史料

上宮聖徳法王帝説<家系図付き全現代語訳>聖徳太子の生涯と功績を学ぶ

上宮聖徳法王帝説の現代語訳です。
作品を知ろう!!!

作者不詳 飛鳥(成立は平安時代?

役聖徳太子の生涯が記された伝記。聖徳太子に関係する出来事や文化を一度に学ぶことができる。

解説

聖徳太子の生涯を、残された銘文などからまとめた伝記となっています。作者も、成立時代も分かっていませんが、弘仁・貞観文化期に成立したのではないかと言われています。

単なる読み物としてだけでなく、各銘文や『日本書紀』との整合性を立証する役割を果たしています。『日本書紀』はともかく、実はそれ以外にも聖徳太子に関する記録が残されているのはご存じでしょうか。それが本書に登場する

  • 法隆寺金堂薬師如来像光背銘
  • 法隆寺金堂釈迦像後光銘
  • 天寿国繡帳

の三つです。

本書は伝記と言いつつも、これらに関する(現代語?)訳と、簡単な考証を行っているため、当時から飛鳥時代の研究がなされていたと言えるでしょう。

祖父母世代から孫世代までの家系や、聖徳太子が関係する文化財の誕生なども詳述されているため、単に飛鳥時代の勉強にも使えます。

家系図

『上宮聖徳法王帝説』全体を通しての家系図になります。

当時は、同等の血、つまり神である天皇の血で血統を完結させることが正当であると考えられていました。天皇家以外の血を入れないわけですから、近〇相〇が当時の常識として行われています。

そのため、現代の感覚で家系図を見ると、かなりカオスなことになってます(笑)

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『上宮聖徳法王帝説』の家系図です。

※別名(和風諡号)等は記載していません。

以下、現代語訳です。名前が多い上に分かり辛いので、世代の色分けと対応するようにしました。

現代語訳

聖徳太子世代の家系図

伊波礼池邊雙槻宮治天下橘豊日天皇(=用明天皇)は、腹違いの妹である穴穂部間人王を妻とし、子を産んだ。皇后の聖徳太子である。

その後順に久米王殖栗王茨田王を産んだ。

また、用明天皇蘇我伊奈米宿祢大臣の娘である伊志支那郎女を妻とし、子を産んだ。名を多米王という。

また、用明天皇は葛木當麻倉首という役職の比里古という者の娘、伊比古郎女を妻とし、子を産んだ。名を乎麻呂古王という。次に産んだのは須加弖古女王である(この娘は後に天照大御神が祀られている伊勢の巫女となる。三神?)。

聖王(=聖徳太子)の兄弟は七人いる。聖徳太子膳部加多夫古臣の娘である菩岐々美郎女を妻とし、子を産んだ。名を舂米女王という。

その後順に長谷王久波太女王波止利女王三枝王伊止志古王麻呂古王馬屋古女王を産んだ。(合計八人である。)

また、聖王は、蘇我馬古叔尼大臣の娘である刀自古郎女を妻とし、子を産んだ。名を山代大兄王という(この子は賢く、尊い心を持っている。其身を投げ捨てて人民に恩恵を与える。後世の人は、父である聖王と戦わず、自害したのである。と語る。)。

第二子以降は順に財王日置王片岡女王を産んだ(合計4人である)。

また、聖王尾治王の娘である位奈部橘王を妻として白髪部王を産んだ。次に手嶋女王を産んだ。しかしながら、白髪部王は第一子であるとはいえ、第十四皇子に位置する。

山代大兄王は腹違いの妹である舂米王を妻として、難波麻呂古王を産んだ。その後は順に麻呂古王、弓削王、佐々女王、三嶋女王、甲可王、尾治王である。

聖王の腹違いの兄である多米王は、父である池邊天皇=橘豊日天皇=用明天皇が崩御された後に、聖王の母である穴穂部間人王を妻とした。産まれた子は佐富女王という。

親世代の家系図

斯貴嶋宮治天下阿米久尓於志波留支廣庭天皇=欽明天皇聖王の祖父である。その欽明天皇は檜前天皇=宣化天皇の娘である伊斯比女命を妻として子を産んだ。他田宮天下天皇怒那久良布刀多麻斯支天皇=敏達天皇である。聖王の叔父にあたる。

また、欽明天皇は蘇我稲目の娘である支多斯比賣命を妻として子を産んだ。伊波礼池邊雙槻宮治天下橘豊日天皇=用明天皇である。聖王の父である。その妹として、小治田宮治天下止余美氣加志支夜比賣天皇=推古天皇を産んだ。聖王の叔母である。

