結論
室町~戦国時代の日本では、国産貨幣がほとんど存在しなかったため
→ 最も信頼できる貨幣が永楽通宝だった
中世は国産貨幣がない時代
奈良時代の「和同開珎」など、皇朝十二銭と呼ばれる貨幣群が国家指導のもと発行されましたが、実は、平安時代には国家による貨幣鋳造がほぼ停止していたため、市場では中国から輸入された渡来銭が使われるようになりました。
まともな国産貨幣は、江戸時代に入ってからです。1608年に永楽通宝の流通を禁止し、その後1636年から寛永通宝を発行して全国統一の銭貨としました。
つまり、最後の皇朝十二銭の乾元大宝が958年発行なので、700年近く国産貨幣が無かったのです。
なぜ朝廷は鋳造をやめたのか?
平安時代に朝廷が貨幣鋳造を停止した理由は複数あります。
① 銅不足と鋳造コストの増大
貨幣を作るには大量の銅が必要でしたが、当時の日本では銅の産出量が限られており、採掘したとしても、その採掘コストに加え、運搬にも大きな費用がかかりました。
山口県の長登銅山がその例です。奈良の大仏や貨幣鋳造に使われていたことが分かっています。畿内から遠く離れた長門国から採掘、運搬していました。
それに加えて、朝廷の財政は寺院建設や貴族政治の維持などで苦しくなっており、貨幣を継続的に発行する余裕がありませんでした。
これは、律令制崩壊期の三善清行『意見封事十二箇条』の序文でも指摘されています。
② 貨幣への信用低下
皇朝十二銭は新しい貨幣が出る度に、銅の含有量が減り、かつ小型化していきました。
品質の低い貨幣の鋳造は、人々の信用を失います。結果、
- 良質な銭は貯め込まれる
- 悪質な銭だけが流通する
という現象が起こり、貨幣制度そのものが機能しにくくなっていきました。
③ 税制とのミスマッチ
律令国家は皆さんご存じの通り、唐の制度を参考にして作られました。貨幣経済化もそのひとつです。
しかし、日本では百姓の税の中心は租庸調、つまり
- 米
- 布
- 特産物
といった現物納付でした。
日本社会のシステム上、貨幣経済で無くても成り立っていたため、貨幣の必要性が高くなかったのです。
④ 荘園を基盤とした社会システム
律令制の崩壊が始まった平安時代中期になると荘園が増加し、米を基準とした経済活動が中心になりました。時代によって制度は変わりますが、負名による経済活動は戦国時代まで続きます。
このように、朝廷はそもそも貨幣を発行する必要が無かったのです。
商業の発達と貨幣の社会
鎌倉時代から室町時代にかけて農業技術が発達し、生産力が向上すると、各地で定期市が開かれるなど、市場での取引が活発になり始めました。商業の発達です。
商人の活動も盛んになると、物々交換だけでは不便になり、共通の価値を持つ貨幣が強く求められるようになりました。しかし、これまで述べてきたように、日本には精度の高い国産貨幣が存在しなかったため、商人は、中国から流入した銅銭を利用するようになったのです。
その結果、宋銭や永楽通宝、寛永通宝などの渡来銭が大量に使われるようになりました。
当時の中国では、宋・元・明などの王朝が大量の銅銭を鋳造しており、これらの銭は、遣宋使や日宋貿易、勘合貿易などを通じて日本へ運ばれました。
特に宋銭は、重量や形状の統一性が高く、品質が保証されていたため、商人から高い信頼を得ました。そして、次第に年貢の納入や土地売買にも使用されるようになり、貨幣経済が日本各地に広まっていったのです。
一度流通してしまえば、その流れを変えたり止めたりするのはリスクが伴います。既に多くの人々が渡来銭を使用しており、「誰でも授受ができる貨幣」として信用が高まり、更なる利用領域の拡大に繋がるという好循環が生まれました。
言い換えれば、貨幣経済が浸透した中世であっても、渡来銭の信用が高かったため、朝廷は、無理して国産貨幣を鋳造する必要が無かったのです。
そして本題の室町、戦国時代の期間では、明の永楽通宝が特に重視され、全国的に流通しました。
永楽通宝の輸入
