解説
『今昔物語集』とは
平安時代末期に成立した日本最大級の説話集で、全31巻構成です。作者は不明です。「今は昔~」で始まる短い説話が多く収められた集大成で、その内容は、仏教説話・世俗説話・怪談・異国の物語など、幅広いものとなっています。
受領とは
受領(ずりょう)とは、地方行政を担った国司の中でも、実際に現地へ赴任して治国を行った国司のことです。
平安時代の国司は四等官といって、4つのランクで構成されていました。
- 守(かみ)
- 介(すけ)
- 掾(じょう)
- 目(さかん)
これらの中で、現地(受領国)に実際に赴任すれば、「受領」と呼ばれます。役職にちなんで、「受領国司」なんて呼ばれ方もします。
受領は、公的収入と私的利益を回収しやすい職であったため、当時の貴族の中でも受領は重要な職でした。
歴史全体的な目線で見ると、地方支配を実質的に担う強力な行政官として中央集権国家から独立しようとする時代の転換点とも表現できます。
受領の何が問題か
受領は、公的収入としての税を一定量納めさえすれば、余分な収入は自由に使える権利を有していました。そのため、度を超えた使役や苛政によって私腹を肥やした貴族が後を絶たなかったのです。
地方官としての「公」と貴族としての「私」のどちらも兼任することとなっていたため、公務と私益の区別が曖昧化し、いわゆる官有物の私物化が横行しました。特に、地方は京から遠く、中央からの監視の目が届きにくいという仕様に加え、基準量の税は中央に納めるため、受領の不正が気づかれにくかったという側面が強いです。
まあ、時代が平安時代末期になると、ついにはその納税すら怠り、地方豪族らと手を組んで不正蓄財を支配者層で循環させるようになりますが。
こうして富と権力を有した受領は、その後、荘園領主へと発達、武士などの土着勢力が発生する元凶となっていったのです。
「受領は倒るる所に土を掴め」
受領の悪いイメージの代表例がこのフレーズでしょう。
「どこで倒れた(赴任した)としても、その土地の土(利益になるもの)は掴み取れ。」
とか、
「どのような状況でも、利益になるものは掴み取れ。」
とかという意味で、『今昔物語集』に収録された「信濃守藤原陳忠落入御坂語」という話に出てくる一文です。
説話集に扱われるほど、受領のイメージが悪いことが分かります。
仏教説話集なので作者は僧侶と思われますが、そのような宗教者ですら受領を皮肉にするほど、彼らの行いは酷いものだったのでしょう。
では、どれほど受領が金稼ぎに貪欲か、実際に読んでみましょう。
現代語訳
原文引用はこちら!
信濃守藤原陳忠落入御坂語
今昔、信濃ノ守藤原ノ陳忠ト云フ人有ケリ。任国ニ下テ国ヲ治テ任畢ニケレバ上ケルニ、御坂ヲ越ル間ニ、多ノ馬共ニ荷ヲ懸ケ人ノ乗タル馬員不知ズ次キテ行ケル程ニ、多ノ人ノ乗タル中ニ守ノ乗タリケル馬シモ、懸橋ノ鉉(ハタ)ノ木ヲ後足ヲ以テ踏折テ、守逆様ニ馬ニ乗乍ラ落入ヌ。
底何ラ許トモ不知ヌ深(フカサ)ナレバ、守生テ可有クモ无シ。廿尋ノ檜椙ノ木ノ下ヨリ生出タル木末遥ナル底ニ被見遣ルレバ、下ノ遠サハ自然ラ被知ヌ。其レニ守此ク落入ヌレバ、身聊モ全クテ可有キ者トモ思エズ。
然レバ多ノ郎等共ハ皆馬ヨリ下テ、懸橋ノ鉉ニ居並テ底ヲ見下セドモ、可為キ方无ケレバ更ニ甲斐无シ。
「可下キ所ノ有ラバコソハ、下テ守ノ御有様ヲモ見進(タテマツ)ラメ。今一日ナド行テコソハ、浅キ方ヨリモ廻リモ尋ネメ。只今ハ、底ヘ可下キ様モ敢テ无ケレバ、何ガセムト為ル」
ナド、口々ニヰリメク程ニ、遥ノ底ニ叫ブ音髴(ホノカ)ニ聞ユ。
「守ノ殿ハ御マシケリナ」ト云テ侍叫ビ為ルニ、守ノ叫テ物云フ音遥ニ遠ク聞ユレバ、「其ノ物ハ宣フナルハ。穴鎌、何事ヲ宣フゾ、聞々(キケキ)ケト」
云ヘバ、
「旅籠ニ縄ヲ長ク付テ下セト宣フ」
ナド、然レバ守ハ生テ物ニ留リテ御スル也ケリト知テ、旅籠ニ多ノ人ノ差縄共ヲ取リ集メテ結継テ、ソレゝゝト下シツ。
縄ノ尻モ无ク下シタル程ニ、縄留リテ不引ネバ、今ハ下着ニタルナメリト思テ有ルニ、底ニ、
「今ハ引上ゲヨ」
ト云フ音聞ユレバ、
「其ハ引ケト有ナルハ」
