現代語訳
亀毛先生の論(続き)
先生視点の蛭牙公子
夫汝之為性上侮二親無告面孝下凌万民莫隠恤慈或弋猟為宗跋渉山坰或釣●為業檝櫂●海終日謔浪己過州吁達夜博奕亦踰嗣宗話言遠離寝食尽忘水鏡氷霜之行尽滅渓壡貪婪之情競熾咀嚼毛類既如師虎喫●鱗族亦過鯨鯢曽無愛子之想豈有已宍之顧嗜酒酩酊渇猩懐耻趁逐望食飢蛭非儔若蜩若螗不顧艸葉之誡靡明靡晦誰致麻子之責恆見蓬頭婢妾已過登徒子之好色況於冶容好婦寧莫術婆伽之焼胸春馬夏犬之迷已煽胸臆老猿毒虵之観何起心意向倡棲汝喧楽恰似獼猴之戯杪臨学堂而欠伸還若毚皃之睡蔭懸首刺股之勤全闕心裏提觴捕蟹之行専蘊胸中数十熠燿不聚嚢中一百青鳬常懸杖頭若儻入寺見佛不懺罪咎還作邪心未知一称之因遂為菩提四銖之果終登聖位過庭●誨不誅已惡翻恨提撕豈恖諄諄之意切於猶子懃懃之思重於比兒好談人短莫顧十韻之銘屢事多言不鑒二緘之誡明知譖言之鑠骨金不慎枢機之発栄辱如此品類寔繁有徒禹筆何書隷算豈計如復飽食滋味徒労百年既同禽獣燠衣錦繍空過四運亦如犬豚記云父母有疾冠者不櫛行起不翔琴瑟不御酒不至変笑不至矧此乃思親切骨不敢容装又云隣有喪舂不相里有殯街不歌是復与人共憂不別親疎其於疎遠如是於昵近如彼故親族不
予莫迎醫嘗薬之誠則賢士哲夫側目流汗閭巷有憂無相愁問慰之情則傍親有識寒心入地形殊禽獣何同木石體如人類何似鸚猩
いざお前の為人をみると、上は両親を侮り、また、外出する際に両親に向かって一言告げることもしない。下は民に驕り高ぶり、憐れみの心を持たない。
狩猟を嗜んでは町外れの山々を歩き回り、漁を生業として大海に繰り出す。
一日中ふざけ戯れる様は、兄の桓公から王位を簒奪した衛の第14代君主、州吁(しゅうく)以上である。
夜通し博打に熱中する様は、母親が死んでも平気な顔をして囲碁を続けた三国時代の思想家、嗣宗阮籍ですら及ばない。
善言とは遠く離れたところで生き、寝食を忘れて遊びに打ち込む。水鏡や氷霜のように透き通った行動はしないし、深い谷川の水が尽きないように欲望は底つきず、常にそれを追い求めている。
食事に関しては、虎が獣を食らうがごとく、よく食べる。その様は魚を飲み込んで食べる鯨ですら及ばない。
忠孝が隆盛していた時代、父や母の肉を食らおうと思う者などいなかった。六道の衆生は動物を見ると、「これは生前の父や母だ」と考え、殺生を行わなかったのだ。お前にはそんな心があるだろうか、いや、ない。
酒を好み、飲んで酩酊する様は、酒好きの猿ですら恥を感じるほどであり、食べ物を探し回る様は、常に血に飢えているヒルでさえ同類と思わないほどである。酒に溺れて喚く様は、まさに蝉。仏教には『艸葉の誡め』というのがある。これは、葉に乗った僅かな酒ですら禁じるという戒律であるが、お前は、このように自分を律する生活とは無縁であろう。昼だろうが夜だろうが関係ない。誰かお前に『麻子の責(何かは不明)』を与えてくれ。
いつも髪の乱れた下女にすら発情する様は、色好漢ですら及ばない。このような奴が、どうして艶かしい婦人を見て発情しないだろうか、いや発情する。発情というよりむしろ、王女への恋が叶わず死んだ術婆伽のように胸を焦がしているのであろう。馬は春に、犬は夏に発情する。お前は、彼らのような悶々とした感情を心に燃やしている。女を老猿や毒蛇のように思う気持ちは起きてこない。
娼婦が多く住む建物でやかましく騒ぎ立てる様は、あたかも猿が木の枝の上で戯れているかのようである。
学校に行っても欠伸ばかりしている様は、兎が木陰で眠っているようである。
