難太平記について
難太平記とは
『難太平記(なんたいへいき)』は、南北朝時代の武将である今川了俊(いまがわりょうしゅん)が晩年に著した軍記物です。成立は15世紀初頭とされ、自らの体験をもとに、南北朝の動乱を回想し、記録した貴重な史料です。
了俊は室町幕府の有力守護大名で、九州探題として長く九州治政にあたりました。失脚してからは隠棲生活に入り、その最中で、自らの政治的立場や行動の正当性を弁明する意図も込めて書いたのが、本書になります。
内容は、南北朝の争乱で、特に、九州における戦乱や幕府内での対立を中心に書いています。了俊は、足利将軍家への忠誠の姿勢を示していましたが、幕府内部の政敵からの讒言によって九州へ左遷されてしまいました。
その経緯の詳述からは、武士としての名誉や、家の正統性を重んじる価値観が現れています。また、鎌倉末期の政治状況を知る重要な証言も多く含まれているのが特徴です。詳述ゆえにその信憑性の高さが評価されています。
特に九州における南北朝期の政治・軍事状況が残された史料は多くないため、それを知るうえで不可欠な文献でもあるのです。
何文化なのか?
南北朝動乱を描いた作品かつ当事者の視点で書かれているので、室町時代初期の作品になります。
ゆえに、武家文化が花開いた、北山文化の作品となります。
作者:今川了俊
時代:南北朝
文化:南北朝を描いているため、室町初期の北山文化
内容:南北朝の動乱を回想形式で著した。当時の政治状況を知る重要資料でもある。
太平記との関係
この作品は、その題の通り、同時代に成立した軍記物語『太平記』と深い関係があります。
『太平記』が南北朝動乱を文学的、そして叙事詩的に描いたのに対し、『難太平記』はその内容に対する批判や補足を行いました。
このことによって、史実から逸れた表現に陥りやすい文学的側面という欠点を補い、より当事者視点で事実関係を語ろうとする姿勢が見られます。了俊はあくまでも事実ベースの語りを重要視した人物でした。
踏み込んだ話になりますが、両書を比較することで、史実と物語表現の差異や、立場の違いによる歴史認識の相違を読み取ることができます。
さて、もうお分かりの方もいらっしゃるでしょうが、『難太平記』の『難』は、非難の難です。『太平記』の非難ですね。
『難太平記』の『難』・・・非難の難!
『太平記』の非難した書 ということ
現代語訳
導入の部分を現代語訳しました。
『難太平記』を著すにあたって
愚かなこの身というのは、自分自身の心さえも理解できない。例えば、『惜しい』『憎い』『愛おしい』など。理解できないとは言うが、全く理解できないわけではない。このような感情の正体が一体何なのか知るべきだと、私は言いたい。
また、自分の親や祖先がどのような人物であり、どのように世に存在していたのか、これも知るべきである。人のことはよく分からないが、自分自身について考えてみると、私は、父より以前の先祖についてはほとんど知らないのだ。
かつて、故殿(今川範国)が私に昔の物語などを語ってくれた際、話のついでに少しだけ先祖のことを仰ってくれたことがある。今になってわずかに思い出されるので、それを申し上げよう。
今川了俊は、今川範国の次男です。
先祖のことを知らないと思うと、私の子や孫たちは、祖父の暮らしぶりすら知らないことは自然に考えられる。
昔、修理大夫であった山名時氏という者がいた。この者は、明徳三年(1392年:後小松元年)に発生した内野合戦(明徳の乱)で討たれた陸奥守(山名清氏)の父である。そのような一族の時氏が常に言っていたのは、
