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梅松論(上)<全現代語訳②>5天皇位継承問題の歴史~8元弘の乱

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不詳 室町

鎌倉幕府成立~室町幕府成立までの出来事を記した。両統迭立や元弘の変、中先代の乱など、高校日本史で扱う出来事の多くが登場する。

 

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梅松論(上)<全現代語訳①>1導入~4承久の乱後の天皇、執権、摂家将軍 サイトマップ 1 導入 2 大将軍の歴史と源三代将軍の滅亡 3 北条家と承久の乱 ...

5:天皇位継承問題の歴史

同正中2年(1325)の夏、高時は病によって落髪。執権を辞し、嘉暦元年(1326)より北條守時、北條維貞を連署として政治を動かした。しかし、この時から関東の政道は乱れ始め、道理に叶っていないとの声が多くなった。特に、在位に関する了解を違えたことは天命に背く行為といえよう(先に解説すると、「得宗に執権職を継がせないのは天命に背いている」という意味。第15代執権、北條貞顕以降、嫡流以外から執権が任ぜられることとなる。つまり、高時の代で得宗による執権継承という慣例が途絶えたことを意味する。)。

それはなぜか。天皇を例にあげる。昔より譲位による即位というと、代々の帝より受け給わるもので、帝が在位中に、次期天皇として予め東宮を立てる。そのため、譲位の際に天皇の位が乱れることはなかった。

これによって乱れた昔の例を挙げよう。

一つ目。第38代天智天皇は、ご子息の大友皇子ではなく、天智天皇の弟の天武(大海人皇子)を第40代天皇として譲位しようとした(当時、親子継承ではなく、兄弟継承が慣例であった)。これを聞いた大海人皇子は、この即位は望んだものでは無いという旨を表明するために出家、吉野山へ入山した。この間に天智天皇は崩御したため、大友皇子が第39代弘文天皇として即位し、その後、大海人皇子を攻撃し続けることとなった。時を見計らった大海人皇子は挙兵し、東国の要所である伊賀、伊勢に向かった。天皇家の祖先、天照大神が祀られている伊勢大神宮を拝み、官軍として兵を招集し、美濃、近江の境での合戦で勝利を収めたのだった(決戦となった「瀬田橋の戦い」は近江、山背の国境であるため、その誤りか。)。遂に壬申の乱を平定し、大海人皇子は第40代天武天皇として即位した。飛鳥浄御原宮にて天下を治めたため、清見原天皇とも言う。

二つ目。第49代光仁天皇は先代称徳天皇より譲位を受けた。子細があり、政務に携わっていた藤原百川(道鏡の誤りか。称徳天皇の絶大な信頼を得た道鏡は天皇位を狙い宇佐八幡神託事件をきっかけに追放された。その後、藤原百川が光仁天皇を擁立し、政務を担当した。)を誅伐して光仁天皇は即位した。

三つ目。第52代嵯峨天皇の御代。第51代平城上皇は、女官、藤原薬子の勧めにより合戦を始め、嵯峨天皇は先帝との合戦に及んだ。薬子の変である。有事があったとはいえ、故第50代桓武天皇の律令による中央集権化を強める方針(勘解由使の設置やなど)に則って嵯峨天皇はその御代を全うした(蔵人所の設置などー嵯峨天皇の功績『凌雲集』などの解説はこちら)。

四つ目。第55代文徳天皇のご子息、第一皇子惟高親王と第四子惟仁親王は共に不足ない出自で、天皇位継承の条件を持ち合わせていた。選定が難しかったために文徳天皇が難渋していたところ、相撲、もしくは競馬で雌雄を決することにし、結果、惟仁親王が第56代清和天皇として譲位を承ったのであった。これは『曽我物語』の序文に書かれている言い伝えである。

五つ目。第77代後白河天皇の御代、保元元年(1156)7月21日に第74代鳥羽院が崩御した。それからわずか10日間のうちに兄である第75代崇徳上皇と天皇位を争うこととなった。保元の乱である。後白河天皇の勅命により洛中に布陣し合戦に及んだ。様々な攻防が繰り広げられるも、天命により、後白河天皇が勝利、その御代を全うした。敗れた崇徳院は讃岐国へ配流となり、後白河天皇による宣旨(院宣なのは、この後、後白河院として院政を行ったことに影響しているか。1556年時点では、まだ在位中。)を受けた源平両兵士は残らず誅伐された。

