こんにちは!日本史ペディアの主、にっぺせんせーです。
天正4年(1576)、織田信長は近江国蒲生郡安土(現在の滋賀県近江八幡市)に壮大な城の建設を開始しました。後に安土城と呼ばれるこの城は、日本史上初めて本格的な天主を備えた城として知られています。
当時の政治、文化の中心は京都であり、この時既に、信長は京都を支配下に置いていたにも関わらず、京に本拠地を構えず、安土に巨大な城を築きました。
京ではなく安土に城を築城したのでしょうか。その理由を解説していきます。
①軍事拠点
京は、本拠地にするには向いていませんでした。まず考えつくのは、京という都市の性格でしょう。
鳴くよウグイス平安京こと、平安時代が794年に始まって以来、京は約800年に渡り、日本の中央として機能してきました。天皇が居住し、公家が集まり、多くの寺社が存在する日本最大の文化都市であり、同時に政治都市でもありました。
そんな日本で最も重要な場所である京ですが、戦国時代の京は必ずしも安全な都市とはいえませんでした。
京のデメリット
とにかく統制が取れなかった
応仁の乱(1467~1477年)によって市街地の大部分が焼失し、その後も戦乱が繰り返されていました。戦場になっていたということはつまり、天皇家でも将軍家でも、京の支配がままならなかったことを意味します。
事実、六角氏や京極氏など、幾度となく京に軍兵を差し向けてきました。
防衛に適していない
ひたすら戦場と化したのは、京が平地に広がる都市であり、防御に適した場所とはいえないためです。周囲に山々がある盆地ではあるものの、市街地そのものは広く開けています。大軍が攻め込むことは十分可能であり、長期防衛には向いていませんでした。
更に言うと、周囲に山々があるといっても、鎌倉のように、切通があるわけではなく、京への侵入ルートはいくらでも存在しました。
攻めるに易く守るに難い土地だったのです。
寺社勢力の障害
京には、古くからの有力寺社が数多く存在していました。例えば、比叡山延暦寺や本願寺。

言わずと知れた大勢力で、さらには北野社や祇園社などの比較的大規模な寺社は、独自の権力と経済力を持っていました。
信長はこれらの宗教勢力と激しく対立していたため、京都中心部に巨大な軍事拠点を建設しようとすれば、大きな摩擦が生じる可能性がありました。
敵前に本拠地を設けるなど、愚策の他ありません。
安土のメリット
京へのけん制
安土が経済的に交通の要所だったという話は尤もですが、それ以上に、軍事的要所でもありました。安土は、京を支配するのに最適な距離であり、京を支配するための交通の要所として機能したのです。
安土は京からおよそ40キロメートル弱の位置にあります。現代なら、電車や車で1~2時間あれば着くこの距離ですが、当時でもそんなに時間はかかりませんでした。一日以内で十分「往復」できる範囲だったのは、聞いて驚くのではないでしょうか。
つまり、信長は京都から離れすぎることなく、必要な時にはすぐに京都へ軍勢を派遣できたのです。
各方面への戦線展開
戦国時代の軍事行動において、兵士より重要だったのが補給です。兵糧や武器がなければ軍隊は戦えません。
安土周辺は古くから交通の結節点でした。東国から京へ向かう人々は、美濃や尾張から近江を経由することが多く、また、北陸へ向かう街道も近江を通過しています。
つまり、安土のある近江を押さえるということは、
- 京都方面
- 東海道方面
- 中山道方面
- 北陸方面
を同時に支配することを意味しているのです。
信長は、尾張・美濃から全国へ拡大していきました。天下統一を掲げる以上、北陸や西国への侵攻は必須です。安土に本拠地を置けば、西の毛利への遠征も、北陸の上杉、若狭の朝倉への対応が柔軟に可能となり、更には東国との連携も容易になります。
京都の政治的重要性、そして、実際に全国を動かすための交通上の利便性をどちらも満たすことができるのが、この安土だったのです。
京に常駐する必要が無かった
一日で往復できる距離のため、兵を、京の内部に常駐させる必要がありませんでした。
これは、本当に、非常に大きなメリットです。
信長は、天皇や公家を尊重しながらも、その権威の下に入ることを望んでいませんでした。もし仮に、京の中心部に居城を構えれば、常に天皇家や公家との関係に縛られることになります。更には、形骸化しているとはいえ、将軍家の存在もあります。
逆に、それら権勢も、余所者からの支配や圧力は望んでいません。
そこで信長は、互いの距離感を保ちつつ、上洛を果たした大名として京を統治する方法を編み出しました。京の外側に独自の政治中枢を築くという策です。これが安土城とその城下町だというわけです。
安土城はいわば、京を監視するために置かれた新時代の政治・軍事施設といえます。天守を構えたのは、京を見下ろすためと語っても、眉唾物と言われるほど頓珍漢な主張ではないでしょう。
②経済の掌握
琵琶湖水運の拠点
現代人は陸路中心に考えがちですが、戦国時代には水運が極めて重要でした。当時はトラックなど存在しないので、大量輸送において、船は陸上の輸送手段に比べて圧倒的に効率が良かったのです。一頭の馬や人力で運べる荷物には限界がありますが、船なら何十倍もの荷物を一度に運べます。
