現代語訳
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第七 成親卿とその子少将流罪に行はれた事。

右馬之允
藤原成親卿が結果どうなったか、語っていただきたい。

喜一
その顛末を話しましょう。同じ年の6月2日、拘束された成親卿は公卿の座へ連れ出し、食事を差し上げたものの、成親卿は胸が塞がる思いで、箸さえ手に取ることができませんでした。やがて車が寄せられ、「早う、早う。」と催促されたので、しぶしぶ乗車されたが、前後左右兵たちに囲まれ、周りには成経側の者は一人もいない状況でした。
「もう一度、重盛殿にお会いしたい。」
そう言うも受け入れられずに叶わなかったため、
「たとえ重い罪を受けて遠国へ行くことになったとしても、従者は一人も許されないなんて、そんなことがあるのか。」
と、車の中で嘆きながら訴えられた。
その言葉を聞いた守護の武士たちも、平家側の兵とはいえ、成親卿に同情して皆鎧の袖を涙で濡らしていました。
朱雀大路を南へ下ると、朱雀大路から見て東にある大内山(六条殿。後白河法皇の御所)も今は遠く感じられ、長年見慣れた雑色や牛飼といった身分の低い者たちまでも成親卿の名残を惜しんで涙を流し、袖を濡らさない者はいませんでした。まして、都に残される北の方や幼い子どもたちの心の内は、想像するだけでも哀れでございます。
平安京の南にある鳥羽殿を通り過ぎる時にも、
「この御所へ御幸なされたときも、一度もお供を付けずに足を運んだことはなかったのにな。」
と嘆きながら通過しました。
京の南端、賽の河原(桂川と鴨川の合流点)に出て、船の到着が遅いと急かしていると、成親卿は
「これはどこへ行くのか? どうせ命を失うのなら、都が近いこの場所で最期を迎えたいものだ」
と言いました。これは、悩み苦しんで絞り出した言葉でありました。
近くに侍っていた武士に、
「お前は誰だ。」
と尋ねると、その武士は
「粥田経遠(かいたつねとお)と申します。」
と答えました。そこで成親卿は、
「このあたりに私に味方する者はいないか。船に乗る前に伝えておきたいことがある。探して連れて来てほしい。」
と言ったので、経遠はその辺りを駆け回って探したのですが、
「私は成親卿を味方する。」
と名乗り出る者は、一人も見つけることができませんでした。経遠が戻ってきて、成親卿にこのことを報告すると、成親卿は涙をぽろぽろと流しながら、
「そうと分かってはいたが。。。私が栄華を極めていた頃、従者は1000人や2000人はいただろうに、今では遠くからでもこの有様を見送る者すらいないとは、なんと悲しいことか。」
そう言って泣くので、勇ましい武士たちも皆、袖を涙で濡らしたのでした。
かつて、熊野詣でや天王寺詣での際には、二重の瓦屋根を持つ三棟造りの立派な船に乗り、後には20、30艘もの船が連なって漕ぎ進んでいた成親卿。しかし今は、普通の屋形船に大幕を張った粗末な船で、見慣れない武士たちに付き従われながら、今日が最後、都を離れて遥か遠い海の彼方へと向かわれている。その心の内を思うと、本当に哀れでございます。
その日、一行は摂津国の大物浦(だいもつのうら)に到着しました。さて、話が分からない人に簡単に説明すると、成親卿は、もともと死罪に処されるはずでしたが、重盛が色々と申し上げたことによって流罪に減刑され、このような有様となっています。
同月三日、大物浦に京からの勅使が到着したということで、あたりが騒然となりました。成親卿は、
「ここで私を処刑せよ。という命が下ったのだろう?」
と尋ねると、勅使は
「そうではござらぬ。『備前国の児島へ島流しにせよ』との勅にございます。」
と報せてきました。また、重盛のほうからも、
『どうにかして、都から近い片山里にお留めしていただけないか、のあれこれ申し上げましたが、叶いませんでした。無念でございます。そうとなってしまいましたが、成親卿のお命だけは救うことができました。』
という手紙が送られてきました。そして経遠のもとへは、
『油断せず、よくよくお世話をせよ。御心に背くようなことがあってはならぬ。』
という旨の手紙が送られ、児島までの旅支度についてなど、細かく手配されていました。
あれほど畏れ多く思い申し上げていた後白河法皇と離れただけでなく、片時も離れ難く思っていた北の方や幼い子ども達とも離れることとなった成親卿は、ここで別れを果たされたのでした。
「これはいったいどこへ行く身なのか。ある年、比叡山延暦寺の強訴によって流罪となったことがあった(1169嘉応の強訴)が、後白河法皇が哀れんでくださり、西七条から召し返された。それなのに、今回は後白河法皇から平家に対する御戒めもない。これはどうしたことか。」
と、天を仰ぎ、地に伏して、激しく思い詰めました。
