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第三『浅茅が宿』
下総国葛飾郡の真間郷に、勝四郎という男がいた。祖父の代からこの地に住んでおり、多くの田畑の主として豊かに暮らしていたが、大人になっても農作業に関わってこなかったため、農作業を嫌なものだといって避けているうちに家は貧しくなってしまった。そのうち、多くの親族から疎んじられるようになったのを、残念なことだ、と深く思うようになり、どうにかして家を再興しようとあれこれ計画を立てていた。
その頃、雀部の曽次という人が、足利染めの絹の商売のために、毎年京から下っていた。雀部はこの郷に親戚がおり、しばしば郷を訪ねていたこともあって、勝四郎とはかねてより親しかった。そのため、勝四郎は雀部に
「商人になって京へ上りたい。」
と頼むと、雀部は簡単に受け入れてくれて、
「いつ頃郷に来たらいいか?」
と尋ねてきた。頼もしい姿に喜びを感じ、残る田を全て売り払って金に代え、絹素をたくさん買っては積んで、上洛する日に向けて準備した。
勝四郎の妻の宮木という女は、人目を止めるほど美しい容姿で、気立ても素晴らしい人であった。この度、勝四郎が商物を買って上洛するというのを気がかりに思って、言葉を尽くして諫めたのだが、やる気を出したらまっしぐらな性格の勝四郎にはどうしようもなく、『梓弓、末のたづきの(※1)』」という和歌があるように、行く末は分からないが、旦那を信じて宮木は一生懸命に支度して、その夜は惜別の思いを語り合った。
※1
『万葉集』第12巻
梓弓 末のたづきは 知らねども
心は君に 寄りにしものを
梓弓の先(これから先)の行く末は分かりませんが、
私の心はすでにあなたに寄ってしまったのですよ。
こうして、頼る人もいなくなった女の心は野を彷徨い山を彷徨うばかりなものとなり、物憂いの限りを尽くすこととなるのである。
「朝夕私のことをお忘れにならないで、早くお帰りになってください。命さえあればと思いますが、明日も頼みにできない(明日死ぬかも分からない)のが世の習いです。勇ましく挑むお心だけでなく、私をも哀れんでください。」
「どうして、浮木に乗りながらも(ただでさえ先の見えない不安定な挑戦をするのに)知らない国に長居しようか。葛の裏葉が返る(秋風にめくれる。返ると帰るでかけている)この秋には帰ってくるよ。心を強く持って待っていなさい。」
そう慰めているうちに、夜も明けてきたので、鶏の鳴く東(鶏など、日に向かって鳴くと京の都の方角をかけている)へ向かって上洛を急いだのであった。
この享徳年の夏、鎌倉御所の足利成氏朝臣と関東管領の上杉憲忠とが決裂して乱が勃発、御所は戦火に巻き込まれて跡形もなく消え、御所殿(成氏)は下総にいる味方、古河公方のもとへと落ち延びた。関東はたちまち混乱し、人の心も世の中のように乱れた。老人は山に逃げ隠れ、若者は合戦に召集され、女子供は
「今日はここを焼き払う。明日は敵が寄せ来るぞ。」
と家を追われてあちこち逃げ惑い泣き悲しんだ。勝四郎の妻もどこかへ逃げようと思いはしたが、
「この秋を待っていてくれ」
との夫の言葉を信じて、安心できない日々を送っていた。
享徳3年(1454)に起きた享徳の乱のことを指します。足利成氏が上杉憲忠を謀殺したことにより対立が激化、乱が勃発しました。翌年の享徳4年(1455)、鎌倉を追われた成氏は下総国古河城へと逃れ、古河公方の助けを求めました。
秋になっても風の便りは無く、今の心は、世の中と一緒に頼りにならなくなったと恨みそして悲しみ思い崩れた。
身の憂さは 人しも告じ あふ坂の
夕つげ鳥よ 秋も暮れぬと
我が身の辛さは誰にも話さないから、逢坂の夕告鳥よ、
せめてあの人にと告げておくれよ。
「秋も暮れた、いつまで待てばよいか」と。
そう詠んでみたが、多くの国を隔てているので伝える術も無かった。世の中が騒がしくなるにつれて人の心も荒んでいった。適間(たまたま)訪れた人は、宮木の容姿に見惚れて色々誘惑してきたが、宮木は三貞の操を守るべく軽くあしらった。その後は戸を閉ざして顔を出さなくなった。たった一人いた下女も宮木のもとを去り、僅かにあった貯蓄も空しくなった状態で年の暮を迎えた。
年が改まっても混乱はなおも収まらなかった。そのうえ前年の秋、京家(足利義政)の下知を発した。美濃国郡上を治める下野守の東常縁に、下野にある本家千葉氏の内紛を鎮圧するよう命じたのである。東常縁は錦の御旗を掲げて下野の領地へ下向し、嫡流の千葉実胤と協力して御所殿(成氏)を攻めたが、御所陣営も守りを固め必死に防戦を続けた。いつ力果てるとも知れない戦いであった。野武士らがあちらこちらに拠点を構え、火を放って財宝を奪っていった。関東八州(相模国・武蔵国・上野国・下野国・常陸国・上総国・下総国・安房国)どこにも安心できる場所は無く、浅ましい世に人々は心身ともに浪費することになったのである。