頭を懸け股を刺す。禁欲的に学問に励んだ孫敬のような覚悟は毛頭ない。右手に杯を、左手に蟹を持って心ゆくまで飲食を尽くした畢卓のような者を理想としている。車胤のように、数十の蛍を集めてその光のもとで学問に励むこともしない。
いつでも飲み食いや博打ができるよう百枚の銭を常に杖先に括りつけて持ち歩いている。
たまたま寺に入って仏像を見たとしても、罪を懺悔をするどころかかえって邪心を起こす。「南無阿弥陀仏」と唱え続けると菩薩になることができるという仏の教えや、『四銖の果(何かは不明)』によって聖位にまで上り詰めたという基本的な話を未だに知らない。
父が子に教えを享受したとしても、自分の悪を認めず、かえって師匠の教えを恨む。甥よりも親切丁寧に教えてくれるというのに、兄弟の子供よりも懇ろに接すしてくれるというのに、お前はその有難みを感じることはないのだろう。
人の短所を好んで語り、『自分の長所を誇ってはならない』という座右の銘を立てた後漢の崔瑗の教えを顧みることもなく、しばしば喋りすぎても三重に口を塞ぐような配慮もしない。人を謗るような発言は命を落としたりや金を失ったりする可能性があるとはっきり知っているはずなのに、発言が自身を成長させるか辱めとなるかを決めるのに、発言を慎まない。
不品行な振る舞いがたくさんあるこのような者に限って仲間が多い。
命名上手であった禹王ですら筆を止めるだろう。黄帝の家臣で数学家の隷首ですら浪費した額を計算できないだろう。もし、百年もの間美味い物を食い続けることに時間を浪費したならば、それは動物が過ごす百年と同じである。動物は食うことでしか生きる意味を見出せないからだ。そして、暖かい美しい衣服を身につけて徒らに四季を過ごしす。この虚しさは犬や豚のようだといえよう。犬や豚は季節を感じないからだ。
『礼記』にはこう書かれてある。『父母が病にかかっている時、子は髪をとかないし、家から出て遊びに行くようなこともしない。また、音楽遊びをせず、酒を飲んだとしても振る舞いに変化が出ないほどの量で慎み、歯を見せて大声で笑うようなこともしない。』と。
何故このように言われるのか。それは、親が心配でたまらず、己の振る舞いに気を配る余裕がないからである。また、『礼記』にはこう書かれている。
『隣人が喪にふくしていたら、臼をつくようなことはしない。里にまだ葬儀の済んでいない家があったら歌わない。』と。
これは、他人と憂いの気持ちを共有し、配慮の気持ちが生まれるからである。親族も他人も区別は無いのだ。彼の場合、慣れ親しんだ人に対しても不品行な態度である。そうであるから、もし親族が病気になった時には医者を呼んで薬の毒味をするような誠実さはない。賢士ですら、哲人ですら直視できず汗を流す。
住んでいる村里に不幸があったとしても、共に愁い、慰め合うような気遣いはない。無関係な傍観者ですら、その逆の有識者ですら、これを見ては肝を冷やして穴に入る。
人間の外見は鳥や獣のように野性的ではない。人間の心は木や石のように無機質ではない。外見は人類でありながら、心は人語を真似るオウムや猩々(しょうじょう)である、といったような、人の心を持たない人もどきは存在するだろうか、いや、存在しない。
蛭牙公子が改心すると