六つ目。第80代高倉院は賢王でいらっしゃったので、高倉院の御代(1168-1180)は長い期間治まっていた。そのため、次なる天皇位が長く決まっていなかったところに、安徳天皇が3歳にして第81代天皇に即位したのだった。これは、外祖父である平清盛禅門の計らいである。それだけでなく、平清盛は政権を我がものとし、天の道理に背いたのであった(冒頭の泰時、義時の問答に同じ。)。

7つ目。承久3年(1221)に第82代後鳥羽院が乱を起こし、結果として隠岐国に配流となった。そして第86代後堀河天皇は執権北条家の計らいにより即位したのである。この7例はどれも一旦は譲位の障害となってしまったが、総体、天皇家は途絶えることなく、道理に従って存続している。

6:持明院統と大覚寺統

ここで第88代後嵯峨院。在位期間である寛元年中(1243-1247)に崩御した際に伝える遺勅を前もって伝えた。

『我が第一皇子の後深草院を次期天皇として即位させなさい。退位して以降は、長講堂領(=持明院統)180ヶ所を御料地として与える。膨大な領地を与えるため、それ以降の時代、持明院統の子孫は永遠に天皇位を望んではならぬ。故に後深草院の退位後は、第二皇子の亀山院(=大覚寺統)が第90代天皇に即位するべし。我が家系による治世を絶やすでないぞ。子細があってこのように言うのである。』と。

これによって後深草院は第89代天皇として即位し、御代は宝治元年から正元元年(1247-1259)の13年間であった。

亀山院の退位後は、亀山院の第二皇子である後宇多院(=大覚寺統)が第91代天皇として即位した。御代は建治元年から弘安十年(1275-1287)の13年間であった。

後嵯峨院が崩御して以降、91代までの後深草院、亀山院、後宇多院の3代はそれぞれ譲位によって即位し、天下は治まっていた。

次は、後深草院の第二皇子、伏見院が第92代天皇(=持明院統)として即位する。御代は正應元年から永仁六年(七年の誤りか。)(1288-1298)の13年間である。

更にその次、第93代天皇に即位したのは伏見院の第一皇子、持明院(後伏見院)である。御代は正安元年から同三年(1298-1301)の4年間である。

この伏見院と後伏見院の両院の即位は、第9代執権北条貞時が政権を掌握したいとの邪な考えによって起き、同時に、2代続いて持明院統が即位したことによって、亀山院の子孫(=大覚寺統)は不満が溜まっていた。そのため、次の第94代天皇に後宇多院の第一皇子が後二条院(=大覚寺統)として即位した。御代は乾元元年から徳治二年(1302-1307)である。

若くして崩御した後二条院。在位期間が短かったため続けて天皇位を大覚寺統から出すつもりだったが、皇子(邦良親王)はまだ幼かった。そこで立ち返り持明院統から即位することとなった。後伏見院の第四皇子、第95代萩原新院(花園院)である。その御代は延慶元年から文保二年(1308-1318)の11年間である。

そして再び道理に戻る。後宇多院の第二皇子、第96代後醍醐院(=大覚寺統)の即位である。御代は元應元年から元弘元年(1319-1331)の13年間である。

お気づきだろうか。即位が転変する両統迭立という状態が後嵯峨院の遺勅に反しているということに。特に、伏見院、後伏見院の持明院統の連続即位は関東政権による道理に外れた行いであったため、「どうして天命に背くのだろうか。」と思慮のある人々を驚かせたのであった。

7:両統迭立

このようになったのには理由がある。後嵯峨院の第一皇子(後深草院)の第一皇子である伏見院が在位(1288-1298)の時。関東殿へ密かに仰ったのだった。

「亀山院(=大覚寺)の子孫が代々即位すれば、大覚寺統の権勢はますます強まり、諸国の武家が彼ら家系を擁護することとなるため、関東殿の立場が危うくなります。何故なら、承久の乱(1221)の際、時の関東殿、北条義時と泰時の治世に、第82代後鳥羽院を隠岐国に配流したためです。後鳥羽院は心中穏やかではなかったでしょう。後鳥羽院は深く関東殿を恨み、その恨みは天命となって関東殿を討ち滅ぼすかもやしれません。そうなれば、天皇の治世となります。その時がまだ来ていないため、今か今かと思うと安心できません。我々、後深草院の子孫(=持明院統)は、元より関東殿の安寧を願っております。」と。