ト云テ絡上(クリアグ)ルニ、極ク軽クテ上レバ、
「此ノ旅籠コソ軽ケレ。守ノ殿ノ乗リ給ヘラバ、重クコソ可有ケレバ」
ト云ヘバ、亦或ル者ハ、
「木ノ枝ナドヲ取リスガリ給ヒタレバ、軽キニコソ有メレ」
ナド云テ集テ引ク程ニ、旅籠ヲ引上タルヲ見レバ、平茸ノ限リ一旅籠入タリ。然レバ心モ不得デ互ニ顔共ヲ護テ、
「此ハ何ニ」
ト云フ程ニ、亦聞ケバ、底ニ音有テ、
「然テ亦下セ」
ト叫ブナリ。
此レヲ聞テ、
「然ハ亦下セ」
ト云テ旅籠ヲ下シツ。亦
「引ケ」
ト云フ音有レバ、音ニ随テ引クニ、此ノ度ハ極ク重シ。数ノ人懸リテ絡上タルヲ見レバ、守旅籠ニ乗テ被絡上タリ。守片手ニハ縄ヲ捕ヘ給ヘリ。今片手ニハ平茸ヲ三総許持テ上リ給ヘリ。
引上ツレバ懸橋ノ上ニ居ヘテ、郎等共喜合テ、
「抑モ此ハ何ゾノ平茸ニカ候ゾ」
ト問ヘバ、守ノ答フル様、
「落入ツル時ニ馬ハ疾ク底ニ落入ツルニ、我レハ送レテフタメキ落行ツル程ニ、木ノ枝ノ滋ク指合タル上ニ不意(スズロ)ニ落懸リツレバ、其ノ木ノ枝ヲ捕ヘテ下ツルニ、下ニ大キナル木ノ枝ノ障(サハリ)ツレバ、其レヲ踏ヘテ大キナル胯ノ枝ニ取付テ、其レヲ抱カヘテ留リタリツルニ、其ノ木ニ平茸ノ多ク生タリツレバ、難見棄クテ先ヅ手ノ及ビツル限リ取テ、旅籠ニ入レテ上ツル也。未ダ残リヤ有ツラム。云ハム方无ク多カリツル物カナ。極キ損ヲ取ツル物カナ。極キ損ヲ取ツル心地コソスレ」
ト云ヘバ、郎等共、
「現ニ御損ニ候」
ナド云テ、其ノ時ニゾ集テ散(サ)ト咲ヒニケリ。
守、
「僻事ナ不云ソ、汝等ヨ、宝ノ山ニ入テ手ヲ空クシテ返タラム心地ゾスル。受領ハ倒ル所ニ土ヲ爴(ツカ)メトコソ云ヘ」
ト云ヘバ、長立タル御目代、心ノ内ニハ極ク●シト思ヘドモ、
「現ニ然カ候フ事也。手便ニ候ハム物ヲバ、何カ取セ不給ハザラム。誰ニ候フトモ不取デ可候キニ非ズ。本ヨリ御心賢ク御マス人ハ、此ル可死キ極ニモ御心ヲ不騒サズシテ、万ノ事ヲ皆只ナル時ノ如ク用ヒ仕ハセ給フ事ニ候ヘバ、不騒此ク取ラセ給ヒタル也。然レバ国ノ政ヲモ息コヘ物ヲモ吉ク納メサセ給テ、御思ノ如クニ上ラセ給ヘバ、国ノ人ハ父母ノ様ニ恋惜ミ奉ツル也。然レバ末々モ万歳千秋御マスベキ也」
ナド云テゾ、忍テ己等ガドチ咲ヒケル。
此レヲ思フニ然許ノ事ニ値テ、肝心ヲ迷ハサズシテ、先ヅ平茸ヲ取テ上ケム心コソ絲ムク付ケレ。増シテ便宜有ラム物ナド取ケム事コソ思ヒ被遣ルレ。此レヲ聞ケム人争ニ●ミ咲ケルトナム語リ伝ヘタルトヤ。
信濃守、藤原陳忠が坂から穴に落ちる話。
今となっては昔のことだが、信濃守に藤原陳忠という人がいた。受領として信濃国に下っており、その任期が終わったので帰京していた。その間ある坂に差し掛かった。荷物を載せた馬、人が乗っていた馬は数しらず。坂を越えようとしていた最中、多くの人が馬に乗っていたというのに、陳忠の乗っていた馬だけが懸橋の枕木に後ろ足をひっかけて枕木を踏み折ってしまった。陳忠は馬に乗りながら真っ逆さまに落ちて行ったのだった。
谷は底が分からないほど深かったので。陳忠が無事であるはずがない。非常に高い檜や杉が下から生え出ており、その先が遥か小さく見えた。どれほど深いか見に行く方法も無い。底までどれだけ遠いことか、誰もが自然と理解した。それに陳忠は落ちたわけだから、全くもって、彼が生きているとも思えなかった。
とはいえ、何もしないわけにはいかない。多くの従者はみな馬から下りて、架け橋の枕木に並んで谷底を見下ろしたが、どうしようもないったらどうしようもない。
「降りる所があれば、実際に降りて殿の状態をみにいきたい。一日歩いて回り込んで、浅い所から行こう。ただ、今は谷底へ降りる方法がないので、何もしようがない。」
などと言い合っていると、遥か谷底から叫ぶ声がほのかに聞こえてきた。
「殿は生きておられる!」
と侍共は叫び合った。陳忠の叫ぶ声が遥か遠くに聞こえる。
「何を騒いでいるのだ。黙りなさい。とにかく俺の声を聞け!」
そう言うも、従者らは興奮して聞かない。
「籠に縄があるぞ!結んで長くして降ろせ!」
『殿は生きて、何かしら物に留まっているのだ。たまたま引っかかっているのか、足場があったのか。』