「我が子孫は、間違いなく朝敵になるだろう。我が家は建武の新政(1333)以降、代々の天皇に仕え、その恩恵によって人として認められる身分となった。元弘の乱(1331)より以前はただの民百姓のような存在であった。上野の山名という田舎から士官して、生活の厳しさや自分の身の程を知ることができた。また、戦の難しさも身をもって経験した。それ故に、天皇の恩寵の有難みやこの世における上手な立ち振る舞い方を知った。また、分別を持って行動していた。しかし今、何かと天皇への敬意が疎かになっているようだ。他人をも見下すような感情を抱いているようだ。そのような子供たちが、己の代になれば、天皇のご恩も親の恩も忘れ、自分だけが誇らしい存在かのように思い込み、身の程を超えた振る舞いをするだろう。そのように身勝手な考えに任せて行動するため、天皇からの不審がられ、結果、朝敵とされるかもしれない。」
と。そして、時氏は子供たちはこの話を聞いた通りに、朝敵となったのだった。
昔の人はこのような社会全体のことをよく理解していたのだろう。時氏は一文字も読み書きができない人だったのに、よくこうした話をすることができたものだ。
さて、自分自身のことについて考えてみると、故殿(父、今川範国)が常々仰っていたことについて、その話を聞いた当時はそれほど羨ましいことだと思わず、むしろもどかしく感じることさえあった。しかし、今になって思い返してみると、実はその話は全て理にかなっていたのだ。
今老いぼれとなった私は、子供たちから生まれたばかりの赤子のように手のかかる年寄りだと思われている。しかし、私が亡くなった後には、私がこれから子ども達に話すことの意味を必ず思い知るだろう。父が語ってくださったことの端々を本書に書き記したのはそのためである。
とはいえ、記憶違いも多いだろうから、それについては全て省略した。確実に覚えていること、また証拠がはっきりしていることだけを書き留めた。
足利家の家系
神代の時代、この国にはたった2人の子しかいなかったが、子孫が次々と生まれ、さらにその末裔の時代には、国王や大臣になる者、民百姓となる者が現れた。身分が賤しく、世のために無益な人々は、田を耕したり、人に仕えたりするようになった。つまり、氏(家柄)の無い者の誕生である。
今、今川家の子孫共々は、故殿の時代のことを僅かしか知らない。ましてや、二代三代前の祖先のことなどは全く知らないので、終いには、我が子孫は氏の無い民と同じような存在になってしまうだろう。だからこそ今私は、僅かに知っている断片だけでも、と書き留めているのだ。
八幡殿とは、陸奥国守かつ鎮守府将軍の源義家朝臣(別称、八幡太郎)の御子孫のことを指す。義家の子、義国から、義康、義包(義兼)、義氏、泰氏などと続く。泰氏は平石殿と呼ばれた。
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源義家の活躍は、こちらで読むことができます。
かの有名な『遠野物語』にも、源義家は登場します。
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その子、頼氏は治部大輔殿と呼ばれ、更に頼氏の子の家時は伊勢守と称された。
家時の子は讃岐入道殿こと貞氏、そして貞氏の子として大御所(足利尊氏)と錦小路殿(足利直義)がお生まれになった。
頼氏は平石殿(泰氏)の三男であったが家を継いでいる。次男の義顕は尾張(上野の誤りか)にて渋川姓を名乗り渋川義顕となり、頼氏の庶子となった。
また、頼氏配下の細川氏や畠山氏は、義兼の御子孫から分かれたのではないかとされてる。
長男の家氏は斯波姓を名乗り、斯波家氏となります。
畠山氏は、足利義純(義康ー義兼ー義純)が祖。
細川氏は、足利義季(義康ー義清ー義実ー義季)が祖になります。義兼というより義康ですね。
そもそも、義兼は身長が八尺余り(250cm)もあり、他の人々に体格は勝っていた。
そのため、「実は為朝の子ではないか。」とも囁かれていたのだが、本当は、義康が幼い頃から義兼を育てている。先程の噂は世間の人が憚って口にしなかったため、ついにこの噂の存在を知る人はいなくなっている。
頼朝が右大将になった時、義兼は特に頼朝の側近として仕えたが、なおも世間を憚って真相を話さず、狂人を装っていた。そのため、足利氏は義兼の代では何の功績もなく過ごしている。そして、義康は
