プロフィール帳
上米とは
上米とは、字のまま「米を上げる」の意味です。上げるとは、暴力団でいわれる“上”納金の上と同じで、要するに、献上する、という意味です。
米を幕府に献上する制度
上=献上する の意
このようになった原因は何でしょうか。
背景
端的にいうと、幕府の財政難の深刻化が原因です。
財政難の原因は主に二つです。
- 経済の発達(支出増)
- 飢饉の頻発(収入減)
①経済の発達(支出増)
17世紀後半、東廻り航路と西廻り航路が整備されたといった例に代表されるように、農村部の余剰生産分が都市部へ流入、江戸、大阪、京都の三都が発達しました。大阪に蔵屋敷が誕生したのもこの時期です。
農村部に余剰生産が発生した理由は、農耕技術の向上にあります。例えば千歯扱、備中鍬。これは1697年刊行の宮崎安貞『農業全書』にみられます。さらには新田開発、金肥の普及など、作地面積の拡大に加えて農産物そのものの生産力が上がりました。
また、製鉄技術の発展は、美濃焼きや輪島塗といった各地域の特産品の誕生に貢献しました。最初に述べた通り、流通網の発展によって、これら特産品が各藩の経済に影響を及ぼすほどにまで発展し、更なる全国的な経済発展が起こりました。
この特産品の爆発的な誕生は、現代の伝統工芸品に繋がる大きなきっかけとなりました。そんな、伝統工芸品とはいったい何なのか?こちらで解説しています。
そして経済が発達した分、幕府の収入は増加しました・・・と言いたいところですが、実際はそうはいかず、各分野における整備資金が必要となり、むしろ支出増という結果になりました。
②飢饉の頻発(収入減)
幕府の収入は主に、石高と蔵入地からの収益です。そう、米なのです。いくら経済が発達しようと、幕府の収入は米に依存していました。
江戸時代の飢饉は天明の大飢饉が有名ですが、享保期にも飢饉は発生しています。農村部では凶作や飢饉が常態化。特に、享保の飢饉(1726)は非常に幕府の財政を圧迫したといいます。
徳川吉宗の時代、幕府と民の負担率は、五公五民、つまり半々が目標として掲げられました。しかし、享保期の石高に対する年貢の収納率は30%台を推移しており、四公六民にすら届いていない状況でした(角川書店『日本史辞典』)。
このような財政難は、可能なところから削っていく、あるいは増税する他ありません。そこで打ち出されたのが『上米の制』でした。
では、現代語訳を読んでから、その影響についてみていきましょう。
現代語訳
現代語訳はこちらで行っています。実は、最後の一文が超超大事になってきます!その内容とは何なのでしょうか?
影響
実は、幕府にほとんどがメリットがなかったのがこの『上米の制』です。箇条書きしてみましょう。
幕府へのメリット
米の確保による一時的な財政緩和
献上する年貢の量を増加させる法令のため、当然、税収が増えます。そのため、一時的ではありましたが、財政緩和を図ることが可能となりました。幕府は、米を売却して金銭に替えることで、米の流通を増やすと同時に、得た金銭を貯蓄にあてることができました。
幕府へのデメリット
大名への負担増加
1万石につき100石の増税が定められました。そのため、大大名はかなりの負担を強いられたことがわかります。また、扶持米の削減も決定。これは、給与カットを意味します。御家人の不満や不安は間違いなくあったでしょう。
そして、各大名は、減少した貯蓄を補填するため、
- 民衆から年貢を増徴
- 借金による負債との引き換え
に乗り出すしかありませんでした。大名に向けられたはずの『上米の制』でしたが、結果的に、農民や商人といった民衆にまでも影響が及びました。
幕府の統治力低下
幕府の権威を示すのに最も効果があった参勤交代。これは諸大名に幕府に対抗する資金力をそぎ落とす狙いもありましたが、これが緩和されます。諸大名にとってはメリットになったものの、幕府にとっては大きなデメリットとなりました。
諸大名に対し、幕府の財政基盤の脆弱性が露見し、幕府の信頼が揺らぐきっかけになったためです。
まとめ
年貢は財政基盤のため、一見関係なさそうな事柄にも直で影響を与えてきます。
それが、幕藩体制に影響を及ぼすようなら、国の在り方まで変えてしまうほどです。この上米の制は、誰も得しない制度として、江戸時代の転換点となったのでした。
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