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雨月物語【現代語訳#2菊花の約】現世をも超えて果たされる武士の忠義心

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プロフィール帳

『雨月物語』

時代:江戸

作者:上田秋成

概要:江戸後期に作られた怪談・怪異本

6

オススメ度

2

日B重要度

4

文量

3

読解難易度

 

解説&一覧

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雨月物語【現代語訳#一覧】雨月の意味や全話あらすじを紹介! プロフィール帳 『雨月物語』 時代:江戸 作者:上田秋成 概要:江戸後期に作られた怪談・怪異本 ...

第二『菊花の約』

青々とした春の柳は家の庭に植えてはならない。交友する人は軽薄な人と結んではならない。それはなぜか。楊柳(ようりゅう。柳の古語)は茂りやすいが、秋の初風には耐えられないように、軽薄な人とは関係を築きやすいが、去りゆくのも速やかだからである。柳は春になると葉を染めるが、軽薄な人は途絶えれば訪れに来てくれる日はもうない。

播磨国の加古の宿に、丈部左門という学者がいた。清貧(物質的には貧しくても、その心は清らかである)を好み、書物を友とした。その他全ての調度品は煩わしく思い、嫌っていた。老いた母がおり、母は孟母(孟子の母。学ぶ大切さを教えるため、自身の織っていた布をハサミで断ち切る(断機の教え)が有名)に劣らず紡績を生業として息子の志を支えていた。末の妹は同じ里の佐用氏に嫁いでいた。

佐用氏の家は非常に裕福で富み栄えていたが、丈部母子の賢さを慕い、娘を娶って親戚となった。しばしば事あるごとに物を贈ろうとしていたが、口腹を満たすために人に煩わせるのは申し訳ないとして、決して受け取ることはしなかった。

ある日、左門は同じ里の何某という者を訪れ、今昔の物語で話が盛り上がっていたところに、壁を隔てて人が苦しむ声が痛々しく聞こえてきたので家の主人に尋ねると、

「ここより西国の人らしいのだがね、『連れに遅れてしまった。』と一晩宿を求めてきたのだよ。士族らしい風体で卑しい者ではなさそうだったから泊めて差し上げたのだけれども、その夜からなかなか下がらない高熱が出て、自分で寝起きもできないほどになってしまったんだよ。気の毒に思って3、4日ここで面倒をみたものの、どこ出身かも分からないものだから、私も思いがけない過ちをしたと思って戸惑っているところよ。」

と言った。左門はこれを聞いて

「悲しい話です。ご主人も心穏やかではないでしょう。ですが、病に苦しむ人は、頼るあてもない旅の空でこの病疾に憂いを感じています。本当に辛い思いが湧いてきます。具合を見させていただけませぬか。」

と言うと、主人は

「瘟病(おんびょう。流行り病)は人を殺すと聞いておりますから、家の者らもあえて行かせぬようにしております。我々に近づいて害を成されませぬようお願いしたい。」

左門は笑って答えた。

「人は生まれた日も死ぬ日も天命によってすでに決まっているのです。何の病がうつるでしょうか。うつるなどという噂は愚俗な人々が流した言葉で、私には通用しませんよ。」

と。そして戸を押して入ってその人を見ると、主人の言うに違わずふつうの様子ではなかった。重篤と見えて、顔は黄色く肌は黒ずんで痩せており、古い布団の上で悶え苦しんで横たわっていた。その人は人恋しげに左門を見て

「湯を一杯お恵みください。」

と言った。左門は近寄って

「士よ、心配なさるな。必ずお救い申し上げます。」

と言った後、主人と話し合って薬を選び、自ら処方し自ら煮て与えた。また、粥を勧めて兄弟のように親身に看病した。本当に捨て置けない様子であったのだ。

その武士は左門の深い慈しみの心に涙を流し

「これほどにまでに漂客(さすらいの者)を労わってくださったこと、死んでもそのお心に報います。」

と言ったが、左門はそれを諫めた。

「弱気なことを仰いますな。その症状はだいたい数日続くものですが、それ(病のピーク)を過ぎればもう死ぬようなことはありませぬ。私は毎日様子を見に参りますよ。」

と言って誠実に約束し、誠意を持って看病した。病がやや快復して安心したところで、その者は主人にも懇ろに礼の言葉を並べた。その者は左門の控えめな徳を尊敬し、左門の生業などを尋ねに行った際、己の身の上を語った。