夜が明けると、船は押し出され、西国へと下っていきました。成親卿は、道中もただ涙にむせぶばかりでした。長く生きることはできないように思われましたが、儚い命はすぐには消えることなく、都は白波に隔てられて、次第に遠ざかっていきました。日を重ね、遠国(備前国)が近づいてくると、ついに児島へと船を漕ぎ寄せました。上陸し、柴で葺かれたみすぼらしい庵に成親卿は住まうこととなりました。
島に住む定め。後ろは山、前は海、磯を吹き抜ける松風の音、波の音、いずれも尽きることのない哀れさを誘うものです。そして、これはなにも成親卿一人に限ったことではありませんでした。同じように島流しの罰を受けた者たちが多くいたらしく、それぞれ別の国に流刑に島流しされたと聞いています。
その頃、清盛は摂津国の福原別邸に滞在していいましたが、同月の19日に、金刺盛澄という者を使者として弟の教盛のもとへ遣り、
「考えていることがあるので、保護している成経を急ぎこちらへ寄越してくれないか。」
と伝えさせました。これに対して教盛は、
「ただでさえ良きように計らってくれたのだ。もはやどうすることもできない。こうなってしまった以上仕方がないが、今さら思い悩むとは悲しいことだ。」
と言って、成経を福原へ下らせるように命じました。成経は涙ながらに出発していったので、女房たちは
「我々にはどうしようもないことは分かっています。それでもせめて、教盛様があの時仰せになった通りに、成経殿を生かしてほしいものです。」と嘆き悲しみました。
教盛は
「思っていることはすべて申し上げた。世を捨てる他に、何を申し上げようか。しかし、たとえ貴方がどこかの浦に流罪になろうとも、この命がある限りは、必ずお訪ね申し上げよう。」
と言いました。
成経には今年三歳になる幼子がいましたが、成経はまだ若いので自分の子どもの官位等についてそれほど深く気にかけてはいませんでした。とはいえ、今生の別れとなると、さすがに心にかかるものがあったのでしょうか、
「この幼い我が子を、もう一度だけ見せてくれ。」
と言いました。
乳母が幼子を抱いて連れてきます。成経は膝の上に乗せ、頭を撫でながら、涙をぽろぽろと流しながら言いました。
「哀れなことよ。お前が七歳になったら、一人前の男子として主君のもとへ仕えさせようと思っていたのに、今となっては無駄な計画となってしまった。もし命長らえて大きくなったら、出家して法師となり、私の後世を弔ってくれないか。」
と。まだ幼いため、その意味を理解することなどできないはずですが、それでも小さく頷いていました。その様子に、少将をはじめ、母君も乳母も女房たちも、そしてその場に居合わせた人々も、心ある者も心ない者も皆、涙を流さずにはいられなかったといいます。
そうしているうちに、福原からやってきた使者が到着し、
「すぐ、今夜のうちに鳥羽までお出になりませい。」
と伝えてきました。成経は
「どうせ長くない命だから、せめて今宵ばかりは都の中で夜を明かしたい。」
と言うも、使者が頻りに言うものだから、逆らうわけにもいかず夜のうちに鳥羽まで出たのでした。教盛はこれをあまりにも恨めしく思い、さすがに成経に同情しました。
さて、成経が福原へ下向すると、清盛は妹尾兼康に命じて、成経を備中国へ流罪としました。兼康は
『成親卿がこのことを聞けば何か事を起こすのではないか』
と恐れ、道中色々と成経を気遣い、慰め申し上げたのでした。
しかし、成経には何の慰めにもならず、昼夜ただただ父成親卿のことばかりを嘆いていました。
一方、成親卿は備前国の児島に既に流されています。これを預かっていた粥田経遠は、ここはまだ船着き場に近いから良くないだろう、と考え、さらに内陸へと成親を移しました。そして、備前国と備中国の国境にある庭瀬郷の有木の別所(現岡山県岡山市北区吉備津有木)という山寺に安置申し上げました。
備中国にいる妹尾らと備前国の有木の別所の間は、わずか五十町(約5.5km)にも満たない距離であったため、成経は吹いてくる風までも懐かしく思われました。ある時、成経は妹尾兼康を呼び寄せて尋ねました。
「ここから父成親卿がおられる備前の有木の別所までは、どれほどの道のりか。」
兼康は正直に答えるのは良くないと思ったのでしょうか、
「片道でも十二、三日ほどかかります。」
と、大げさに盛って返答したのです。
その時、成経は涙をぽろぽろと流しながら言いました。
「日本は昔、33の国があったが、遠くない昔に66か国に分けられたと聞いている。たとえば、備前、備中、備後だ。これらも、もとは一つの国であったのだ。そうであるならば、備前と備中の間は、遠くても二、三日もあれば通り過ぎるはずだろう?近いのに遠いと言うのは、父成親卿のいる場所を私に知らせまいという魂胆だろうよ。」
その後は、父を恋しく思いながらも、さらに尋ねることはなかったといいます。
(第七。終。)
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