「我が子孫にはしばらくの間、霊となって取り憑き、物狂わしいことを起こしてやろう。」
と仰せになったと言い伝えられている。
また、源義家公の遺された書状にはこう記されていた。
『我が七代目の子孫が、私の生まれ変わりとして天下を取るであろう。』
と。七代目は足利家時公であったが、家時も義家のように、時が至らぬことを悟られたのか、八幡大菩薩に
「我が命を縮めます。ですからどうか、三代のうちに天下を取らせてください。」
と祈願し、その後己の意思で切腹されたのだった。
義時の孫、つまり二代後が、尊氏と直義です(義時ー貞氏ー尊氏・直義)。
その時の直筆の遺書には、切腹に至った詳細が記されていた。それをまさに、故殿(不明)や私、そして両御所(尊氏・直義)が拝見したのである。
今となっても、
「今日、天下を取ることができたのは、ただただ家時公の発願のおかげなのである。」
と、両御所(尊氏・直義)は仰っていた。このように、一代ではなく、数代で志を受け継いだことによって、ついに足利家は天下の主となられたのである。
そのような時勢ある足利家に近づこうと、
「我が先祖は、今将軍殿の御先祖の兄の流れにあたる者なのです。」
と、実筐院殿(足利義詮)に申し上げては系図などを御覧になった者もいたとか。
当然彼らの御意に大きく背いたわけだが、後に、義詮殿はこのくだらない出来事を人々に語ったという。
ある人が天下を取れば、その後というのは、全ての日本国の人はその天下人の恩恵を受けるはずであり、これは一族の者たちであればなおさらのことである。今こそ、謙虚な姿勢であるべきなのだ。
「出自を使って地位を築こう、などは決して思ってはならない。学芸を嗜み、天下人を助けよ。その徳で身を立てるのだ。」
これは朝夕、錦小路殿(足利直義)が仰せになっていたことらしい。
このことは、石見武勝慈恩寺殿(足利直冬)が宮内太輔と呼ばれていた頃、大蔵少輔の畠山直宗や宮内少輔の一色直氏が、私たちに教えてくれたことである。私の他にも、この教えを聞いた人は少なからずいるだろう。
今川家の家系
我らの先祖のことを話そう。
足利義氏の子である長氏は、上総介となって以降吉良姓を名乗るようになった。その子、満氏の弟の国氏が今川を名乗り始めたという。
父吉良長氏は今川荘を隠棲地とし、その後国氏に譲渡しました。これが今川姓の由来です。
上総入道こと吉良貞義は法名を省観と言う。貞義と我が祖父基氏とは、両者の父が兄弟の間柄である(貞義の父は満氏、基氏の父は国氏で、この満氏と国氏が兄弟)ため、貞義と私は従父兄弟という関係になる。
貞義の子、右兵衛督吉良満義と、我が父故入道殿(法名心省)こと範国は、三従兄弟(曾祖父が同じいとこ。ここでは長氏)である。
関口、入野、木田などと呼ばれる人々は、国氏の子であり祖父基氏の弟である関口常氏、入野俊氏、木田政氏の子孫である。故殿(基氏)から見れば、いとこの子供たちにあたる。
今川姓を名乗り始めた国氏の子たちは多くいたが、今川を相続したのは基氏だけである。
開口常氏は母方が小笠原の人だったため、そちらの所領を譲り受けた。入野芸州こと俊氏は母方の縁によって相模国三浦郡大多和の一部を譲り受けたため、入野と称するようになった。「今川の川端」というのは、入野の人々のことである。
基氏にはたくさんの妹君がおり、皆公家と重縁を結び、その子供たちは石川氏や名兒耶氏と称した。そして両家の子孫の一部は基氏の養子となったのだが、これはつまり、今川氏は故殿(=足利将軍家)にとって連枝(近い親族)になったことを意味するのである。
それ故、建武の頃に御所(=足利将軍家)に申し入れをし、一流の家となったのである。伊勢国の「そか」という地の領家も、基氏の妹の婿であると私は聞いている。
婿の名は石川三位公といい、父は法師宮(詳細不明)の子である。
