文学

遠野物語【現代語訳#7】61話~70話:オシラサマ誕生秘話とは?

プロフィール帳

『遠野物語』

時代:明治43年(1910)

作者:柳田国男

概要:東北地方に伝わる逸話や伝承を記した説話集

9

オススメ度

5

日探重要度

6

文量

2

読解難易度

61:山の霊異

60に同じ人が六角牛の中で白い鹿に逢った。『白鹿は神である』という言い伝えがあったため、「もし傷つけるだけで殺すことに失敗したら必ず祟りがあるだろう。」と思案したが、彼は名誉ある猟人であったため、殺し損じた時の世間の嘲りを恐れ、ついにこの白鹿を撃つことにした。

そして思い切って白鹿を撃った。が、手応えはあったものの鹿は少しも動かなかったのである。この時も先ほどと同様に非常に胸騒ぎがして、彼は、持っていた黄金の丸を取り出し、これに蓬を巻きつけて打ち放った。これは、日頃から魔除けとして、そして山賊と遭遇した時などの危急の時のために用意していたものである。

さて、鹿はというと、打ち放ってもなお動かなかった。あまりにも怪しかったので近寄ってこれを見ると、その正体は鹿の形によく似た白い石であった。数十年もの間山に暮している者が、石と鹿とを見誤るわけもない。

「これは全くもって悪魔の仕業である。」と思わされたのだった。この時ばかりは猟を止めようと思い立ったという。

62:天狗

和野村の嘉兵衛爺((3・41・60に同じ)が、ある夜に山中で小屋を作っていたのだが、暇がなくて夜に作業していた。とある大木の下に寄り、自分と木の周囲に魔除けのサンズ縄を引き巡らせ、鉄砲を抱えてうとうとしていた時のことである。

こんな夜深くに、物音がすることに気づくと、大柄の僧形の者が赤い衣を羽のようにして羽ばたき、その木の梢に覆いかかっていた。あっと気づき、銃を打ち放すと、すぐにまた羽ばいて空の中ほどを飛び返っていった。

この時の恐ろしさはこの世の者とは思えないものだった。その前後で3度このような不思議な出来事に遭遭遇しており、その度に鉄砲を止めようと心に誓っていた。氏神に願掛けなどをするもすぐに思い返して、「年を取るまで猟人の仕事を辞めるなどできない。」とよく人に語っていたのだった。

63:家の盛衰マヨイガ

小国(おぐに)の三浦某というは村一の金持である。今より二、三代前の主人はまだ貧しく、その妻は少し愚かで鈍い人であった。

ある日、妻が門の前を流れる小川に沿って蕗(ふき)を採りに行ったのだが、良い物があまり採れなかったので、次第に谷の奥深くまで登っていた。さて、ふと見ると立派な黒い門の家がある。訝しく思いながら門に入って中を見ると大きな庭があり、そこは紅白の花が一面に咲きほこり、多くの鶏が遊んでいた。その庭の裏の方へ回ってみると、牛小屋があって牛が多くおり、また、馬舎もあってこちらも馬が多くいた。しかし、誰もいない。ついに玄関を上ってみると、次の間には朱と黒との膳椀が多く取り出してあり、奥の座敷には火鉢があって鉄瓶の湯が煮立っているを見た。それでも人影がないので、「もしや山男の家ではないか」と思い、急に恐ろしくなって、走って家に帰ったのだった。この事を人に語るも、本当のことだと思う者はいなかった。

またある日、我が家のカド※に出て物を洗っていた時に、川上より赤いお椀が一つ流れてきた。極めて美しかったので拾い上げたが、これを食器に用いるには汚いと人に叱られないかと思い、ケセネギツの中に置いてケセネを量る器にしたのだった。この器でケセネを量り始めてからというもの、いつまで経ってもケセネは尽きない。家の者もこれを怪く思い女に問いかけると、女は川から拾い上げたのが始まりだという話をした。この家はこれより幸運に向い、ついに今の三浦家となった。