さて、勝四郎は雀部に従って京に行き、絹など全ての商材を残すことなく売り切った。当時の都は美しいものを好む節があったのが儲けに繋がった。東へ帰る用意をしていたが、今度は関東管領上杉家の軍勢が鎌倉の御所を攻め落とす(享徳4年(1455))といった追い討ちが発生した。勝四郎の故郷の辺りは戦場まみれとなり、中原逐鹿(ちゅうげんちくろく。群雄割拠して覇権を巡って争うこと)と化したと耳にした。
目の当たりにしたことでさえ偽り多い世の噂なのに、まして白雲を八重に重ねたほど隔てた国の噂なのである。気が気でなくなった勝四郎は、8月初めに京を経ち、木曽の真坂(詳細不明)を一日で越えたが、落草(山賊のこと)どもが行く手を塞ぎ、行季(こうり。荷物のこと)を残らず奪われたうえに、人が語ることを聞けば、
「ここから東の方は所々に新たな関所が作られている。旅人の往来でさえ許されないとのことだ。」
とのことであった。
「これでは消息を知らせる術もない。家も戦火にまみれて消失しただろう。妻ももう世にいないかもしれない。となれば、故郷も鬼の棲む所となっているだろうよ。」
と思って、ここからまた京に引き返したが、近江国に入ってにわかに具合が悪くなり、高熱の病気に罹った。武佐というところに児玉嘉兵衛という裕福な者がいた。
ここは雀部の妻の実家であったので、申し訳なく思いながらも助けを求めると、この人は勝四郎を見捨てず介抱してくれ、薬のことは迎えた医者に任せた。やがて具合が良くなったので、厚きご恩に感謝した。しかし、歩くことはままならなかったので、今年は思いがけずここで新年を迎えることとなった。いつしかこの郷で友ができ、人と揉めない素直な為人を褒められて、児玉をはじめとして誰とも頼れる仲となった。その後、京に出てきては雀部を訪れ、また近江に帰って児玉に身を寄せ・・・といったことを繰り返し、夢のような七年間を過ごした。
鎌倉が消失したことにより成氏は鎌倉に帰ることができなくなり、拠点を下野の古河に移しました。これにより成氏は古河公方と呼ばれるようになります。
寛正二年(1461)、畿内の河内国では、畠山持国の嫡子である義就と甥の政長による家督の争いが終わることなく続いていた。京周辺も騒がしく、春頃から疫病が盛んに蔓延して屍はちまたに重なっていた。人の心は今や永遠に死んでしまうのではないかと思われるほどで、世の中の限りない儚無さを悲しんだ。勝四郎は熟慮し、
「このように落ちぶれて成すべきこともない身であるのに、何を頼りにしてこのような遠い国に逗留しているのだろうか。縁もない人たちの恩恵を受ける生活などいつまでも続けられようか。故郷に捨て置いた人の消息さえも知らないで、萱草(別名、勿忘草)の生い茂る野に長々と年月を過ごしたのは、信義ない我が心からのせいだ。たとえこの世におらず黄泉の人となっていたとしても、彼女の跡を探しに行こう。塚でも築くことができれば。」
と心に決めた。志を人々に告げて、五月雨の止んだ隙に別れ、10日あまりで故郷に帰り着いた。
この時、日は西に沈んでおり、雨雲が落ちかけたように暗かったが、長く住み慣れた里だから
「迷うこともないだろう」
と思い、夏の野をかき分けて歩みを進めた。しかし、昔あった継ぎ橋も川の瀬に落ち、全く馬の足音もしなかった。田畑は荒れて荒んでおり、元々あったはずの道も分からず、あったはずの家もない。所々に残った家には人が住んでいるようであったが、昔とは似ても似つかない故郷の風景であった。どれがが自分の家だ、と戸惑っていると、そこから二十歩ほど離れたところに、雷に打たれて折れた松が聳え立っているのを見つけた。雲間に差し込んだ星の光で見えたこれは、まさしく自分の家の目印だ、と気づき、嬉しい気持ちで歩いていくと、昔と変わらずにいた。
人が住んでいるようで、古い戸の隙間から灯火の影がきらきらと漏れていた。
「他人が住んでいるのだろうか、もしやあの人がいるのか。」
と心が騒いだ。門に立って咳をすると、中の人もすぐに聞き取ったようで、
「誰ですか。」
と訝しい様子で聞く。ひどく老けていたが、まさしく妻の声のようで、
「これは夢か。」
と胸騒ぎをしつつ、
「帰ってきたぞ。私だ、勝四郎だ。変わらずひとり浅茅が原に住んでいたとは驚いたよ。」
と言うと、聞いたことのある声だと思った様子で、やがて戸を開けてみると、たいそうひどく黒ずんだ垢が付き、目は垂れて結っている髪も背にかかるほど伸ばし放題で、あの妻と思われない女が夫を見ては何も言わないで潜然と(しみじみと)泣いた。
勝四郎も呆然としてしばらく何も言えなかったが、少ししてから口を開いた。













