不明鎌倉
荘園領主に提出された訴え状。地頭の非法の数々が記されてる。
地頭請と下地中分
現代語訳の前に、トラブルの要因でもあった地頭請と下地中分について解説します。
鎌倉時代には、荘園領主と地頭の間に上下関係がありました。「一定の年貢の納入を確約する代わりに荘園の管理の一切を任せる」といったこの制度を「地頭請」と言います。「地頭が荘園の管理を請け負う」と言い換えると分かりやすいのではないでしょうか。
しかし、それでもこの制度を破る者がいたため、新たな土地管理制度が誕生します。
「荘園領主が直接→領家の管理」
「地頭→領家の範囲外の部分の管理」
という、管理を折半する制度です。これを「下地中分」といいます。荘園領主は年貢が減少するとはいえ、確実に納められるシステムになっています。「中分」とありますが、完全に真ん中で分けるという意味ではないことに注意してください。
では、『阿氐河ノ上村百姓訴状』はどういう状況で出されたものか。これは「訴状」とついていることから、地頭の非法を荘園領主に訴えたものになります。
年貢を一定量納めればその他は自分の所有物になるわけですから、非法行為に及んでまで年貢を取り立てた地頭が存在していたわけです。それが阿氐河荘で起きてしまいました。当時の非法行為がどのようなものか読み取れます。
ちなみに、訴えられた地頭は「湯浅宗親」です。
非法行為に及んだきっかけは、荘園領主である高野山に木材の納入が遅れたためだと言われています。高野山は真言宗総本山である金剛峯寺がありますね。
現代語訳
題
阿氐河上村の百姓ら謹んで言上
1伏田について
一。伏田のことについてです。領家のお方に伏料を取られたというのに、その上地頭の方にまた四百文の伏料を取られました。また、更にその上に、年別に一段につき二百文の伏料を責め取られてしまうのは、耐えがたいことであります。
2年貢収納について
一。年貢収納のことについてです。今まで百姓らは納め先にお仕えしていましたが、地頭殿が京より下らせた新使いの下公文次郎が苛法もって我々を責めましたので、耐えられず、納めるはずだった年貢を責め取られてしまいました。
3繊維について
一。繊維の原虫カラムシ、綿のことについてです。百姓とが、孫次郎殿が百姓の家に他所の人、家人をかれこれ二十数人を行かせた。その者らの苛法をもって我々を責めましたので、耐えられず責め取られてしまいました。
4材木について
一。御材木のことについてです。地頭が人夫を、「夫役の京上夫として、或いは下向の連れ達に使う」と申し、このようなために地頭の方に責め使われています。そのため、暇がありません。責め使われず残った人夫ですら僅かであるのに、材木を切り出す際、「逃亡の跡にムギを撒け」と言って逃亡した者は追い戻されました。我々がこのムギを撒かないものならば、女子供を追い込み、耳を切り、鼻を削ぎ落し、髪を切って尼にして縄で縛って追い打ちをかけるのです。このような仕打ちに苛まれ、銭を責め取られているうちに御材木の切り出しがいよいよ遅れてしまいました。その上、百姓の在家一軒が、地頭殿によって壊され、取られてしまいました。
5年貢収納について2
年貢の収納のことです。地頭殿方に料を責め取られてしまいましたので、少々ばかりの人数で出頭したら日暮れになってしまいました。仲間の家に宿を取っていたのですが、地頭殿の家の者が兵具を揃えて、百姓の首を切ろうとそこへ松明を捧げてやって来たのです。十月二十一日の夜中に入った頃のことでした。百姓はそれに非常に驚き騒いで四散し、なんとか命を繋ぎ止め、こうして生きております。
6横行行為について
地頭の孫次郎殿が具足として二十人を用意し、百姓の草庵に来て十月八日から三日間の間責められました。また、十月十八日から二日間、銭を責め取られてしまいました。責め取られているその間生活に苦しんでいたのですが、二百銭まで用意するのは耐えられません。その他にも、五人、三人の孫次郎殿の使いがやって来るので暇がありません。このような苦しみ受けながらお仕えしているのだが、その上に百姓の採集した栗・柿は殿人によって追い上げられ取られてしまいました。もがきながらお仕えし、手元に残っている物は少なくなってしまいました。
7約束状について
「この四人の百姓を御領に安堵すべきである。」という書状があるのですが、ますます地頭殿が紙子という着物を課してくるので、四人を御領に安堵できません。彼らを御領に安堵してくれるのならば、百姓が雑税や夫役といった御公事を課せらてたとしても、ますます喜ぶことと思います。
8馬飼について
地頭が朝に行う馬飼いの仕事のことについてです。先例にない事でありますので、百姓らにとって大きな負担となり、嘆いております。
9横行行為について2
これまで述べた通り、孫次郎殿は物乃具・兵具を揃えて百姓の庵に何軒も踏み入り百姓を取り込めています。虐げられるため、いよいよ百姓は逃亡しようとしております。
10横行行為について3
「白毛である左女牛を若宮用の一頭に」と仰り、三貫文を責め取られてしまいました。未だ例のないことであります。
11横行行為について4
十月二十五日から、地頭の長男孫次郎が三十五人で上下の荘園の百姓の門戸にやってきて、色々なものを責め取っています。そうでない時は何十日も居座って台所で一日に三度食事をなさり、残らず食らい尽くすのです。その上、馬飼い用の馬草を一日に一斗三升責め取られたり、マメ、アズキ、アワ、ヒエを代わる代わる取られたりと堪えられません。
12横行行為について5
「うずくまり田」と名付けて、段別に三百文の銭を責め取られてしまいまいました。先例にない事であり、とりわけこの件は百姓になすすべはありません。
13横行行為について6
この馬飼いの遅く入れたからといって、鎌、鍬、鍋、以上十五はざらに質屋に取られてしまいました。
終りに
これら条々に記したことは非例によって責め取られたものであり、百姓はただこの所で安堵して生活したいのです。
建治年間十月二十八日 百姓等ヶ上文