また、欽明天皇支多斯比賣命と同腹の妹である乎阿尼命を妻として、倉橋宮治天下長谷部天皇=崇峻天皇を産んだ。聖王の叔父である。姉は穴太部間人王である。聖王の母である。

挙げた五人の天皇は家系に無関係な者の血を交えることなく天下を治めた。

(ただし、倉橋宮治天下長谷部天皇=崇峻天皇は四番目にあたり、小治田宮治天下止余美氣加志支夜比賣天皇=推古天皇は五番目にあたる。)

少治田宮御宇天皇=推古天皇の御代では、上宮厩戸豊聰耳命=聖徳太子と嶋大臣=蘇我馬子が共に推古天皇の政治を補佐し、仏法僧の三宝を興し、盛んにした。

とらちゃ
とらちゃ

594年の三宝興隆の詔のことです。後半に、これについての記述があります。[JUMP]

元興寺(=飛鳥寺)と四天王寺に等しいほどの崇高な寺を建立したのである。また、冠位十二階を制定した。上から大小の、徳・仁・礼・信・義・智。合計十二位である。

聖徳太子の活躍と『三経義疏』

池邊天皇=用明天皇の姉妹である穴太部間人王が厩戸にいた時に、すぐに上宮王=聖徳太子を出産した。この子は幼くして聡い子で、知恵があり、成人した際には、一度に、8人が申し上げることを聞いてその内容を理解したことがあった。また、一を聞いて八を理解する知恵もあった。彼を厩戸豊聰八耳命という。池邊天皇はこの太子聖徳王を非常に愛し、宮の南上の大殿に住まわせたのだった。これが、上宮王の由来である。

上宮王は高麗出身の慧慈法師を師として仰ぎ、非常に深く涅槃常住、五種佛性の真理を悟った。法花三車、權實二智の道に明るく通じ、『維摩経』の教義を悟り、かつ、経量部と薩婆多と呼ばれる説一切有部の二宗を講じた。また、『周易(真玄)』、『老子(虚玄)』、『荘子(談玄)』の三玄と『易経』、『尚書』、『詩経』、『礼記』、『春秋』の五経の示す趣旨を知り、並びに、天文・地理の道を興した。そこで、『法華経』のような上表文七巻(『法華義疏』4巻、『勝鬘経義疏』1巻、『維摩経義疏』)を作り、これを『上宮御製疏(=『三経義疏』)』と名付けた。

太子の問答に、宗門の道に進む者で通らぬ者はいない。太子は夜に夢で中国の人形偶像である金ノ人が来て、未だ悟っていない教義を教えたのだった。太子は夢から覚めてそれらを悟った。このことを師に伝えると師もまた、同じ夢を見、悟ったと言う。このような体験は一度や二度ではなかった。太子は七つの寺を建てた。四天王寺、法隆寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺(蜂丘寺と併せて宮を<川勝秦公=秦川勝>に差し上げた。)、池後寺、葛木寺(葛木寺は<葛木臣>に差し上げた。)の七つである。

推古天皇即位六年となる598年4月15日、少治田天皇=推古天皇上宮王に頼み、『勝鬘経』を購読させた。その姿は僧のごとく感じられた。諸々の王、女王、臣、連、その他一般の民はこれを信仰し、称賛しない者はいなかった。3日の内に講読による説法は終わった。少治田天皇聖王に播磨国揖保郡にある佐勢という地、五十万代分をお送りになった。聖王この地を法隆寺建立の地に用いたのである。今、播磨にある田は三百数町と言われている。慧慈法師は『上宮御製疏』を抱いて本国に帰り、これを流布した。聖王は622年2月22日、夜中に亡くなったと聞く。慧慈法師はこのことを聞いて聖王に捧げるために経を購読し、願を発して言った。

「向こうで上宮聖王に会い、必ず教化しようと思う。私は、来年の2月22日に死に、必ず聖王に会って、浄土に向かおう。」

そして翌年の2月22日、言ったとおりに病を発して亡くなったのだった。

法隆寺金堂薬師如来像光背銘の現代語訳

時は少し遡って、池邊大宮御宇天皇=用明天皇が身体をお崩しになった時のことである。

(→ここから「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」の現代語訳)

用明天皇が即位した年である585年、大王天皇=用明天皇太子=聖徳太子を召喚して、彼に誓願した。

「私は大病により安静にしたほうが良いと思っている。そのため、寺を造り、薬師像を作り、それに奉仕せよ。」と勅命をお出しになったのである。

しかしながらその時、池邊大宮御宇天皇=用明天皇は亡くなってしまったため、聖徳太子は造り悩んだ。そこで少治田大宮御宇大王天皇=推古天皇東宮聖王=聖徳太子が二人でこの大命を引き継ぎ、607年、ついに寺の建立と如来像の製作が完了し、これに奉仕することとなった。

