71:姥
この話をしてくれた老女は熱心な念仏者であるが、一般的な念仏者と違い、邪宗の一種のような信仰がある。老女は信者に伝道することはあるけれども、互いに厳重なる秘密を守っており、その作法については親子であっても一切たりとも知れないようにしているという。
また、寺とも僧とも少しも関係が無く、人数は多くはないが、在家の者のみの集まりであるという。同じ仲間に辷石(はねいし)たにえという婦人などがいるそうだ。
阿弥陀仏の斎日には、人が静まる夜中に会合し、人目付かない部屋で祈祷している。魔法、まじないを巧みに用いるが故に、郷党に対して一種の権威がある。
72:里の神カクラサマ
栃内村の字、琴畑(ことばた)は山奥の沢に位置する。家の数は五軒ばかりで、小烏瀬(こがらせ)川の支流の上流にあたる。ここから栃内の民居までは二里の距離がある。琴畑の入口には塚があり、その塚の上には木の座像がある。人の大きさほどの像で、以前は堂の中にあったのだが、今は雨晒しとなっている。この像をカクラサマという。
村の子供たちはこの像を玩具として用い、引きずり出しては川へ投げ入れたり路上を引きずり回したりするため、今は鼻も口も見えないようになってしまっている。かつて、子供を叱ってこの遊びを止めようとした者がいたが、かえって祟りを受け、病むことがあったという。
※神体仏像には子供と遊ぶことを好む神も多く、遊びを制止して神の怒りを買った例もそれに伴って多い。今回と同様の話は、
遠江小笠郡大池村東光寺の薬師仏(『掛川志』)
駿河安倍郡豊田村曲金の軍陣坊社の神(『新風土記』)
信濃筑摩郡射手の弥陀堂の木仏(『信濃奇勝録』)
などに書かれている。
73:里の神カクラサマ
カクラサマの木像は遠野郷に多く存在する。遠野郷だけでなく、栃内の字西内(あざなにしない)にもある。山口分の大洞(おおほら)というところにもあったということを記憶している者もいた。カクラサマを信仰する者はいない。カクラサマは粗末な彫刻で、衣裳頭の装飾品もはっきりしない。
74:里の神カクラサマ
栃内のカクラサマは半身像で、大小の像が二つ存在する。土淵一村では三つか四つ存在する。いずれのカクラサマも木の半身像で、鉈(なた)で荒削りした無恰好なものである。
しかし、人の顔であるということだけは見て分かる。
カクラサマとは、かつては神々が旅の途中休息した場所の名である。そのため、該当の地では、常にいる神をこのように唱えることなったのである。
75:山女
離森(はなれもり)の長者屋敷にはこの数年前までマッチの軸木の製造工場(こうば)があった。その小屋の戸口には、夜になると女がやってきて、人を見ては、げたげたと笑うのだという。気味が悪く心細く思われたため、ついに工場を大字山口に移した。とはいえ原材料の木を伐りに離森に行く必要があった。工場を移して後、この離森に枕木を切り出すため小屋を設けた者がいたのだが、夕方になるとどこかへ迷い行き、帰ってきたと思うと茫然としていうことがしばしばあった。このような人夫が4、5人もおり、その後も絶えずどこかへか出て行くことがあった。この者らに話を聞くと「女がきて何処かへか連れだすのだ。帰ってからは2日も3日も茫然となってしまう。」と言う。
76:館の址
長者屋敷とは、昔、時の長者が住んでいた跡であり、その辺りには糠森(ぬかもり)という山がある。長者の家の糠を捨てたことが由来という。この山の中には五つ葉のうつ木があり、その下に長者が黄金を埋めたと伝わっている。そのため、今もそのうつ木のありかを求め歩く者が稀にいる。この長者は昔の金山師であったためだろうか、この辺りには鉄を吹いた際に出る滓(かす)が見られる。恩徳(おんどく)の金山はこの糠山の山続きにあり、そう遠くないところにある。
※諸国の「ヌカ塚」や「スクモ塚」には、その多くがこれと同じような長者伝説を伴なっている。また黄金埋蔵の伝説も諸国に限りなく多く存在する。
77:まぼろし