これによって関東殿は、後見してくれている持明院統の天皇位継承を認めなかった後嵯峨院を恨むこととなったのである。そして、しばらくして幕府は天皇位に関して後嵯峨院の第一皇子後深草院と、第二皇子亀山院の両系統の子孫が10年毎に代わる代わる即位することを申し上げ、両統迭立の明確な条件を提示したのであった。俗に『文保の和談(1327)』と呼ばれる。

第96代後醍醐院(=大覚寺統)の御代(1318-1339)はどのようにして決まったのか。時は戻る。当時の天皇、第94代後二条天皇(=大覚寺統)の勅使として吉田定房。持明院(第93代後伏見院)の院使として日野俊光の次男、日野資朝。両使いが京都と鎌倉を2度も3度も往復した。勅使と院使、両者は関東において多くの問答を交わした。大覚寺統の吉田定房が言う。

「すでに後嵯峨院の遺勅により、第一皇子である後深草院の子孫は長講堂領を与えられたことによって勢いを増し、管領として関東将軍を補佐している以上、第二皇子の亀山院の子孫が代々天皇位を継承するべきです。それなのに、関東将軍が介入し両統で天皇位が転変しています。こちら大覚寺統の子孫はこの現状を常にひどく煩わしく思っています。御方らは『遺勅を全うする』と申されますが、このまま変わらないのであれば、道理の有り無しを判断しないわけにはいきません。」と。

そのため、第二皇子(亀山院)の孫にあたる第96代後醍醐院(=大覚寺統)が天皇位を承ったのだった。御代は元應元年から元弘元年(1319-1331)に至るまでの13年間。

遂に後嵯峨院の遺勅が定まったと思われたところに、元徳二年(1330)に持明院(後伏見院)の皇子(光厳天皇)を次期天皇として立太子したのであった。もってのほかの出来事である(1324年に後醍醐院による倒幕計画、正中の変が勃発するも失敗。これによって更に関東将軍と持明院統の勢力が拡大し、持明院統立太子の要因の一つとなった)。

後醍醐院は語る。

「初代神武天皇以来、無位の者(関東将軍)が天皇位を決めるなど、聞いたことがない。それだけでなく、後嵯峨院によってはっきり伝えられた遺勅を破るなど、天命をなんだと思っているのか。10年毎に天皇位を交代するなどという規定を簡単に定めようとは。そのため、持明院統の御代10年の間は治世といい長講堂領といい、ご満足いただけるだろう。しかし、こちら(=大覚寺統)の子孫が空位の時は、いずれの所領も持てないのである。この度、持明院統の子孫が既に立太子している以上、持明院統の治世10年は約束されている。そのため、在位10年の間は、持明院統が有する長講堂領を亀山院の子孫(=大覚寺統)に寄進すべきである。」

後醍醐院は幾度となく道理を立てて問答に及んだが、その甲斐もなく、持明院(後伏見院)の第三皇子、光厳院が立太子された。このことは後醍醐院の逆鱗に触れることなり、元弘元年(1331)の秋、8月24日に倒幕計画を立てるも反対派であった側近吉田定房の密告により発覚、密かに宮中を抜け出して山城国笠置山へ逃れたのであった。

8:元弘の乱

後醍醐院は各大臣や殿上人、少しのお供に同行させ、また、畿内の軍兵を招集したために天下は大騒ぎとなった。愚かなことである。これによって六波羅探題の駅使は鞭を打って僅か三日で鎌倉に下向、知らせを聞いた関東ではすぐに数万の兵を京に向けて発したのだった。この中には足利尊氏、新田義貞も同行している。笠置山の戦いでは後醍醐院の衛兵は無勢であったため、御身柄は武士の手に渡り、京に強制送還され、六波羅南方を皇居として押し籠ることとなったのであった。