(←ここまでが「法隆寺金堂薬師如来像光背銘」の現代語訳)

これは、法隆寺金堂に居座る薬師像の後光に刻まれた銘文である。つまり、寺を建立した由来が書いてあるといえる。

法隆寺金堂釈迦像後光銘の現代語訳

(→ここから「法隆寺金堂釈迦像後光銘」の現代語訳)

621年12月に<鬼前大后=穴穂部間人王>は崩御された。翌年622年1月22日、上宮法王=聖徳太子は病が悪化し、なかなか病は癒えなかった。干食王后=膳部菩岐々美郎女も多忙により病床に臥してしまった。この時、聖徳太子の后刀自古郎女の王子である山代大兄王らは諸々の臣たちと深く心を痛めていることを共有し、

「仏法僧の三宝を仰ぐことに準じて、原寸大の釈迦像を造りましょう。この願の恩恵を受けて、体中を巡る病を治して延命し、この世に安らかに留まっていただきたい。もしこれに予め決められた業があり、死ぬことがあるとするならば、浄土に昇って、早く神明な報いを果たしていただきたい。」と共に願を興した。

2月21日、王后=膳部菩岐々美郎女は亡くなった。翌日の2月22日、法王=聖徳太子も旅立った。623年3月中に、かつて願を興したように、釈迦像ならびに脇侍(わきだち)とその他仏具とを造り、これを祀った。この少しの幸いに乗じて、道を信仰する知識と呼ばれる仏に仕える集団は現在安らかに隠居している。

生を受けて死に至るまでに、聖徳太子間人母后膳部加多夫古臣に仕え、仏法僧の三法を盛行させ、ついに彼我の境地に達した。この仏法僧を仏教世界以外の世界である六道にまでも普遍し、この世の生ある生き物が公界を解脱することを可能とし、同じく菩提の境地を目指すよう道を示した。釈迦像ならびに脇侍(わきだち)とその他仏具は司馬鞍首止利佛師に造らせた。

(←ここまでが「法隆寺金堂釈迦像後光銘」の現代語訳)

法隆寺金堂釈迦像後光銘の解釈

法興元世一年について

右に述べたことは法隆寺金堂に座している釈迦像の後光に刻まれた銘文のようである。解釈として語られるのは、

「『法興元世一年』と呼ばれる理由はよく知らないが、『帝記』をもとに考えると、少治田天皇の御代に東宮厩戸豊聰耳命大臣宗我馬子宿祢の3人は共に協力し、仏法僧の三宝を興し、初めて大きな寺を建てた。これが『法興元世』という名の要因となり、その初めの年として銘文に『法興元世一年』として表れた。」という内容である。

後世の人はこれを年号だと疑うだろう。しかし、これは年号ではない。そのため、「一年」というのが意味がよく分からないが、これの理由はその年の出来事を知ると分かる。聖王の母である穴太部王が亡くなった621年は少治田天皇=推古天皇の御代であるがために、その年を指して「一年」というのだ。おかしいと思われる趣旨はない。

鬼前大后とは聖王の母、穴太部間人王である。「鬼前」というのは、神の名前である。どのような理由で”神前”皇后と言うのか。これは、穴穂部間人王の弟である長谷部天皇=崇峻天皇が石寸神前宮で天下を治めていたからである。それでももし疑うのであれば、

『姉である穴穂部間人王も石寸神前宮におわしたために神前皇后と呼ばれるようになった』といえば良いだろう。

聖徳太子の命日について

「明年正月廿二日上宮法王枕病弗悆」の「明年」というのは、辛巳の次なので壬午の年である。2月21日癸酉の日、王后が亡くなったが、この者は聖王=聖徳太子の妻である膳大刀自=膳部菩岐々美郎女のことである。2月21日というのは、壬午の年の2月である。翌日、法王が亡くなったのだが、これはすなわち上宮聖王=聖徳太子のことである。

「即世」「登遐」と言うのは、「死ぬ」という意味の言葉である。この銘文の「明年正月廿二日上宮法王枕病弗悆」の後半部分「正月廿二日上宮法王枕病」は「622年1月22日に上宮法王=聖徳太子が病により床に臥せた。」と書いてある。同じ時に、膳大刀自=膳部菩岐々美郎女はお疲れになった。そして2月21日にこの世を去った。聖王=聖徳太子は翌日22日に亡くなった。ここで明らかになったことは、膳夫人=膳部菩岐々美郎女は先日に、聖王=聖徳太子は後日に亡くなったということである(後に出てくる『天寿国繍帳』に、「両者が同日に亡くなった」と文があることに由来する一文)。