「私は出雲国の松江郷に生を受けました、名を赤穴宗右衛門と申します。かつて、少しばかり兵書を嗜んでおりましたので、月山富田(がっさんとだ)城主に召し上げられておりました。城主の塩冶掃部介殿(京極氏の伝説上の家臣。尼子氏台頭以前に山陰を統治していた)は私を師として兵学を学んでおられましたが、私が近江国の佐々木氏綱殿(六角氏綱のこと)への密使として選ばれ佐々木氏の館に滞在していた間に掃部介殿は討ち死にされました。前月山富田城主の尼子経久が山中衆と共謀して大晦日に夜襲をかけて城を乗っ取ったのです。もともと雲州(出雲国)は佐々木殿の持国で塩冶殿は守護代として統治されていましたので、私は「三沢(三沢為国か)や三刀屋(三刀屋久扶か)を助け、尼子経久を滅ぼしてくだされ。」と進上しましたが、氏綱は見た目は勇猛でも気の小さい愚将でありましたので、経久を討ち果たすどころか、かえって私を近江国に逗留させ続けたのです。『いるべき理由もない所に長く居てたまるか。』そう思い、身一つで国へ帰る途中、このように病に罹って、思いがけずあなた方を煩わせてしまいました。身に余る御恩、我が半生の命をもって、必ずお報い申し上げます。」

左門は言う。

「人が困っているところを見て見過ごせない人と同じの心を持っているだけですので、そのような勿体ないお言葉をお受けする理由もございません。今しばらくはここでご自愛くだされよ。」

と。誠実な言葉に甘えて赤穴はここで日々を過ごし、普段と変わらないほどにまで回復した。

この日から左門は、良い友ができた、と思い、日夜交流して語り合っていたところ、赤穴も諸子百家の話などを少しずつ語り出した。問いも語りも賢く、兵法の理論も冷静に捉えているように思われた。互いの心にすれ違いは何一つ無く、互いに感喜を共有し、ついには兄弟の盟約を交わした。

赤穴は左門より5つ年上であったので、赤穴は伯氏(孔子が尊敬した人物)のように兄としての礼儀を受け入れて左門に向かって言った。

「私は父母と離れて暮らすこと久しくなった。賢弟の老母は我が母でもあるから、お初にお目にかかりることを所望する。母君は私を憐れみ、この幼稚な心を否定しないでくれるだろうか。」

左門は喜びに堪えず

「母はいつも私の孤独を心配しておりました。兄上から真心ある言葉を告げれば、母の命も延びるだろうよ。」

と言って、赤穴を連れて家に戻った。

老母は赤穴を歓待した。

「我が子は才能無く、学ぶ内容も時節に合わないもので、青雲の便(出世の時機)を失いました。どうか見捨てず、兄としての教えを施しください。」

赤穴は謹んで言う。

「古代中国、天子の教育を担当した丈大夫は義を重んじました。功名富貴な者も義を重んじていたことなどは言うに及びませぬ。私は今、母君から慈愛を受け、賢弟から敬意を受けました。これ以上に何の望みがありましょうか、いやありません。」

と喜び嬉しみ、ここで数日を過ごした。

昨日今日と咲いていた尾上の桜(※1)も散り果てて、涼しい風に乗ってうち寄せる波に問わなくとも分かる初夏の季節となった。

※1

『小倉百人一首』

高砂の 尾上の桜 咲きにけり

外山の霞 立たずもあらなむ

高砂の尾上(峰のこと)の桜が咲いた。

人里近い山霞よ、どうか立たないでいてほしい。

赤穴は母子に向かって言った。

「そもそも、私が近江から逃れてきたのは、雲州の状況を見るためです。ですので、一度帰国し、再び帰って参ります。菽水(しゅくすい。豆と水のこと。貧しくても親に孝行を尽くして喜ばせることをいう)の母に必ずご恩をお返しします。今ひと時の別れを甘受されよ。」