遠野では山中にある不思議な家をマヨイガという。マヨイガに行き当たった者は、必ずその家の内の家具や家畜など、何でも持ち出して帰って来るのであった。神が善行を見ていたのだろうか、褒美を授けるためか、そのような人が家を見つけるのである。女が無欲で何もも盗んで来なかったが故に、このお椀が自ら流れて来たのだろうと言われている。

64:家の盛衰マヨイガ

金沢村(かねさわむら)※は白望(しろみ)の麓にあり、上閉伊郡の中でも特に山奥にある村である。そのため人の往来が少ない。六、七年前、栃内村に住む山崎某という誰かが、この村から娘の婿を取った。この婿が栃内村から金沢村の実家に行こうとしたときのことである。山路に迷い、このマヨイガに行き当ったのだった。

その家の様相というのは、牛馬が多いこと、紅白の花々が咲いていることなど、すべて前の話の通りであった。これも同じく玄関に入ると、膳椀を取り出してある部屋があった。座敷にある鉄瓶が湯たぎっていたため今まさに茶を沸かそうとするところのように見え、住人は便所などのあたりに立っているようにも思われた。

茫然としていたが時間が経ってだんだん恐ろしくなり、引き返してついに小国の村里に出たのであった。小国では、この話を聞いて信じる者が少なかったが、山崎の方では「それはマヨイガであろう。膳椀の類を持ち帰ると長者になるらしいぞ。」と人は語る。

婿殿を先頭に多くの人がマヨイガを求めて山奥に入った。婿殿が言う門があった所まで来たけれども、特別気にかかるようなものもなく、虚しく帰ったのであった。今現在、その婿が金持ちになったという話は聞かない。

※上閉伊郡金沢村

65:姥神

早池峯(はやちね)は御影石の山である。この山のうち、小国側を向いている面に安倍ヶ城という岩がある。険しい崖の中ほどにあって、とても人が行ける所ではない。ここには今でも平安時代中期の安倍氏の棟梁、安倍貞任の母がここに住んでいるとの言い伝えがある。雨が降る夕方などには、岩屋の扉を閉ざす音が聞こえるという。そのため、小国、附馬牛の人々は「安倍ヶ城の錠の音がする。明日は雨だろうな。」などと言う。

66:塚と森と

同じく御影山の附馬牛側の登り口にもまた安倍屋敷(あべやしき)という巌窟がある。とにかく早池峯は安倍貞任にゆかりある山なのだ。小国にある御影山登山口にも、討ち死にした八幡太郎こと源義家の家来を埋葬したという塚が三つばかりある。これは前九年合戦のことで、源義家は安倍氏を討った。

 

前九年合戦の詳細は『陸奥話記』に記されています。こちらで現代語訳しています。

陸奥話記【現代語訳#1】安倍氏の台頭と阿久刀川事件 前九年合戦 『陸奥話記』 時代:平安 作者:不詳 概要:安倍頼時・貞任VS源頼義 の戦いを描いた作品...

67:館(たて)の址

安倍貞任に関する伝説はこの他にも多くある。土淵村には昔、栗橋村との境に橋野という土地があった。この登山口より二、三里登った山の中に、広く平らな原がある。そのあたりの地名に貞任という所がある。その場所には沼があり、貞任が馬を冷した所として伝わっている。また、貞任が陣屋を構えた跡とも言い伝えられている。景色の良い所で、東海岸がよく見える。

68:館(たて)の址

土淵村には安倍氏という家があって、初代は安倍貞任という人だという。その昔栄えていた家で、今も屋敷の周囲には堀があって、水が通してある。刀剣馬具も多く所有している。現在の当主は安倍与右衛門で、今も村で二三等の物持ちで、村会議員もしている。安倍の子孫はこの他にも多く存在する。

