律令制はいつからいつまで?
負名体制の前進、律令制のそもそもの始まりはというと、所説ありますが、「なまる人にも大宝律令」こと701年大宝律令制定が本格的に制度として律令が用いられた出来事になります。
それからいつまでが律令制の時代だったかというと、「鎌倉時代になるまで」ではなく、「10世紀初めごろまで」です。西暦に変換すると900年初頭になります。
律令制崩壊から、武士の世となった鎌倉時代まで、ちょうど200年ほどの期間があります。
この期間に、武士団藤原氏や、源平合戦といった戦乱の世があったと思うと、「室町時代でありながら戦国時代」であった、中世末期の日本ような立ち位置の気がしてなりません。
ではこの900年初頭に何が起こったかというと、902年(延喜2年)延喜の荘園整理令の発令です。発令されたは良いものの、不徹底に終わり、これが史料として残っている最後の班田となりました。これは律令体制が行き詰まりが明確となった証拠でもあります。
つまり、律令制というのは、イコール、班田収受が機能していた期間ともいえるのです。
律令制の期間 = 班田収受が機能していた期間
701(大宝律令)
~ 900年初頭(延喜の荘園整理令)
三善清行という人物が、時の天皇である醍醐天皇に打開策を奏上したのが、その崩壊っぷりを表しています。
負名体制の特徴
律令制が崩壊し、負名体制が誕生しました。律令制との違いをみていきましょう。
律令制と負名体制の違い
10世紀初頭に崩壊した律令制の次に社会体制として採用されたのは「負名体制」です。「名」つまり土地に対して税を「負」うシステムになりました。
律令制との決定的な違いは端的に表すと以下の通りです
- 律令制 :「人」 に対して課税する(主に成人男性「正丁」)
- 負名体制:「土地」に対して課税する(主に名)
こう考えると、律令制における問題「偽籍・逃亡・浮浪・私度僧」が全て人の所在に関する項目であることが分かります。後に解説しますが、負名体制における問題として出てくる受領は、「領」の文字通り土地に関する単語になります。
土地に課税しておこる変化
荘園の集団化
課税は
「租・調・庸・雑徭」→「年貢・公事・夫役」
と、土地に依存する課税対象に変わりました。
注意してほしいのは、「荘園が消滅したわけではない」ということです。あくまで負名体制では、不動産である土地を広くひとまとまりとして捉え、それに課税していました。このひとまとまりのことを「名」といいます。
名
| 荘園 | 荘園 | 荘園 |
| 荘園 | 荘園 | 荘園 |
受領の誕生と納税システム
そして、国に納税するシステムですが、これは「この土地であればこれくらいの収穫はあるだろう」という概算のもと産出されました。
言い換えれば、天候や天災によらず、一定の収穫量を要求したということです。
荘園の集合体「名」で税の取り立て、並びに荘園の管理を任された人を受「領」といい、受領の不当な税の取り立ては一定の収穫量を要求したという部分に起因します。

これに関する史料『尾張郡司百姓等解』は別で現代語訳を行うので、受領の実際に行った行為についてはそちらをご覧ください。
では、受領は誰に税の取り立てを行ったかというと、主に荘園の有力農民に対して行いました。
有力農民のことを大「名」田堵といいます。大名田堵の中には、自力で荘園を開いた者もおり、その場合開発領主と呼ばれます。
大名田堵の中には開発領主になる者もいるというイメージでOKです。
受領
納税↑ ↓搾取
大名田堵(開発領主)
さらに「負名体制」が発達すると、寄進系荘園や荘園公領制が誕生します。その説明はまたいずれどこかで。
名:荘園群
負名:土地に対して税を「負」うシステム
田堵:有力農民
大名田堵:大規模な荘園群を有する有力農民
開発領主:大名田堵の中でも、自ら開墾した者
受領:実際に任地に赴いた役人
いずれも、土地に関する漢字が入っているのが分かりやすいですね。
律令制崩壊期の社会
人に課税していた律令制は、その抜け道の多さゆえに崩壊しました。様々な史料に見てとれるように、国内の荒れっぷりがよく分かります。
単に法が効力を持たなくなった、というだけではありません。治安の悪化に加えて、天災や疫病、飢餓なども日常的に発生しました。
そのような状況で中央政府に信頼がおけるわけもなく、己の身は己で守るよう、己の土地は己で守るよう、民の意識に変化が現れました。土地を管理する有力農民は、生き残る手段として、権門勢力に上納し、それを受けた権門勢力は武士団を形成し、召し抱え、土着していきました。
こうして最終的に、源氏や平氏が誕生したわけですが、その原点は負名体制、さらにいえば、律令制崩壊にあったということなのです。
| 前の記事へ << | 次の記事へ >> |