伝承の歌には、

  • 伊我留我乃
  • 止美能井乃美豆
  • 伊加奈久尓
  • 多義弖麻之母乃
  • 止美乃井能美豆

とある。この歌の意味は、

膳夫人=膳部菩岐々美郎女が病で床に臥して今にも死のうとしていた時に、水をお求めになった。しかし聖王=聖徳太子はこれを許さず、ついに夫人=膳部菩岐々美郎女は亡くなったのである。」

である。

つまり、聖王=聖徳太子に罪を責めて送った歌、これが伝承である。ただ、銘文は夫人=膳部菩岐々美郎女が亡くなったということが書いてあるわけで、聖王=聖徳太子が亡くなった日のことが書いてあるわけではない。そうではあるがしかし、『天寿国繡帳』の銘文には、『壬午の年の2月22日甲戌の日の夜中に上宮聖王は亡くなった』と明らかに書いてあるのだ。聖徳太子の命日が相違してることに触れた。『天寿国繡帳』の銘文に進む。

『天寿国繍帳』の現代語訳

『出生入死』と書いてあるのは、もしかしたら、「生まれたところに行き還る」という意味であろう。『三主』とは、疑うとしたら、神前大后=穴穂部間人王上宮聖王=聖徳太子膳夫人=膳部菩岐々美郎女であろう。

祖父世代の家系図

(→ここから『天寿国繍帳』の現代語訳)

斯斯麻宮治天下天皇=欽明天皇は、名を阿米久尓意斯波留支比里尓波乃弥己等と言い、彼は伊奈米足尼=蘇我稲目という大臣の娘である吉多斯比弥乃弥己等=支多斯比賣命を妻とした。産んだ子は多至波奈等己比乃弥己等=用明天皇という。次に生まれた妹は、名を等已弥居加斯支移比弥乃弥己等=推古天皇と言う。また、大后=支多斯比賣命の妹である乎阿尼乃弥己等=乎阿尼命欽明天皇と契りを交わし、子として孔部間人公主を産んだ。斯歸斯麻天皇=欽明天皇の子は、名を蕤奈久羅乃布等多麻斯支乃弥己等=敏達天皇と言う。

(ここでは敏達天皇の母親について記述されていないが、[第1紙]で「欽明天皇は、宣化天皇の娘である伊斯比女命を妻とし、敏達天皇を産んだ。」とある。)

その敏達天皇は腹違いの妹である己弥居加斯支移比弥乃弥己等=推古天皇を妻とした。彼女は大后として乎沙多宮に住まい、ここで天下を治めた。彼女は尾治王という子を産んだ。また、多至波奈等己比乃弥己等=用明天皇は、腹違いの妹である孔部間人公主=穴穂部間人王を妻とした。彼女は大后として瀆邊宮に住まい、天下を治めた。そして等己刀弥々乃弥己等=聖徳太子という子を産み、聖徳太子は、尾治大王の娘である多至波奈大女郎=位奈部橘王を妻とし、后とした。

『天寿国繡帳』の作成

孔部間人母王=穴穂部間人王は621年12月21日の癸酉の日に亡くなった。翌年の622年2月22日の夜中に太子=聖徳太子は亡くなった。この時、聖徳太子の后である多至波奈大女郎=位奈部橘王は嘆き悲しみ、畏れ多くも<推古天皇>の前で申す。

「啓蒙することが恐ろしいと思いますが、夫を想う心は止みません。我が夫、大王=聖徳太子母王=穴穂部間人王が浄土での再会を約束し、旅立ってしまいました。これほど心が痛く辛いことはありません。我が大王はおっしゃいました。『世間虚假。唯佛是真。この世は仮の姿で、ただ仏だけが真実なのである。』と。この法話を賞玩するに、我が大王は天寿国(極楽浄土)でお生まれになったと思っていました。その国は目で見ることが難しい所にあるそうです。しかしたまに像を思い描くことによって大王が行き、お生まれになった世界を見ようと思います。」と。

推古天皇はこれを聞いて悲しみ、告げる。

「私の孫で、聖徳太子の后である位奈部橘王は像を啓蒙している。誠に天寿国を見たいものだと思う。」と。

そして推古天皇は諸々の采女たちに繡帷(ぬひかたびら)を二張作らせたのだった。『天寿国繡帳』である。描いたのは、東漢の<末賢>、高麗の<加西溢>である。また、漢の奴婢である<加己利>、役人の<椋部秦久麻>も描いた。

