プロフィール帳

『奥の細道』

時代:江戸

作者:松尾芭蕉

概要:自然や歴史、人の営みの美しさを見出した、東北・北陸を巡る紀行文学

9

オススメ度

7

日探重要度

5

文量

5

読解難易度

 

登場する場所

番号と対応した地図です。東北地方の名所は頻繁に立ち寄っていることが分かります。

43『敦賀』では、

114 日野が嶽(日野山)

115 浅水橋

116 玉江の芦

118 湯尾峠

119 燧ヶ城跡(火打城跡)

120 帰り山

121 芭蕉翁逗留出雲屋跡

122 氣比神宮

123 種ケ浜(色ケ浜)

124 法華寺(本隆寺)

が該当します。

原文

漸白根が岳かくれて比那が嵩あらはる

あさむづの橋をわたりて玉江の蘆は穂に出にけり

鴬の関を過て湯尾峠を越れば燧が城かへるやまに初雁を聞て

十四日の夕ぐれつるがの津に宿をもとむ

その夜月殊晴たり

あすの夜もかくあるべきにや

といへば越路の習ひ猶明夜の陰晴はかりがたし

とあるじに酒すすめられてけいの明神に夜参す

仲哀天皇の御廟也

社頭神さびて松の木の間に月のもり入たるおまへの白砂霜を敷るがごとし

往昔遊行二世の上人大願発起の事ありて

みづから草を刈土石を荷ひ泥渟をかわかせて参詣往来の煩なし

古例今にたえず神前に真砂を荷ひ給ふ

これを遊行の砂持と申侍る

と亭主のかたりける

月清し遊行のもてる砂の上

十五日亭主の詞にたがはず雨降

名月や北国日和定なき

十六日空霽たればますほの小貝ひろはんと種の浜に舟を走す

海上七里あり

天屋何某と云もの破籠小竹筒などこまやかにしたためさせ

僕あまた舟にとりのせて追風時のまに吹着ぬ

浜はわづかなる海士の小家にて侘しき法花寺あり

爰に茶を飲酒をあたためて

夕ぐれのわびしさ感に堪たり

寂しさや須磨にかちたる浜の秋

波の間や小貝にまじる萩の塵

其日のあらまし等栽に筆をとらせて寺に残す

現代語訳

だんだんと白根岳(白山)が隠れ、日野が嶽(日野山)が現れてきた 。

浅水の橋(現福井市を流れる浅水川にかかる橋)を渡って、玉江の芦(現福井市花堂あたりに広がっていた)を見渡すと、穂はすっかり出ていた。

とらちゃ
とらちゃ

浅水は、「あさむつ、あさむず」と読みます。

玉江の芦は月の名所でもあり、この話の後半でもそれにちなんだ出来事が登場します。

鶯の関(現福井県南越前町)を通り過ぎて、湯尾峠を越え、燧ケ城(ひうちがじょう)、帰り山(南越前町から敦賀に通じる海沿いの山道)に初雁の鳴き声を聞きながら、敦賀で宿をとった。

とらちゃ
とらちゃ

湯尾峠は、源平合戦や南北朝時代戦乱、一向一揆などの舞台となった要所です。

燧ケ城は火打城とも書き、南北朝時代に築城されました。

とらちゃ
とらちゃ

泊ったのは、旅宿の出雲屋といわれています。

その夜、月はいつも以上に晴れていた。

「明日の夜もこのように晴れるでしょうか。」

と言うと、亭主に

「越路(こしじ。北陸道の古称)のことですから、明日の夜の晴れ曇りは予想できません。」

と言われながら酒を勧められ、そのまま、夜晴れてるうちに気比神宮(現敦賀市。越前国一の宮)に参詣した。

第14代仲哀天皇の御廟である。

社頭(社殿のこと)は神々しく、松の梢の間からは月の光が漏れて幽玄である。御前の白砂は霜を敷いたようになっていた。

とらちゃ
とらちゃ

秋の夜の下がった気温、澄んだ空気が感じられます。

亭主は語る。

「その昔、遊行二世(ゆぎょうにせい)が大願発起の折に、自ら草を刈り、自ら土石(浜辺の砂)を背負い運んで、泥渟(でいてい。ぬかるみ)を整備してくださったので、参詣の往来には不自由ありません。この古例(これい。記録に残っている先例)は今日まで絶えることなく伝わっております。それを慕い、修行僧は神前に真砂をお運びになるのです。それを、『遊行の砂持(ゆぎょうのすなもち)』と言います。」と。

とらちゃ
とらちゃ

遊行二世は、他阿(たあ)上人のことです。一遍が開いた時宗の教団組織化に尽力した二代目開祖とも言われる人物になります。

月清し 遊行のもてる 砂の上

遊行二世が運んだ白砂に月の光が差している。

その尊さ故か、月も清らかに輝いているよ。

翌15日。亭主の言った通り、雨が降った。

名月や 北国日和 定なき

中秋の名月よ。見たかったというのにまあ。

北国の天気というのは、変わりやすいものだなあ。

16日、空が晴れたので、ますほの小貝(赤みがかかった美しい小さな貝)を拾おうと、種の浜(またの名を色の浜)に船を出した。

とらちゃ
とらちゃ

西行法師が敦賀で詠んだ歌にちなみます。

『夕染むる ますほの小貝 拾ふとて 色の浜とは いふにやあるらん』

夕暮れに染まる美しい赤いますほの小貝。人はふとこれを拾ってしまうから、この浜は「色の浜」と言うのだろうよ。

なお、種の浜は、当時は陸路で訪れることができませんでした。昭和40年代、敦賀原発ができた折に陸続きになりました。

そこまでは海路七里である。敦賀の天屋何某(廻船問屋の室五郎右衛門のこと。天家、または室家という)という者が、破籠(弁当)や小さい竹筒(水筒。といいつつ、中身は酒)など、細やかに用意してくれた上に、部下を大勢舟に乗せて世話してくれた。追風に乗ってすぐに着いた。

種の浜は、漁夫の小さな家が僅かと、みすぼらしい法華寺(本隆寺のこと。現存する)があるだけである。

ここで茶を飲み、酒を燗(に)て、夕暮れの寂しさを深く堪能した。

とらちゃ
とらちゃ

現代でも、熱燗といいますね。

寂しさや 須磨にかちたる 浜の秋

『源氏物語』の『須磨』巻は寂びの極地である。

そんな須磨よりも、この種の浜の秋景色のほうが、寂寥感が勝っているよ。

波の間や 小貝にまじる 萩の塵

波間の砂の中に、ますほの小貝と萩の塵(花屑)が見える。その美しさと秋の寂しさで心惹かれるよ。

その日の出来事は、洞哉に筆をとらせて法華寺(本隆寺)に残し置いた。

第42話へ
<<
第44話へ
>>