山口に住む田尻長三郎という者は土淵村一番物持ちが良い。この当主である老人の話である。当主が四十数歳の頃、甥の老人の息子が亡くなった。その葬式の夜、人々は念仏を終え各々帰ったのだが、この老人は話好きだったため、少し帰るのが遅くなった。
話も終わり立ち返った時、軒にある雨落ち石を枕にして仰向けに寝ている男がいた。よく見ると、見知らぬ人で、死んでいるようにも見えた。月が出ている夜であったため、月光でその男を見ると、膝が立っており口が開いていたのである。この男は大胆者で、足を動かしてみたれど少しも身じろぎしない。道を妨げているとはいえ他に困る人もなかったため、結局、この男を跨いで家に帰ったのだった。
次の朝この場に行って見ると、もちろんの昨夜の跡もなく、また、他には誰も、これを見たという人がいなかった。しかし、枕にしていた石の形とその配置とは昨夜見た通りであった。そして今、この老人は言う。
「手をかけて見れば良かったのだが、半ば恐ろしかったのでただ足で触れただけだ。他にどうしたら良かったのか思いつかなかった。」と。
78:前兆
77と同じ人の話である。奉公者であった山口の長蔵という者がいた。今は七十歳強の老翁で、生存している。昔、夜遊びに出て帰りが遅くなった日のこと。主人の家の門は大槌往還路に接していたのだが、この門の前に着いた時、浜の方からやって来た人に会った。雪カッパを着ていた。近づいては立ち止まったため、長蔵も怪しみながらその姿を見ると、往還路を隔てて向こう側にある畑の方にずっと逸れて行ってしまった。
「あの辺りには垣根があるはずなんだが。」と思い、よくよく見ると正しくその垣根はあった。どうやって行ったのか。急に恐ろしくなって家の中に飛び込んでは主人にこのことを語った。後々聞いた話だが、同じ時刻に新張村(にいばりむら)の何某という者が浜からの帰り道、落馬して死んだとのことだった。
79:まぼろし
78の長蔵の父をも同じく名を長蔵という。代々田尻家の奉公人で、妻とともに仕えていた。若いころの話である。夜遊びに出て、まだ日が落ちたばかりのうちに帰ってきた。門から入ると、洞前(ほらまえ)に立っている人影を見つけた。懐手(ふところで)をして筒袖の袖口を垂らしており、顔ははっきり見えない。妻は名をおつねという。
おつねのところへ尋ね来たヨバヒト※ではないかと思ったので、勢いよく近寄ると、奥の方へは逃げるのではなく、かえって右手にある玄関の方へ寄った。馬鹿にされているようで腹立たしく思い、なお進み寄ると、その者は懐手のまま後ずさりして玄関の戸の三寸ほど明るくなっているところよりもずっと内の方に入っていった。
しかし、長蔵は自然なことだと思い不思議とは思わず、その戸の隙に手を差し入れて中を探ろうとしたが、中にあるの障子がしっかりと閉めてあった。ここで初めて恐ろしくなったのだった。少し引き下がろうとして上を見ると、その男が玄関の雲壁※に引っ付いていた。自分を見下すがごとく様子で、その首は低く垂れて自分の頭に触れるほどで、眼球は何尺も、飛び出ているように思われた。と語った。この時はただただ恐ろしかったため、何事かの前兆のというわけではなかった。
※「ヨバヒト」は夜這いをかける人である。女に思いを寄せる人をこのように言う。
※「雲壁」は長押(なげし)の外側のことである。
80:家のさま
この話を理解するためには、田尻氏の家の構造を図にする必要がある。遠野一郷の家の造りはいずれも田尻氏の家と大同小異である。この家では門は北向きであるが、通例では東向きである。右の図で言うと、厩舎のあるあたりに門があるのが通例である。遠野郷では、門のことを城前(じょうまえ)と呼ぶ。屋敷の周囲は畠であるため、土屏などの囲いは設けていない。主人の寝室とウチとの間ある暗い小さな部屋は座頭部屋(ざとうべや)という。昔、家で宴会が行われた時は必ず座頭を呼んでいたらしく、その者を待たせておくための部屋であったという。
※この地方を旅行して最も印象的だった家は何れも鍵の手の形をしていた。この田尻家はその良い例である。
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