同年(1331)関東より両使(誰か不明)が上洛して今回後醍醐院に協力した各大臣や殿上人以下その郎党の罪を明らかにして罪の軽重に応じて罪名を定めた。翌年の元弘二年(1332)、後醍醐院を退位させ先帝とし、承久の乱(1221)後の後鳥羽院の罪科に則って隠岐国にある西ノ島へ配流とした。とはいえは相手は先帝である。配流当日までの間、隠岐国に御所等を用意するために隠岐国の守護人奉行で隠岐守の佐々木清高を先達として渡海させた。以降、佐々木清高は後醍醐院の監視役を務める。

後醍醐院が京を立つこととなったのは元弘二年(1332)三月七日の正午頃であった。六波羅探題より六条河原を西へ向かい、大宮へ下った。遠出の御幸に用いる四方輿が用いられ、都の中では簾を下ろし、武士共が関東将軍の命によって輿の前後を護衛した。次に側室の准后三位局(阿野廉子)。狩装束の女房が両側に3人付いた。殿上人からは六条忠顕がただ一人、間道を随行した。六条忠顕は後に千種忠顕と改姓する。

鎮護国家の象徴的寺院、東寺(教王護国寺)の南大門で行列を止め、一同は金堂の方を向いて一時の時を過ごした。何を祈念されているのだろうか。拝するその様子からお気持ちを推し量られて、身分に関係なく誰もが、心の底から寂しく思い涙を流した。帰る家路を忘れるほどのことであった。

この世界において、天皇の民でない者はいないが、かといって後醍醐院の身代わりとなってでもこのような事態を止めようとする者はいなかった。霞が蒼天を覆い、夕日が影を隠し、紅の美しい織物はその色を失う(後醍醐院の衰退を例える)。花はものを言わないが、愁いの感情は見せてくる。その姿に見出す嘆かわしさというのは、言い表せないほどであった。

翌日3月8日。後醍醐院の第一皇子尊良(たかよし)親王は讃岐国へ。妙法院へ入室した法名尊澄法親王こと宗良親王は土佐国へ配流となった。各国の守護人が親王をお迎えに参上し、都をお出になったのであった。日や月が地に落ちるとはこのことを言うのかもしれない。月日が経つこと20数年、この時見たことを思い出すと留めなく涙が流れてしまう。涙は袖を濡らし、どのような詩文に思いを書き尽くしてもあの時の悲しみは表現できない。昔から、上の身分の者が、同じ上の身分の者を裁く例はあった。しかし、その罪として、天皇や院が一人で遠出するなどという例は聞いたことがない。「恐ろしいことだ」と人々は口にする。

保元の乱(1156)に際しては、第75代崇徳院を讃岐国へ配流されたがこのことは今回の、後醍醐院の隠岐国配流の決定要因とはなっていない。なぜなら、崇徳院は弟である第77代後白河天皇の計らいによって天皇位を争うこととなったからである。

承久の乱(1221)に際しては、第82代後鳥羽院は隠岐国へ配流された。これはまた、今回の後醍醐院隠岐国配流と比較できない。なぜなら、後鳥羽院は天皇政治を取り戻すという野望のため、咎なき源将軍家の遺跡を滅ぼそうとしたからだ。鎌倉の執権北条氏を攻めたが、これは天道に背いた行為であったため、理に従って敗北。上皇は隠岐国へ配流となった。しかし、武家はこれほどの勢力を持ってもなお、天皇家に滅ぼされるという天命を恐れて、後鳥羽院の異母兄弟の子である後堀河天皇を第86代天皇として即位させたのだった。「不思議な事態だ」と人は言う。

では、今回の騒動はどうか。後嵯峨院の遺勅を破りこのような争いに及んだわけだが、破ったのは後醍醐院ではなく、先帝らの時代である。また、後醍醐院は大覚寺統であり、遺勅に準じている。そのため、天命に背いたか計り難く、この配流はいかがなものかと思われる。つまり、後醍醐院は、少なくとも遺勅に従っており、遺勅に従わなかった持明院統にお気持ちを表明しただけなのである。咎は無いはずだが、後醍醐院は隠岐国へ配流となってしまった。そのような後醍醐院の心中を察し、警護に当たった武士共の中に、涙を流さない者はいなかったのである。

 

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