山上憶良731~733頃
奈良時代の庶民の暮らしをリアルに語った長歌。
貧窮問答歌の解説
長歌について
「貧窮問答歌」とは、『万葉集』の五巻に収録されている長歌です。長歌にも規則があります。
- (5・7)音を3回以上続ける
- 最後を(7)音で締める
- その反歌として最後に1首を添える場合がある
『万葉集』には全部で1400首の和歌が収録されていますが、そのうち長歌が約250首収録されており、全体の17.9%を占めています。
「貧窮問答歌」も上に挙げた規則に従いますが、中盤で字足らずと字余りが何度か発生しています。
なぜ詠まれたのか?
皆さんは、そもそもなぜ「貧窮問答歌」は詠まれたのか、考えたことはあるでしょうか。実は不可解な点が一つあります。それは、
自分が治める国の窮状を詠むなんて、自身に不利益ではないのか?という疑問
です。
作者の山上憶良(~733)は筑前国を治める国司として晩年に派遣されました。当然、その国民(筑前国)が貧しい暮らしをしているという事実が明らかになれば、管理職としての資質が問われるのは想像に難くありません。自国民の窮状が公になることは自身に不都合なことであるにも関わらず、これを題材にした歌をなぜわざわざ歌集に書き留めたのか?その理由が分からないのです。
というわけで、「貧窮問答歌」を分析していきましょう。
歌の分析
よく、農民の苦しみを問答形式で詠んだと言われますが、多くの人が誤解している点が2つあると私は思っています。
- 最初から最後まで山上憶良の自作である
- 民衆視点の歌ではない!!!!←超重要
の2点です。
①山上憶良の作である理由
歌詞の一部の言い回しが経験者のそれなんですよね。
- 竈の煙は立つことがなく(仁徳天皇の逸話)
- 短いものを端切るように
- 天地は広いというが、私から見れば狭いものだ。太陽や月は世界を明るく照らし、草木に英気を与えてくれるというが、私にも照らしてほしいものだ。
- 海松(みる)のように
- ぬえ鳥が物悲しそう鳴くように
歌のリズムと比喩表現によって情景が描きやすいような作りになっています。
漁師でなければ、まず海松なんて見たことないでしょう。「貧窮問答歌」は漁師にクローズアップして詠まれた歌ではないため、そうでない暮らしをしている人が海松を使うと情景の想起が薄れてしまい、歌のバランスが崩れてします。
また、「天が、地が、万物を支配している、我々に秩序をもたらしてくれる」という部分ですが、この考えは、天道思想といい、古代にみられる思想です。これは知識人に広まっていた思想になります。また、天道思想には「天災による国難は為政者の責任である」と捉える風潮がありました。
民衆視点であえば、天災が起きれば農耕儀礼に思考が向きます。「国司のせいだ!」とはなりません。そのため、このような歌詞は役人でしか思いつかないのです。
②民衆視点の歌ではない
民衆視点の歌ではないことは上で述べた天道思想から十分に理解できますが、これ以外にも根拠となる部分はあります。
まずはこの歌詞。
我を除(お)きて、人は有らじと、誇ろへど、
「自分を除いて、優れた人はいないだろう」と誇らしく思う(そんな自分は貧者)。
という部分です。搾取される側である民衆がこれを思うのはかなり傲慢だと思います。
となると、家の様子や暮らしを述べているこの「貧窮問答歌」は、ある程度地位のある者の窮状を表していると考えることができるのではないでしょうか。
であれば、身分に関わらず国全体が窮状に立たされていた状況といえましょう。
歌詞には具体的に生活苦が挙げられています。
- 潰れたような、傾いたみすぼらしい家に住んでいる
- 土の上に直に藁を敷いて
- 飯を炊くことすら忘れてしまった
- あるだけの布肩衣を全部重ね着しても寒い
見るに堪えない窮状です。
最後に補足ですが、私は「貧窮問答歌」についてこれまで、「”民衆”の窮状を~」というふうに解説してきました。ここで解説したように、農民視点の歌ではないという意味を含めてそうしています。
時代背景
「貧窮問答歌」が作られた時代は天平3年~天平5年(731~733)と推測されています。これまで見てきたような窮状になったのは何故でしょうか。
その謎の手がかり、723年「三世一身の法」から、当時の民衆の生活を逆算してみましょう。
そもそも、「三世一身の法」が制定された理由は、田畑を誰も開墾しようとしなかったからです。その原因は、口分田の仕組みにあります。
6歳以上民衆に対して、国から貸し与えられる田のこと。所有者は国のため、借主が死んだ場合、国に田を返還する必要がある。