と。左門は言う。

「そうであるなら兄よ、いつお帰りになるのですか。」

「月日が過ぎるのは早いものです。遅くとも秋を過ぎることはないでしょう。」

「秋のいつの日と定めて待てば良いですか。お約束願いたいのです。」

「では、重陽の節句(9月9日。菊の節句ともいう)をもって帰ってくるとしよう。」

「兄よ、必ずこの日をお忘れにならないでくださいよ。菊花を一枝と薄酒を用意してお待ちしております。」

左門と赤穴は互いに信じ合い、そして赤穴は西へと向かったのであった。

あらたまの(枕詞)月日は早く過ぎ、下枝の茱萸(ぐみ)も色付き、垣根に咲く野良の菊も艶やかな季節、9月になった。9日はいつもより早く起き出し、草庵の座敷の塵を払い、黄菊や白菊を二枝、三枝ほど小瓶に挿し、財布を傾けて酒や飯の場を設けた。老母は言う。「かの八雲立つ国こと出雲国は山陰の果てにあり、ここから百里も離れていると聞いております。帰ってくるのが今日とも限らないから、兄がお見えになってから用意しても遅くはないと思いますよ。」と。これを聞いて左門は「赤穴は誠実な武士ですから、必ず約束を守ります。赤穴の姿を見てから慌ただしく用意を始めるのは恥ずかしく思います。」と返した。美酒を買い、鮮魚を獲って台所に用意した。

この日は千里に渡って雲一つ無い晴天である。草を枕に寝る旅人が群がっては

「今日は誰それの京入りだ。この晴れ空、此度の商売が上手く行く兆しだろうよ。」

と語りながら歩みを進めては過ぎていっていた。50歳ほどの武士が20歳ほどの同じような居ずまいの者に

「日和がこれほどにまで良いとはな。明石から船に乗っていたら今頃牛窓の港(現岡山県)まで行けていたかもしれないな。」

若い男は物怖じして

「ほんとう、より多くの銭がかかってしまいましたよ。」

と言うので、

「『殿の上洛の際、小豆島から室津へ渡られた折に思いもしない目に遭ったのだよ。』と従者が語っていたことを思えば、この畔の船移動に怯えるのも当然だろう(要するに、年上の武士が船移動を怖がって陸路を選んだが、それでは遅いうえに出費がかさんだということ)。そう怒るな。魚橋の宿(現長崎県にみられるが、無理がある。詳細不明。)の蕎麦を奢るから。」

と言って慰めながら通り過ぎていく。馬を連れる男も腹立たしげに

「この死に損ないめ、目も開けられないのか。」

と荷鞍を整え、先行く馬を追っていた。正午をやや過ぎても待ち人は来ない。西に沈む日を背に宿へ急ぐ人々がせわしなくなるのを見るも、海の方は普段通りで酔ったような心地になっていた。

老母は左門を呼び

「人の心が秋心でなくても、菊が色濃いのは今日だけではありません。帰って来る誠実さがあれば、空が時雨たとしても何を恨みましょうか。家へお入りなさい。寝て、また翌日待ちましょう。」

と言う。しかし左門はこれを受け入れ難く、母をなだめて先に寝かせた後にもしやと思って戸の外に出てみた。すると、夜空が照らす影も消え消えで、冷たい月は自分独りだけを寂しく照らしていた。軒先を守る番犬の吠える声が響き渡り、浦に寄せる波の音を聞けば、ここまで打ち寄せているように思われるほどであった。月の光もだんだんと山際に隠れてきた(日の出の時間)ので、

「今は家に入るか。」

と戸を閉めて入ろうとすると、ただただ見えた。朧気な黒い影の中に人がいて、風とともにこちらへやって来る。怪しく思いながらも見ると、それは赤穴宗右衛門であった。

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