登場する場所
番号と対応した地図です。東北地方の名所は頻繁に立ち寄っていることが分かります。
12『須賀川』では、
17 鏡沼跡(影沼)
が該当します。
原文
とかくして越行ままにあぶくま川を渡る
左に会津根高く右に岩城相馬三春の庄
常陸下野の地をさかひて山つらなる
かげ沼と云所を行に今日は空曇て物影うつらず
すか川の駅に等躬といふものを尋て四五日とどめらる
先
白河の関いかにこえつるや
と問
長途のくるしみ身心つかれ且は風景に魂うばはれ懐旧に腸を断てはかばかしう思ひめぐらさず
風流の 初やおくの 田植うた
無下にこえんもさすがに
と語れば脇第三とつづけて三巻となしぬ
此宿の傍に大きなる栗の木陰をたのみて世をいとふ僧有
橡ひろふ太山もかくや
と閒に覚られてものに書付侍る
其詞栗といふ文字は西の木と書て西方浄土に便あり
と行基菩薩の一生杖にも柱にも此木を用給ふとかや
世の人の 見付ぬ花や 軒の栗
現代語訳
かれこれと白河の関を越え行くままに、阿武隈川を渡った。
左には会津根(磐梯山のこと)が聳え、右には磐城、相馬、三春の荘があり、この国と常陸の下野国との国境を隔てるように山が連なっている。
蜃気楼の名所、影沼(福島県鏡沼町にある鏡沼のこと)という所に行ったが、今日は空が曇っていて物影(蜃気楼)は映らなかった。
健保元年(1213)に発生した泉親衡(ちかひら)の乱に関する跡地です。
信濃源氏の泉親衡によって執権北条氏への謀反が発覚した際、首謀者の一人である和田平太胤長(たねなが)は捕らえられ、岩瀬郡稲村(現福島県岩瀬郡)に配流された後、処刑されました。
夫の身を案じた胤長の妻が、鎌倉よりこの地に至り、里人に夫の死を知らされ、鏡を抱き沼に入水し果てた。
という逸話が残っています。
間もなくして、執権北条氏と侍所別当和田氏との決戦、和田合戦が勃発します。
それと関連があるかは不明ですが、ここは蜃気楼がよく出るそうで、その名所にもなっていたようです。
須賀川宿(奥州街道第三十七番目。岩瀬郡の東部に位置する)で相良等躬(さがらとうきゅう)という俳人を訪ねた。四、五日引き止められた。
等躬はまず、「白河の関を越える時、どのような句を詠みましたか。」と問うた。
「長い道のりの苦難に心身疲れながらも、一方では、風景に心奪われ、一方では懐古しては断腸の思いになり、しっかりと思いを巡らすことができませんでした・・・」
風流の 初めや奥の 田植歌
ぐちゃぐちゃな感情のままに白河の関を越えて奥州に入ったわけですが、聞こえてきた田植え歌が、奥州で初めての風流でした。
「全く詠まないで白河の関を越えるのはさすがに・・・」
と語れば、これを発句に、脇(連歌の第二句を脇という)、第三(第三句はそのまま第三という)、と続けて三句一巻とした。
この宿駅の傍らには、大きな栗の木陰をたよりに庵を結び、隠遁した僧がいる。
西行法師(山家集 雑歌 1202)
山深み 岩にしだるる 水溜めん
かつがつ落つる 橡拾ふほど
山が深い秋の高野山。岩から滴り落ちる水を溜めておこう。
且つ且つ(かつがつ。何はともあれ)、落ち始めた橡の実を拾うこの時期のうちにね。
の歌の情景はこうであったか、と静かに思われて、書き付けた。
『
その言葉、「栗」という文字は「西の木」と書いて西方浄土に縁があるということで、行基菩薩は一生、杖にも柱にもこの木を用いられたそうな。
世の人の 見つけぬ花や 軒の栗
目立たない花だからかもしれないが、世の人は、風流な軒に咲いた栗の花にすら気づかない。
あの隠遁僧は、そんな風にひっそりと暮らしている。
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