民衆からすれば、「頑張って開墾したところで、最終的に手放すことになるなら、耕す意味など無い。」と思うわけです。
当時、稲を基準にした租という税金が主流でした。口分田が減れば稲作の作付面積は減り、収穫量も減り、結果的に、税収も減る。
国としても、民衆に田畑を積極的に開墾してもらう必要がありました。そこで打ち出された政策が722年の百万町歩開墾計画です。農具や食料を支給する代わりに良田を開墾させる計画でしたが、誰も従わないことが即発覚。そして翌年723年に「三世一身の法」が出されました。孫世代までは所有権は借主にあるという施策です。農具や食料支給といった一時的な恩恵では民衆の心はつかめなかったようです。
-
722:百万町歩開墾計画農具や食料を支給する代わりに良田を開墾させる施策。即失敗に終わる。
-
723:三世一身の法孫世代まで口分田の所有権を借主に与える施策。大きな効果はなかった。
さて、次々と土地改革を行う中央政府ですが結果的に失敗に終わります。主な要因は
税負担が重すぎて、浮浪・逃亡が大量発生したため。
でした。
浮浪と逃亡の違いについては説が2つありますが、とにかく「逃げた者」と覚えておいてください。
説① | 逃亡 | 民衆視点での「逃げた者」 |
浮浪 | 管理者視点での「逃げた者」 | |
説② | 逃亡 | 賦役(調・庸・雑徭)を欠いた者 |
浮浪 | 賦役を欠かない者 |
この事実は実際に、史料『山背国愛宕郡出雲郷雲上里計帳』からも読み取れます。この史料は神亀三年(726)のもので、「三世一身の法」施行の3年後の史料となります。つまり、この史料は、一連の土地政策の失敗を裏付けているのです。
結論、民衆の苦しみはこのような国家事業の失敗に起因しているといえます。
筑前国というところ
筑前国とは、現在の福岡県に位置します。厳密には、秋月~博多~北九州西部の領域となります。秋月は、明治時代に秋月の乱があった場所ですね。神風連の乱と並んで、士族の反乱として扱われています。博多、北九州は現在でも大都市なので説明するまでもないでしょう。
さて、この筑前国ですが、超重要な施設と歴史を持っています。それは、「大宰府政庁」と「水城・大野城(白村江の戦いの対策)」です。
博多には白村江の戦いや新羅滅亡から逃れた大陸の貴人、民衆が多く流れ込みました。朝鮮半島では「鬼」という名がよく使われていました。福岡県では「鬼」がつく名字(「鬼塚」や「鬼瓦」)が集中しているのは、これが遠因となっているとも言われています。
防人が置かれたり、水城や大野城を築いて侵攻対策したり。。
そのような国難まみれの国、すごく辛いわけです。国家をひとつの家と捉える考えも当時ありましたから、そのような国の政庁が「大宰府」という名になったというのはしっくりくるのではないでしょうか。これは俗説とも本当とも言われて、定かではありません。
さて、当時この大宰府長官は大友旅人という人物でした。西国を司る官庁なので、筑前国司の山上憶良は大伴旅人の部下という関係にあたります。そしてこの二人、かなり仲が良かったと言われています。
山上憶良からすれば、国の現状は上司に報告しないといけませんが、訴状ではなく、あえて『万葉集』を選んでいます。その理由はなぜかも含め、結論でまとめます。
結論
さて、これまで述べたことから結論を出していきましょう。
自身の任国の窮状をわざわざ歌にした理由。一言で言えば、こうです。
国内の窮状を、為政者に婉曲的に訴えるため。
訴状ではなく歌にしたのは、歌集であれば、役人に広く伝えることができるため。
700年代初頭、重税や土地制度の揺らぎによって、国内の窮状がより深刻化しました。これは何も筑前国に限った話ではありません。だからこそ、任国の窮状を詠んでも良かったのでしょう。
そして、国司といういち身分ではどうすることもできない事象であり、国司はより国家運営に発言力のある上級官吏に訴える他ありませんでした。
訴状や意見封事ではなく、なぜ歌に込めたのか。それは、上司にあたる大伴旅人と、役人として以上に文化人としてのつながりがあった可能性が考えられます。仮にそうでなくても、歌集を手段として訴えることは、情景を誘いつつ、国内の窮状を広く伝えることができ、方法としては非常に有効です。それに、歌詞中に天道思想を持ち出しているのも、これの意味が理解できる役人に向けて歌ったものだといえましょう。
また、大陸の影響を良くも悪くも受けてきた「とても辛い」こと大宰府のある筑前国だからこそ、歌にするだけの価値があったかもしれません。必ずしも、関係ないとは言えないはずです。