(←『天寿国繍帳』の現代語訳ここまで)

これより記すのは、法隆寺蔵繍帳二張の亀の背に書かれていた銘文の解釈である。

『天寿国繍帳』銘文の解釈

「巷奇」というのは「蘇我」である。

「弥」の字は「賣」の音であろう。

「已」の字は「余」の音であろう。

「至」の字は「知」の音であろう。

「白畏天之」の「天」は<小治田天皇=推古天皇>のことである。

「太子崩」というのは、「太子」は<聖王=聖徳太子>のことである。

「従遊」というのは、「死ぬ」ということである。

「天壽國」というのは「天」という字が入っている通りである。

「天皇聞之」というのは、これも<小治田天皇=推古天皇>のことである。

「令」というのは、「監」のことである。

以下に、上宮=聖徳太子の薨去に際して、<臣勢三杖大夫>が歌った歌が続く。

とらちゃ
とらちゃ

上に出てきた、伝承の歌のことです。

『日本書紀』の記録

丁未の乱

話は変わって586年6、7月のこと。蘇我馬子宿祢大臣は<物部室屋大連>を討った。時に、蘇我馬子宿祢大臣の兵士は勝たずに撤退した。聖徳太子が四天王像を兵士の前に立てて誓って言った。

「もし、<大連=物部室屋大連>を滅ぼすことができたら、四天王のために寺を建立し、尊重供養をして奉仕しよう。」

そして兵士は勝利を収めた。<大連=物部室屋大連>を殺して戦いが終わったのである。このことによって難波に四天王寺を建立した。この時、聖王=聖徳太子は14歳であった。

志癸嶋天皇=欽明天皇の御代、538年10月12日に百済国の<明王=聖明王>が仏像ならびに経典ならびに僧らを献上した。仏教の伝来である。欽明天皇は勅命を出し、蘇我稲目宿祢大臣にこれを授けて仏教を興し、隆盛させた。571年には、欽明天皇の崩御に際して、仏殿、仏像を焼き払い、難波の堀江に流した。

また、少治田天皇=推古天皇の御代、594年に聖徳王=聖徳太子と<嶋大臣=蘇我馬子>は三宝興隆の詔を作った。これにより更に仏法僧の三宝が盛行した。

また、603年に『冠位十二階』を、604年に『憲法十七条』を作った。

憲法十七条の現代語訳です。古文特有の言い回しを避け、分かりやすく表現しました。
十七条憲法<原文あり全現代語訳>目的は何だったのか?分かりやすく解説! 塙保己一 編『群書類従』第十七輯,経済雑誌社,明治35. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl....

乙巳の変

<飛鳥天皇=皇極天皇>の御代、643年10月15日、<蘇我豊浦毛人大臣=蘇我蝦夷>の子である<入鹿臣林太郎=蘇我入鹿>が、斑鳩宮(いかるがのみや)におわした<山代大兄=山背大兄王>とその兄弟たち合わせて十五王子らを残らず滅ぼした。この事件により聖徳太子の血統である上宮王家は滅亡したのである。

また、645年6月11日、当時21歳であった<近江天皇=天智天皇>は<林太郎=蘇我入鹿>を殺害した。翌日には、<蘇我入鹿>の父である<豊浦大臣=蘇我蝦夷>とその子孫らを皆滅ぼした。

山陵について

志歸嶋天皇=欽明天皇は天下を治めること41年。571年4月崩御。陵墓は檜前坂合岡にある。

他田天皇=敏達天皇は天下を治めること14年。585年8月崩御。陵墓は川内志奈我にある。

池邊天皇=用明天皇は天下を治めること3年。587年4月崩御。ある者が言うには、陵墓は川内志奈我の中尾稜にあるという。

倉橋天皇=崇峻天皇は天下を治めること4年。592年11月に崩御。真実は、<嶋大臣=蘇我馬子>に暗殺されたのである。陵墓は倉橋岡にある。

小治田天皇=推古天皇は天下を治めること36年。628年3月崩御。陵墓は大野岡にある。ある者が言うには、川内志奈我の山田の寸(むら)にあるという。

上宮聖徳法王=法主王=聖徳太子は574年生誕。622年2月22日逝去。享年39。小治田宮にいた頃に東宮となった。陵墓は川内志奈我の岡にある。

 

(『上宮聖徳法王帝説』終)

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