現代語訳④
再戦そして追撃戦
賊軍の貞任らはこのことを耳にし、兵たちに語った。
「聞くところによると、頼義軍は食糧が乏しく、糧を求めて兵士が四方に散らばっており、陣地には数千人しか残っていないという。我々が大軍で襲撃すれば、必ず撃破できるだろうよ。」
そして9月5日、貞任は精鋭約8000人を率いて、大地を揺るがすように襲来した。黒い甲冑は雲のように広がり、白刃は日光を浴びて輝いていた。これを受けた官軍はどうか。武則が将軍の前に進み出て、祝賀の言葉を述べて言った。
「貞任は策略を誤りました。我々はまもなく奴の首を討ち取るでしょう。」
と。将軍は返す。
「武則、お前は『官軍の兵力が分散していて陣地に兵が少ないことを知ったが故に、賊軍は大軍での急襲を仕掛けた。』と考えないのか?これこそ、敵の策略が我々を超えてきた証ではないのか。それなのに、どうして奴らが策略を誤ったと言うのだ?」
「その意図は何か。」
武則は答える。
「我が軍は客兵であり、常に糧食が不足しています。短期決戦を挑んで勝敗を決する必要があります。しかし、もし賊軍が守りに徹して進んで戦おうとしなければ、我が軍は長期間攻めあぐね、疲弊する。そうなれば、兵士の中には逃げ散る者も出てきて、逆にこちらが討たれる可能性がありました。この点を私は常に恐れていたのです。しかし、今や貞任らが自ら進軍してきて、戦おうとしています。これは天が将軍を助けている証です。また、賊軍の気勢は黒い雲のように重苦しく立ち込めています。これは、軍が敗北する前兆です。我々官軍は、必ずや勝利を収めるでしょう。」
将軍は言う。
「武則、お前の言うことは尤もである。私もまたそれを理解している。」
そして武則に命じた。
「昔、越王勾践は忠臣、范蠡の策略により会稽の恥を雪いだ。今、我が老臣武則は我への忠誠の心から朝廷の威厳を示したいと考えている。今日の戦い、命を惜しむことなく奮戦せよ。」
武則は答える。
「今、将軍のために命を捨てることなど、羽毛のように軽いことです。敵に向かい死ぬことはあっても、敵に背を向けて生き延びるようなことはしませぬ。」
そこで頼義将軍は長蛇の陣という陣形を取った。兵たちの奮呼する声は天地を揺るがすほどであった。両軍は向かい合い、激しく刃を交えて大いに戦った。正午から夕方に至るまで、源義家や頼義の次男の源義綱らが猛々しく奮戦し、ついに貞任に重症を負わせ、賊軍旗を奪ったのであった。ここにおいて貞任軍は敗北した。
官軍は勝ちに乗じて北に追撃を行った。賊徒は磐井川に到達したが、渡る場所を見失った者、高い岸から飛び込む者、川底に沈む者、様々であった。官軍はこのような無謀な行為に及ぶ賊徒を殺し続けた。戦場から磐井川に至る追撃戦において、射殺した者は約100人、奪取した馬は約300頭にのぼった。頼義将軍は武則に言った。
「深夜で暗いとはいえ、賊軍の士気はまだ挫けていない。今のうちに追撃する。そうすれば、今夜は賊軍に属する者は、明日には必ず士気を失うだろう。」
と。これを受けた武則は精鋭約800人を率いて、闇夜の追撃戦を行った。その間、頼義将軍は本陣に戻り、兵をもてなしながら装備を整えた。また、自ら陣中を巡り、負傷者の治療にも当たった。これに兵たちは感激し、口々にこう言いった。
「我が身は将軍の恩のためにあり、命は将軍への義のためにあります。命など軽くお使いくだされ。たとえ将軍のために命を捨てることになったとしても恨みは抱きますまい。我らを労わる将軍の恩情は、鬢を焦がし、腫れ物を吸い取るような献身の代表格ですらも及ばないものでございます。」
鬢を焦がすとは、命懸けの状況に挑むこと、腫れ物を吸い取るとは、子が親の病を治そうと献身的な姿勢を指すことです
追撃を任された武則は策略を練り、死を恐れない者50人を選出して貞任軍の陣に面している西側の山から密かに陣に侵入させて火をかけた。その火を合図に他の三方から声をあげて攻撃した。貞任らは不意にも応戦せざるを得なくなった。陣中は混乱に陥り、騒ぎに騒いだ。同士討ちも発生し、多くの死傷者を出した。これによって、貞任軍は、本拠地であった高梨宿と石坂柵を捨て、衣川関に入ったのだった。しかしながら、撤退した後でも兵の混乱は続き、崖から転落して谷底に落ちる者も少なくなかった。戦場から衣川関までの約30町(約3.5キロ)の間に、人馬の屍が麻のように散乱していた。血が大地を塗りあげ、脂が野を潤すかのようであった。
衣川関の戦い
