と夕に孝行せよ。師君には昼と夜に仕えよ。
交友勿諍事
友といる時は争ってはならない。
この場合の友とは、ただ一緒にいる人のことではなく、同志のことを指します。
己兄尽礼敬 己弟致愛顧
兄には自分から敬い礼を尽くし、弟には自分から慈愛する。
人而無智者 不異於木石
人而無孝者 不異於畜生
知恵のない人は感情のない木や石と同じである。忠孝をしない者は感謝の気持ちを持たない畜生と同じである。
不交三学友 何遊七覚林
修業の最初に必要な三学を学ばないで、どうして次の段階である七菩提分を習得することができようか。
三学:戒定恵の三つ。勤行に必要な三つの大切なこと
- 戒:悪をとめる
- 定:平常心でいる
- 恵:真実を悟る
七覚:七覚支のこと。またの名を七菩提分
- 念覚支 :自覚すること
- 択法覚支:真実を選ぶこと
- 精進覚支:努力すること
- 喜覚支 :喜びを感じること
- 軽安覚支:心を軽やかにすること
- 定覚支 :精神が乱れないこと
- 捨覚支 :対象に囚われないこと
林:僧侶が修行する場所のこと
不乗四等船 誰渡八苦海
四等の船に乗らずして、誰が八苦の海を渡ろうか。
四等:世界に広く伝えるべき四つの心
- 慈
- 悲
- 喜
- 捨
八苦:人間活動するうえで生じる苦しみ
- 生苦
- 老苦
- 病苦
- 死苦
- 恩愛別苦
- 所求不得苦
- 怨憎会苦
- 憂悲苦
八正道雖広 十悪人不往
涅槃に至るための八正道の世界は広いが、十悪を犯した人は住むことができない。
- 正見 :正しい見解
- 正思惟:正しい意思
- 正語 :正しい言葉
- 正業 :正しい行い
- 正命 :正しい生活
- 正精進:正しい努力
- 正念 :正しい意識
- 正定 :正しい精神統一
十悪:十種の悪行
- 殺生
- 偸盗 (ちゅうとう)
- 邪淫
- 妄語
- 綺語 (きご)
- 悪口 (あっく)
- 両舌
- 貪欲
- 瞋恚
- 邪見
無為都雖楽 放逸輩不遊
涅槃には楽園のような都は存在するが、道理に外れた輩はそこに行くことはできない。
敬老如父母 愛幼如子弟
老人を敬うことは父母を敬うように、幼子を愛することは子弟のように。
我敬他人者 他人亦敬我
己敬人親者 人亦敬己親
自分から他人を敬えば、他人は自分を敬ってくれる。
自分から他人の親を敬えば、他人は自分の親を敬ってくれる。
欲達己身者 先令達他人
身の上を良くしようと思い立つ持つ者は、まず他人の身の上を立てることである。
身の上を良くしようと思い立った段階では窮民といえます。つまり、自分より上の他人を立てることで、まずは相乗効果の恩恵を受け、身の上を立てる軌道を作ろうということです。
見他人之愁 即自共可患
聞他人之喜 則自共可悦
他人の悲しい出来事を見ては共に愁い、
他人の嬉しい出来事を聞けば共に喜ぶ。
見善者速行 見悪者忽避
他人の善行を見てはすぐに同じように行動し、他人の悪行を見てはすぐに避ける。
修善者蒙福 譬如響応音
好悪者招禍 宛如影随身
善を修めようとする者には幸いが訪れる。例えるなら、響く音に共鳴するかのよう。
悪を好む者には禍いが降りかかる。あたかも、自分の身に影が付いてきているように。
雖富勿忘貧 或始富終貧
雖貴勿忘賤 或先貴後賤
富を得たとして貧しかった時期を忘れるな。人によっては、金持ちから貧乏になる人もいる。
身分が高くなったとしても、賤しかった時期を忘れず、賤しい身分の者を軽んじるな。高い身分から賤しい身分になる人もいる。
夫難習易忘 音声之浮才
又易学難忘 書筆之博芸
そもそも、習うことが難しいのに、忘れやすいものがある。読経や暗誦などである。
対して、学ぶことは簡単なのに、忘れ難いものもある。書などの様々な芸術である。
但有食有法 亦有身有命
食が存在すれば、それには作法が存在する。人の身が存在すれば、それには命が存在する。
猶不忘農業 必莫廃学文
そして農業従事者のことは忘れてはならない。様々な作法や祭祀、勤行には食や農が関係しているからだ。それを疎かにしなければ学問や文芸は廃れることは決してない。
故末代学者 先可案此書
故に、後世の学者は、学ぶときはまずこの書を思案するべきである。
是学文之始 終身勿忘失
この書は初学の者のための基本書である。死ぬまで忘れたり失ったりしてはならない。
実語教[終]
『実語教』完。