さて、これらを踏まえた上で「貧窮問答歌」に触れてみましょう。きっと、見方が変わっているはずです。
現代語訳
藤村作 編 昭和4『万葉集 : 校訂頭註』上巻 至文堂 国立国会図書館デジタルコレクション
- 万葉集巻5 雑歌 892
- 万葉集巻5 雑歌 893
貧窮問答歌一首并短歌
風雑(まじ)り、雨降る夜の、
雨雑(まじ)り、雪降る夜は、
術もなく、寒くしあれば、
堅塩を、取り嘰(つゞし)ろひ、
糟湯酒(かすゆざけ)、うち畷(すゞ)ろひて、
咳(しは)ぶかひ、鼻びしびしに、
しかとあらぬ、鬚(ひげ)搔き撫でて、
我を除(お)きて、人は有らじと、
誇ろへど、寒くしあれば、
麻衾(あさぶすま)、引きかゝぶり、
布肩衣(ぬのかたぎぬ)、有りの悉ごと、
著襲(きそ)へども、寒き夜すらを、
我よりも、貧しき人の、
父母は、飢ゑ寒からむ、
妻子(めこ)どもは、乞ひて泣くらむ。
此の時は、如何に為(し)つゝか、
汝(な)が世は渡る。
天地(あめつち)は、広しといへど、
我(あ)が為は、狭(さ)くやなりぬる。
日月は、明しといへど、
我(あ)が為は、照りや給はぬ。
人皆か、我(あ)のみや然る。
わくらばに、人とは生(あ)るを、
人並に、我を生(な)れるを、
綿も無き、布肩衣(ぬのかたぎぬ)の、
海松(みる)の如(ごと)、わゝけ下れる、
襤褸(かがふ)のみ、肩に打懸け、
伏庵(ふせいほ)の、曲庵(まげいほ)の内に、
直土(ひたつち)に、藁解き敷きて、
父母は、枕の方(かた)に、
妻子(めこ)どもは、足(あと)の方(かた)に、
囲(かく)み居て、憂へ吟(さまよ)ひ、
竈には、煙吹き立てず、
甑(こしき)には、蜘蛛の巣懸きて、
飯炊(いひかし)ぐ、事も忘れて、
鵺鳥(ぬえどり)の、呻吟(のどよ)ひ居(を)るに、
いとのきて、短き物を、
端截(き)ると、言へるが如く、
苔取(しもと)取る、里長(さとをさ)が聲は、
寝屋處(ねやど)まで、来立ち呼ばひぬ。
斯くばかり、術なきものか、
世間(よのなか)の道。
世間(よのなか)を、
憂しと恥(やさ)しと、
思へども、
飛び立ち兼ねつ。
鳥にしあらねば。
山上憶良頓首謹上
(貧者の問い)
風混じりの雨が降る。それだけでなく、その雨には雪が混じっている。そんな日の夜は成す術もないほどどうしようもなく寒いので、堅塩を取っては舐め、糟湯酒を取ってはすする。そしてひどい咳をしては鼻はびちゃびちゃになる。
不格好に生えているひげを掻き撫でながら、「自分を除いて、優れた人はいないだろう」と誇らしく思う(そんな自分は貧者)。そう思ってもなんたって寒いのだ。麻でできた布団を頭から被り、あるだけの布肩衣を全部重ね着しても寒いのだから。
こんな寒い夜、私よりも貧しい家族は一体どうして過ごすのだろうか。父母は飢えて、そして寒さに凍えているだろうよ。妻子は弱った声で泣いているだろうよ。
私より貧しい者よ。このような日に、あなたはどのようにして家族を養っていくのだ。
天地は広いというが、私から見れば狭いものだ。太陽や月は世界を明るく照らし、草木に英気を与えてくれるというが、私にも照らしてほしいものだ。人は皆そう思っているのだろうか。私だけがそう思っているのだろうか。
人というのは、たまたまこの世界に生まれたものであり、そして同じような生活をしている。私はどうだろうか。この世界に生まれたにも関わらず、綿も入っていない海松(みる)のように破れ広がった布肩衣を着て、ぼろ切れの布を肩に懸けている。
そして、潰れたような、傾いたみすぼらしい家に住んでいる。土の上に直に藁を敷いて、父母は枕の方、妻子は足の方に寝て、私を囲むようにして過ごしている。
悲しみ呻く日々である。竈の煙は立つことがなく、甑には蜘蛛の巣がはっており、飯を炊くことすら忘れてしまった。生きるために必要なことも忘れて、ぬえ鳥が物悲しそう鳴くように、我々もこの窮状を悲しく思い泣いている。
まさしく、『短きものを端切る(元々短いものを更に切って短くなること。困窮している上に更に困窮する。の意)』と言えよう。そんなことは露知らず、里長は、「税を納めろ。」とムチを持ってやってくる。その声は寝床まで聞こえてくるのだ。
ああ、人生というものは、これほどにまで、どうしようもないものなのだろうか。
(山上憶良詠める)
世の中というのは、悲しかったり辛かったりすることも多い世界である。そう思ったとしてもこの世界から飛んで逃げることはできない。私たちは鳥ではないのだから。
山上憶良頓首謹上
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