例えば盛岡の安倍館の付近、厨川(くりやがわ)の柵の近くにある家が挙げられる。土淵村の安倍家から北に四十五町の地点に位置する、小烏瀬川(こがらせがわ)の入り組んだところにかつての館の址がある。八幡沢の館(たて)という。八幡太郎の陣屋に該当する。ここから遠野の町への路の途中には八幡山という山もあり、その山から八幡沢の館の方を見ると視界に入る峯がある。ここにもまた館の址の一つで、貞任の陣屋という。

二つの館の間の距離は二十数町で、かつて矢戦をしたという言い伝えがあり、掘り起こすと、多くの矢の根が出てくる。この二十数町の間に似田貝(にたかい)という部落があるのだが、矢戦をしていた当時、このあたりは蘆が茂っており、また、土が固まらないためユキユキと地面が動くのだった。

八幡太郎がここを通った時、敵味方いずれの兵糧も粥が多いことに気づき、「この地は煮た粥か」と言った。これが村の名の由来である。似田貝の村の外を流れる小川を鳴川という。この川を隔てて向こう側に足洗川村(あしらがむら)があるのだが、源義家が鳴川で足を洗ったのが村の名になったという。

※「ニタカイ」はアイヌ語の「ニタト」と音が似ている。この「ニタト」とは湿地から生まれた言葉で、「ニタカイ」と地形もよく合っている。

 

八幡太郎こと源義家が活躍した後三年の役を物語にした『奥州後三年記』はこちらで現代語訳しています。

奥州後三年記【現代語訳#1】後三年の役の勃発の原因と経緯を解説! プロフィール帳 『奥州後三年記』 時代:平安 作者:不詳 概要:後三年の役を物語にした書。 ...

69:家の神オシラサマ

今の土淵村には大同(だいどう)という家が二軒ある。山口の方の大同家の当主は大洞万之丞(おおほらまんのじょう)という。この人の養母にあたる、おひという名の者は、八十を超えた今もご健在で、佐々木氏の祖母の姉である。魔法に長けている人で、まじないを使って蛇を殺したり、木に止っている鳥を落したりといった術を佐々木君はよく見せてもらっていた。

昨年の旧暦正月十五日にこの老女が以下の出来事を語ってくれた。昔あるところに貧しき百姓がいた。その百姓は妻はいないが、美しい娘がおり、また、一匹の馬を飼っていた。娘はこの馬を愛しており、夜になると厩舎に行って馬と一緒に寝、ついには馬と夫婦になった。ある夜、娘の父はこの事を知って、翌、娘には知らせずに馬を連れ出し、桑の木につり下げて殺したのだった。

その夜、娘は馬がいないことを父に尋ねた折に事を知り、驚き悲しんで桑の木の下に行った。死んだ馬の首にすがって泣いていたのを父は憎く思い、斧で後ろから馬の首を切り落とすと、たちまち娘はその首に乗ったまま天に昇って去っていった。

オシラサマという神この時に誕生した神で、馬をつり下げたあの桑の枝でその神の像を作ってある。作られた像は三つあり、最初に作られたのは山口の大同家にある。これを姉神し、二番目に作った山崎の在家権十郎(ざいけごんじゅうろう)という人の家に2つ目がある。そして3つ目は、佐々木氏の伯母の嫁ぎ先の家にあったのだが、今は家が絶えてしまってその行方は分かっていない。噂では、今は附馬牛村にあるといわれている。

70:家の神オクナイサマ

69と同じ人の話である。オシラサマがある家では必ず一緒にオクナイサマも祀ってある。しかし、例外的に、オシラサマがなくてオクナイサマだけある家も存在する。また家によってオシラサマの姿が異なる。山口の大同にあるオクナイサマは木像である。山口に住む、辷石(はねいし)たにえ、という人の家ではオクナイサマは掛軸である。田圃の中に立っているオクナイサマは木像である。飯豊の大同にも、同じようにオシラサマはないがオクナイサマだけある家があるという。

前に戻る
<<
続きを読む
>>