また、山伏である少輔太郎の一色直氏の父範氏は、自身の姉の婿が基氏となった。そのため、基氏の子である故殿こと範国からすれば、範氏は伯父にあたり、一色直氏と範国はいとこの関係となる(生没年不詳のため、年齢差不明)。
今川庄の由来
今川庄は、左馬入道こと足利義氏の時代に賜ったものである。これは、義氏の側室から生まれた子、吉良長氏がまだ吉良姓を名乗る前の少年時代にその装束料として賜ったものだ。ただ、『今川庄は吉良庄が惣領として管理するように。』との通告が原因で、孫の基氏とは不仲になってしまっている。
故殿こと今川範国の時代、範国と吉良貞義が和解、庄園の合体が行われ、父子の契約による争いは終わった。
その結果、今川了俊が譲り受けて相続することとなった。東福寺の仏海禅師は了俊の師である。それにより、了俊は東福寺の塔頭である正法院に、今川庄の永代寄進を申し入れた。
この仏海禅師和尚は、我々の先祖が今川氏の地を知行し始めた頃の政所であった高木入道(詳細不明)という者の伯父であったということもあり、何かと今川とは縁があった。そうしたよしみもあって、七代にわたる父母の菩提を弔うために永代寄進を申し入れたのである。
しかしながら、もし子孫の中に、今川の地を大切に思う者がいるならば、今領有している土地も貢納の多い、確実な場所と領地替えしてもらうよう、公方に申し上げてもよい。今のままで良いと思うのならば、寄進先の塔頭の意に従うように。この文書は証拠として申し出ておくように。
足利尊氏の出生秘話
大御所(足利尊氏)について話そうと思っていたが、書き忘れていたので追記する。大御所の初湯の時、山鳩が二羽飛んできて、一羽は左の肩先に止まり、もう一羽は柄杓に止まったという。
その後、錦小路殿(足利直義)がお生まれになって産湯を使われた時にも、山鳩が二羽飛んできて、一羽は柄杓に 、もう一羽は湯桶の端に止まったという。
しかしまだ、この時は北条氏の時代であったため、世を憚って当時この出来事は公にしなかった。足利の世になってから、老人が語り出したとか。
元弘の乱
1333年の元弘の乱に際して尊氏が上洛したのだが 、この道中不思議な出来事があった。
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元弘の乱の戦況はこちらで!
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三河国八橋に到着した時、尊氏の御前には大勢の人々が集まっていた。その夕暮れ時、白い衣をまとった女が一人参上し、こう申し上げた。
「御子孫が悪事を犯さなければ、七代にわたって繁栄するでしよう。その証として、合戦に出陣されるたびに、雨風をもってお知らせしましょう。」
と。言い終えるとその女は夢のように消えてしまったのだった。それ以来、尊氏は後醍醐天皇への謀叛を思うようになった。そう心に決めて、上杉兵庫入道こと上杉憲房を使者として、まず吉良貞義に相談した。貞義は
「今まで、早く早くと思っておりました。そう決断されて、私はまことに喜ばしゅうございます。」
と返事した。その後も他の人々にも相談を続けた。このことは、既に関東に錦の御旗を掲げられた時から、内々に上杉憲房が進言していたと言われている。
当時、尊氏は、母方であった上杉家にだけ、祖父家時と父貞氏の御意向を話していたとか。
これによって、上杉氏は特に尽力し、手越河原の合戦で討ち死にしたと伝えられている。憲房は、今の上杉中務入道こと上杉朝宗の祖父にあたる人物である。
まとめ
てっきり、『太平記』を難しくしたのが『難太平記』だと思ってました(笑)。
にしても、いち武将が自ら筆を手にして自叙伝を著すのは、なかなか珍しい話ではないでしょうか。事実ベースで語る人なので、後世において自らの行いを誤解されたくないという思いがあったのかもしれませんね。
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