安土城は琵琶湖畔に築かれました。これによって信長は、琵琶湖の水運ネットワークを利用できるようになります。
もともと、北国街道方面から集まる物資は、湖上輸送で運搬されており、さらに、琵琶湖は瀬田川から淀川へ接続しているため、京や大坂方面とも結ばれていました。その接続点ともいえる安土に、巨大な輸送拠点が誕生したわけですから、自然と商人たちも安土へ集まってきました。
陸路の重要拠点でもある
安土は、軍事的に東西南北に接続が良いわけなので、当然、陸上運送の観点にしても、陸路の重要拠点でした。
西国から安土に荷卸しをし、安土で荷積みして東国に運送する。逆に東から西へ、北から南へと、安土は経済の集積地として機能しました。
堺との接続も良いのが安土の特徴です。堺の商品を安土に集積することによって、堺を経由して運送する必要がなくなりました。もともと五街道上に存在する土地なので、アクセスも良かったのです。
結果として、安土城下町は急速に発展。京を凌ぐほどの経済都市となりました。運送の活性化は、織田家領地に留まらず、国内全体に影響するため、信長が、国内経済の活性化に貢献したとも表現できるのです。
織田信長が単なる武将ではなく、経済政策にも長けていた人物だと分かるでしょう。
③新時代の創出
近未来キャッスルADUCHI
安土山は、標高約200メートル程度の小山です。
現在の感覚ではそれほど高く感じないかもしれませんが、戦国時代の城としては十分な防御力を持っていました。これを平山城といいます。
安土城は、最初の平山城ではありません。既に、小谷城、観音寺城、稲葉山城などが存在していました。
しかし、山城同様、要塞としての機能が主でした。
従来の戦国の城は山奥に築かれることが多い、山城の形態が主流でした。
山城は、軍事目的のためだけであり、敵の侵入を防ぎやすいことが最大の特徴です。当然、そのデメリットとして、交通が不便で政治や経済の中心にはなりにくいものとなります。
逆に平地の館は便利ですが、防御力に欠けます。
武田信玄の拠点、躑躅ヶ崎館は名前の通り館です。防衛施設も備えていましたが、山城には劣ります。
安土城はその中間を狙い、山頂部を利用して防御力を確保しながら、城下町は平地に整備することで、都市機能と軍事機能を両立させました。
この構造は、大坂城や姫路城、江戸城などにも共通する考え方となっており、左記のような、後の近世城郭の原型となりました。平山城の存在意義を一新した、新時代の城といえるのです。
信長は戦国時代型の山城から、近世国家の首都となる城郭への転換を進めた人物でもあるのです。
新権威の創造
最近の研究では、新しい権威を創造することを目的として安土を選択したという説があるようです。
室町幕府の将軍は京を拠点としていました。信長は、機能不全に陥っていた室町幕府を滅ぼし、将軍になろうとはしませんでしたし、公家を滅ぼして関白にも就こうとはしませんでした。
信長は、既存の制度を利用しながらも、それに完全には依存しなかったのです。京には天皇が、公家が、寺社勢力がいます。それらは長い歴史を持つ伝統的な権威でした。
しかし信長は、安土に拠点を構えることによって、いずれとも異なる新しい支配者として自らを位置づけようとしました。安土城はその象徴なのです。
信長は、「京の権威を借りる支配者」ではなく、「京を支配下に置く支配者」になろうとしていたといえましょう。
天守という広告塔
安土城で最も有名なのは巨大な天守です。高さは諸説ありますが、おそらく40m以上あったと考えられています。
当時としては驚異的な高さです。なおかつ、内部が極めて豪華でした。
障壁画には、当時随一の画工、狩野永徳が描いた華麗な絵が飾られ、金箔や極彩色がふんだんに使われました。
この点からも、要塞を前提とした従来の城と安土城が違うことが分かります。外に見せる(魅せる)ための城だったのです。
琵琶湖を航行する船からも巨大な天守が見え、また、街道を通る旅人も目にしました。それが諸大名であれば、その壮麗さに圧倒され、織田家の勢力がいかに強大か、思い知ることになります。
巨大な政治広告でもあったといえるのです。
信長は、武力だけでなく、視覚的な威厳によって人々を従わせようとしました。
まとめ
織田信長が京ではなく安土に築城した理由は、一つではありません。
軍事的視点
- 京へのけん制
- 各方面への戦線展開
経済拠点の獲得
- 琵琶湖水運の掌握
- 陸運の掌握
新時代の創出
- 新しい平山城
- 新権威の創造
- 広告塔としての天守
室町幕府の将軍は、京の中で権力を行使しましたが、信長は、京そのものを支配対象と考え、その外側に新しい政治中枢を築こうとしました。
安土城は単なる城ではなく、「天下人・織田信長」という新たな存在を日本中に示すための巨大な象徴だったのです。
その意味でいうと、安土城は近世日本の始まりを告げる城だったのかもしれません。
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