嚮使蛭牙公子若能移翫惡之心専行孝徳則流血出瓮抽笋躍魚之感軼孟丁之輩馳蒸蒸美移忠義則折檻壊疎出肝割心之操踰比弘之類流諤諤誉講論経典東海西河結舌辞謝渉猟史籍南楚西蜀閉口揖譲好書則鵾翔虎卧之字鍾張王欧擲毫懐耻翫射則落烏哭猿之術羿養更蒲絶弦含嘆就於戦陣張良孫子慨三略之莫術赴於稼穡陶朱猗頓愁九穀之無貯莅政則跨四知而馳誉断獄則超三黜而飛美清慎則孟母孝威之流廉潔則伯夷許由之侶若乃赴神醫道馳心工巧換心洗胃之術越扁華以馳奇斵蝿飛鳶之玅凌匠輸而翔異若如是則汪汪万頃同彼叔度森森千仞比此●嵩観者深浅不測仰者高下不度
もし、蛭牙公子が悪を弄ぶその心を改心し、専ら孝行、徳行をするというならば、血を流した聖人となろう(不明。何かの故事であろう)。
郭巨得釜、わが子を殺してでも母を飢えさせまいとして、黄金の釜を掘り当てた郭巨。母のため冬に凍った池で裸になって体温で氷を溶かし、魚を獲った王祥。それらに加えて、孝行の模範といわれる孟宗や丁蘭といった聖人すらも及ばない、専ら孝行を尽くした者として美名を得るだろう。
朱雲が欄干を破壊したことや、誰それ(不明)が窓を破壊したことや、弘演が殉死する際に自身の肝を取り出して君主の懿公の肝臓と入れ替えたことや、比干が君主の紂王を諌めて胸を割かれて殺されたことといった悪行の例が数々あるが、蛭牙公子が行動を忠義なものに移せば、比干や弘演といったような、直言による名誉を得ることができるだろう。
儒教の経典を講義や討論すれば、東海に住んでいた魏の学者王粛や、西河で弟子に教えていた孔子の門人、子夏ですら舌を巻いてその場を辞退するだろう。
歴史書を読み漁れば、南楚の屈原や西蜀の諸葛亮といった智者も口を閉じて恭しく両手を前で合わせて会釈するだろう。書を好めば、普段飛ばない鶏が飛ぶような、普段伏せない虎が伏せるような、立派な字を書くだろう。
高名な書家である鍾繇、張芝、王羲之、欧陽詢ですら筆を投げ捨てて恥をかくだろう。
弓道を習得すれば、太陽を落としたという羿や弓を整えただけで猿を泣かせたという養由基、その他にも、弓の名手、更羸や薛仁貴は弓を切って自身の弓の腕を嘆くだろう。
軍略を学べば、張良や孫子といった名高い軍略家ですら為す術なしと心を痛めるだろう。
農業をすれば、その見事な生産量から、陶朱や猗頓といった富豪は九穀(黍、糯黍、糯粟、稲、麻、大豆、小豆、大麦、小麦)の備蓄が足りないのではと不安になろう。
政治の道に進めば、四知(「天が知り、地が知り、自分が知り、相手が知っている」秘事もいつかは他に漏れるということ。ここでは、賄賂などの不正政治を指すか。)の潔癖を示し、清廉な名を馳せるだろう。
司法の道に進めば、三度退けられても信念を曲げなかった柳下恵をも超える美名を得るだろう。潔白で慎み深ければ、孟子の母や孝威の流れをくむような聖人となろう。
心が清く、私欲がなく、正しい行いをするようになれば、礼儀を統轄した伯夷や、帝位譲位の話を聞いて耳が穢れたと嘆き節操を極めた許由といった節操をわきまえる類の者と見られるだろう。
もし、いましがた医学の道に思い馳せたならば、心臓や胃を手術する扁鵲や華佗をも超える名医となるだろうし、工芸の道に思い馳せたならば、縄をも難なく削る石工の匠石や、鷹の細工を飛ばしたという工匠の公輸般をも凌ぐ匠となろう。
もしこのようになれば、水がいっぱい溜まっている広々とした湖のような心の持ち主である蔡叔度に同じくし、木々の繁る険しい山々のような徳の高さは庾嵩に並ぶこととなる。あなたを仰ぎ観る者に、その心の深浅や徳の高さを測ることはできまい。
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