そう知って籠に多くの人を遣って、縄を取り集めて結んで長くし、それ!それ!と下ろした。
延々と縄を下ろすと、あるところで縄が止まった。
『先に行かなくなった。谷底についたのだな。』
と思っていると、谷底から
「いいぞ、引き上げろ。」
と声が聞こえた。縄を引き上げると異様に軽い。ある者が
「これは軽い。殿が縄を掴んでいれば、もっと重いはずだ。」
と言うと、ある者は
「木の枝などに掴まりながら登ってきているのだろう。だから軽いのだろうよ。」
と言う。このようなことなどを言い合いながら皆で引き上げてみると、縄先の籠にはヒラタケがいっぱい入っていた。
「これは何だ。」
皆解せない様子で互いに顔を合わせていると、谷底から
「もう一度降ろせ。」
と叫ぶ声が聞こえた。
これを聞いて
「ならばまた下ろせ。」
と、籠を下ろす。
「引き上げろ。」
と声が聞こえたので、その声に従って引き上げると、今度は非常に重い。数人がかりで引き上げると、陳忠が籠に乗って上がってきたのだった。片手で縄を掴み、もう片方の手はヒラタケを三房ばかり、手の赦す限り持っていた。
懸け橋の上まで引き上げると、従者どもは皆喜びあった。
「そもそも。このヒラタケはどういうことですか。」
と聞くと、陳忠は答えた。
「落ちた時に、馬が俺よりも先に谷底に落ちた。俺は遅れて落ちたわけだが、運よく落ちたところに木の枝が茂っていてな。谷底まで落ちずに済んだよ。で、その木の枝を伝って降りたら、下に大きな木の股があるじゃないか。安定するからそこで抱きついていたらその木にヒラタケがいっぱい生えてたわけさ。見捨てがたいもんだから手の許す限り取って、後から下りてきた籠に入れたってわけよ。まだ多く残っているだろう。完全に取り尽くせなかったのは残念だ。すごい損した気持がする。」
これを聞いた従者ども、
「それはそれは損しましたな。」
と言って花が集まって散るがごとく笑いあったのであった。
陳忠はこれを軽く制止した。
「僻事を言うな。お前たちよ、私は今、宝の山に入って手ぶらで帰ってきたような心地がして悔しいのだ。『受領たる者、たとえ転んだとしてもただ立ち上がるのではなく、土を掴め(どのような状況であっても利益を優先しろ)。』と言うではないか。」
陳忠に長く仕えてきた目代(政務補佐)は心の内では極めて呆れていながらも、お世辞を言った。
「それはまさしく仰る通りです。手に入る物を、どうして手に入れないでしょうか。誰であっても手に入れるべきなのです。もともと賢い人というのは、今にも死にそうな時であっても、慌てることなく、冷静に、全ての事を平時のごとく処理します。ですので、どのような状況であっても手に入れます。政治の道も同様です。常に冷静でいれば、呼吸を自然とするように自然と良く治まり、思い通りの政治ができるようになります(=理想の政治を手に入れる)。民は統治者を父母のような存在として奉ったことでしょう。ああ、これらは全て、殿のことではありませんか。」
と。そう言いながら、陰で従者らは陳忠のことを嘲笑っていたわけだが。
この話、私(筆者)は思う。この男は、生き永らえることが許されないような状況でも慌てることなく、自身の身の安全よりも先にヒラタケを優先して取って上がってきた。その冷静で豪胆な心が現世と繋げる糸として付いていたのだと。このような状況でこの様子なので、まして国司在任中であったら、有るもの何でも手に入れていたのではないかと思う。これを聞いた人、
「出世争いを経験した人なら非常に面白い話だな。」
と言って、語り継いだとか。
まとめ
中央集権の崩壊、つまり中世への遷移期を象徴する受領。武士の世となる中世は中世で、地頭が私利私欲に行動します。
そんな地頭も寄進地系荘園が基盤になっており、何かと地方を治めるポジションというのはその性格まで継承しているのでしょうか?
そんな地頭の不当を訴えた訴状も現代語訳、解説しているので是非読んでみてください。
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