とにかく大量に入ってきました。室町幕府は明と勘合貿易(日明貿易)を行い、その際に大量の銅銭が輸入された。
当時流通していた銭には粗悪な私鋳銭(鐚銭・びたせん)が少なくなく、それに対して永楽通宝は精銭(せいせん)として扱われました。
全国的な基準通貨になるまで普及した永楽通宝は、東日本では土地の収益まで永楽銭換算で表す「永高制」が広まるほどでした。
織田信長と永楽通宝
そんな渡来銭、永楽通宝は、織田信長とも深い関わりを持っています。
信長と永楽通宝の関係で最も有名なのは、信長が自らの軍旗や馬印に「永楽通宝」の文字を描いたことでしょう。
戦国武将の旗印には家紋や神仏に由来する図柄が使われることが多かったのですが、信長はあえて貨幣をデザインとして採用しました。
そのため、後世では「信長は金銭を重視した合理主義者だったからだ」と説明されることもありますが、実際は、それほど単純ではありません。
理由①:織田家の信用を高めるため
戦国時代の永楽通宝は、先ほども述べたように、精銭として、日本人の社会的信用を勝ち取り、日本全国で通用する最も信頼性の高い貨幣となりました。貨幣という機能を除外し、モノとして考えると、永楽通宝は、「人々が共通して信用する価値あるモノ」の象徴といえるのはお分かりでしょうか。
このことから、信長が永楽通宝を旗印に用いたのは、織田家という存在が、「天下に通用する権威」や「普遍的な価値」であることを示そうとしたからだと考えられています。
理由②:百姓の支持を得るため
また、信長は経済政策を重視した武将でもあったことは有名です。永楽通宝を旗印にしたことは、こうした商業重視の姿勢とも無関係ではないでしょう。
戦国時代の百姓にとっては、武力よりも経済力の方が生活に直結していました。永楽通宝を旗印に掲げた信長は、経済の活性化を重要視する大名だという認識を人々に与え、その心を掴んでいったのです。
事実、信長は、楽市楽座を推進し、関所の撤廃を進め、商業活動を活発化させました。領国内の流通を促進し、その経済力を武器に、軍事力や政治力へと結び付けていき、天下に近づいていきました。
信長の功績は、貨幣経済はそのまま権力に直結することを示した成功例でもあったといえますね。商業都市、堺を真っ先に抑えたのは、理に適っています。
理由③:永楽通宝が縁起物であったため
永楽通宝には縁起物としての意味もありました。読んで字のごとく、「永く楽しむ」「永遠の繁栄」といった吉祥的な解釈が可能です。
永遠の武運や、天下統一への願いを込めたとも考えられます。実際、戦国武将たちは神仏や吉兆を重視していました。
- 上杉謙信:毘沙門天
- 毛利元就:厳島大明神
- 織田信長:熱田神宮
永楽通宝の旗印は、信長が1560年の桶狭間の戦い頃には既に使用していたとされています。少数の兵で大軍の今川軍を破った下剋上を象徴するこの戦の影響は大きく、以後、織田軍の象徴として知られるようになりました。
信長にとって永楽通宝は単なる貨幣ではなく、「天下に通用する信用」「経済力」「繁栄への願い」を表す象徴であり、その旗印には信長の政治的・経済的な思想が込められていたと考えられている。
まとめ
これまでの話をまとめましょう。
朝廷が国産貨幣を鋳造しなかった理由
- 銅不足による生産コストの増大
- 品質低下による不信感
- 税制とのミスマッチ
- 荘園を基盤とした社会システム
永楽通宝が戦国時代に流通した理由
- そもそも600年以上、国産貨幣が存在しなかったから
- 勘合貿易で大量に輸入され、精銭として人々の信用を勝ち取ったから
信長が永楽通宝を旗印に使用した理由
- 織田家の信用を高めるため
- 百姓の支持を得るため
- 永楽通宝が縁起物であったため
永楽通宝が流通した理由を紐解いていくと、国産貨幣の歴史や信長が旗印に用いた理由も合理的に説明できたのではないでしょうか。
平安時代に流通した宋銭は、永楽通宝とまた異なる理由がありそうですね。
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