翌6日正午、頼義将軍は高梨宿に入り、すぐに衣川関を攻めることとした。衣川関は険阻な山中にあり、かつ山路は険しいといった、古代中国の難攻不落の要害、函谷関ですら及ばないほどの関であった。たとえ関の防衛がたった一人だとしても、誰も突破することはできない。官軍が攻撃を始めるとすぐに賊軍は樹木を切り倒して道を塞ぎ、崖を崩して道を断った。さらに、長引く霖雨(長雨)により川の水位が大幅に上昇、ついに氾濫までした。それにもかかわらず、三人の押領使(清原武貞・橘頼貞・清原武則)は攻撃を続けた。清原武貞は関に通ずる道の正面を、橘頼貞は上流の衣川道を、清原武則は下流道を攻撃した。攻撃は未の時(14時ごろ)から始まり、戌の時(20時ごろ)まで続いた。激しい戦闘の中で、官軍は9人が戦死、約80人が負傷する事態となったのだった。武則は馬から降りて、岸辺を歩き回りながら状況を観察し、兵士の久清を呼び寄せてこう命じた。
「川の両岸には曲がった木があり、この木の枝は川面を覆っている。お前は身軽で素早いから、それを利用して向こう岸に渡れ。賊の陣営に忍び込んで、その防塁に火を放つのだ。火に気付けば賊は驚き慌てて逃げ出すだろう。混乱に乗じて、我々は必ずこの関を突破する!」
久清は答える。
「承りました。我が命にかけて成功させましょう。」
久清は猿のように軽やかに飛び跳ね、武則が言っていた曲がった木にたどり着いた。縄を張って葛を絡めて、渡る手段を作り、三十数人の兵士の渡河に成功した。そして藤原業親(通称大籐内。賊軍安倍宗任の腹心。)の柵に忍び寄り、火を放って柵焼き払った。業親の柵が炎に包まれて焼き落ちるのを見た貞任たち。慌てて逃げ去ったのであった。ついに賊軍は関を守りきれず、鳥海柵に退却、立て籠もった。ここに至るまでに久清たちが討ち取った賊の数は七十数人であった。
連戦連勝
翌日、官軍は関を突破し、胆沢郡白鳥村に到達した。大麻生野柵と瀬原柵の二つの柵を攻めて陥落させた。生け捕りにした捕虜を尋問すると、捕虜はこう語った。
「度々にわたる合戦で、賊軍の指揮官数十人が死にました。散位平孝忠、金師通、安倍時任、安倍貞行、金依方といった者らです。皆、貞任や宗任の一族の者で、非常に勇猛果敢で優れた兵でした。」
と。
11日。鶏が鳴く夜明け前、官軍は鳥海柵を急襲した。柵までは約10里のところに陣を敷いていた。攻撃したは良かったが、官軍が到着する前に、宗任や経清らはすでに城を放棄して逃走しており、厨川柵に立て籠っていたのだった。頼義将軍は鳥海柵に入城、ひとまず士卒たちを休ませた。この時、柵内にあった一軒の屋敷に、数十瓶もの酒が醸されているのを発見した。兵たちはこれを飲まんと争ったが、頼義将軍はこれを制止した。
「恐らく、これは賊が用意した毒酒。疲れた我々を欺こうとしているのではないか?」
しかし、雑兵の中の一人、二人が試しにこれを飲んだが何の害もなかった。それから軍全体でこの酒を飲み、皆が「万歳!」と叫んだのだった。その後、頼義将軍は武則に語りかけた。
「近年、鳥海柵の名は聞いていたが、その姿を見たことはなかった。今日、卿の忠誠のおかげで初めてここに入ることができたぞ。卿よ、私の顔色を見てどう思うか?」
と。
「あなた様はまさに王室に相応しい人間です。節義を立てるべく、櫛風沐雨(風雨にさらされて苦労すること)となっております。その甲冑に蟻や虱が生じるほど、軍役に十年以上も苦しんでおられます。それでも、天地はあなた様の忠誠を見ては助けております、軍士たちはその志に感動しております。だから賊は堤防が決壊したように潰走したのです。私のような愚臣はただ体に鞭打って従うばかりであり、どうして特別な功績がありましょうか。ところで、私は気付いたことがあります。将軍の容貌を見ますと、白髪が半分黒く戻っているように見えるのです。もし厨川柵を攻略して貞任の首を取ることができたなら、将軍の髭も髪も全て黒色に戻り、顔も体も肥えて健康を取り戻されるのではないでしょうか。」
と。将軍は言った。
「卿は子弟を率いて大軍を起こし、賊軍の堅い守りを破り、その鋭気を挫いた。自ら矢や石を受けながらも陣を破り城を攻略する武勇は、まさに丸い石が滑らかに転がるかのように、順調で見事であったぞ。そのおかげで今、我は忠節を全うすることができている。故に、卿は自身の功績を他に譲る必要は無い。卿のおかげなのだよ。さて、白髪が黒く戻ることについてだが、我は必ずしもそれを望んでいるわけではないぞ。」
と。武則はこの言葉に謝意を示した。その後、安倍正任の拠点である斯和郡の黒澤尻柵を襲撃し、これを攻略した。射殺した賊徒は32人、負傷したり逃げたりした賊徒は無数であった。さらに、鶴脛(つるはぎ)柵と比與鳥(ひよどり)柵の2柵も攻略した。
前に戻る << |
続きを読む >> |