不詳 奈良
751年成立の日本最古の漢詩集。詠み人には「藤原不比等」「長屋王」といった、奈良時代以前に活躍した人物が多く選ばれている。
『懐風藻』について
- 日本最古の漢詩集
- 成立は奈良時代末期
- 天平文化
- 編者不明(淡海三船か)
取り上げられている歌詠み人は特に有名な人で言うと、
「藤原不比等」「長屋王」「文武天皇」「藤原宇合」「大伴旅人」
がいます。日本史でおなじみの顔ぶれですね。
これらの人物はみな奈良時代以前に活躍した人です。序文にそのまま書いてあるのですが、『懐風藻』の選出対象は全て飛鳥時代となっています。
取り上げられている作者についての分析等はこちらで行っています。
淡海三船について
淡海三船と書いて、「おうみのみふね」と読みます。なかなか読めませんね。しかし、あることを知るとすぐに理解できます。
実は、淡海三船は天智天皇のひ孫なのです。
この天智天皇ですが、生前は「近江帝」と呼ばれていました。理由は、近江に住んでいたから。
「○○天皇」というのは漢風諡号で、諡号というのは“死後”贈られる名のことを言います。
つまり、全天皇には生前は別に呼び名がありました。それが天智天皇の場合「近江帝」だったというわけです。
諡号については、蒲生君平『山陵志』にて詳しく解説されています。
ちなみに、歴代天皇に「○○天皇」という諡号を贈ったのは、淡海三船だと言われています(諸説あり)
大宝律令の前進「近江令」。治世を行った場所「近江大津宮」。近江という地名と天智天皇は深い関係があるのです。
ところで、この近江という地域は、「近江大津宮」とあるように、現在の滋賀県に該当します。この滋賀県の名所と言うと・・・
琵琶湖です!
この琵琶湖、海のような湖ですが、海ではありません。そう、淡水なんです。
海だけど淡水、それは湖・・・
琵琶湖
「淡水の海」=「淡海(あふみ)」
↓
近江
↓
近江帝
このことを知っておけば、『懐風藻』の成立が天智天皇の御代以降ということがすぐ分かりますね。
天智天皇のひ孫なので、
「だいたい80歳差くらいだから壬申の乱+80年くらい見積もった時に成立したのかな?」
と、薄ら覚えていると、いつか役に立つかもしれません。
実際、『懐風藻』は天平文化で、751年成立です。672年の壬申の乱から約80年経過しています。
収録されている詠み手
全部で63人、114首が収録されています。
「目録」をもとに集計しました。順不同です。
No | 詠み手 | 収録数 |
01 | 淡海朝皇太子(大友皇子) | 2首 |
02 | 浄大三河嶋皇子 | 1首 |
03 | 大津皇子 | 4首 |
04 | 僧正呉学生智蔵師 | 2首 |
05 | 大納言直大二中臣朝臣大島 | 2首 |
06 | 正四位上式部卿葛野王 | 2首 |
07 | 大納言正三位紀朝臣麻呂 | 1首 |
08 | 文武天皇 | 3首 |
09 | 太宰大弐従四位上巨勢朝臣多益須 | 2首 |
10 | 治部卿正四位下犬上王 | 1首 |
11 | 正五位下紀朝臣古麻呂 | 2首 |
12 | 大学博士従五位下美努連浄麻呂 | 1首 |
13 | 判事従七位下紀朝臣末茂 | 1首 |
14 | 唐学士弁正法師 | 2首 |
15 | 正五位下大学頭調忌寸老人 | 1首 |
16 | 贈正一位太政大臣藤原朝臣史 | 5首 |
17 | 正六位上左大史荊助仁 | 1首 |
18 | 大学博士従五位下刀利康嗣 | 1首 |
19 | 皇太子学士従五位下伊預部馬甘 | 1首 |
20 | 従四位下播磨守大石王 | 1首 |
21 | 大学博士従六位上田辺史百枝 | 1首 |
22 | 兵部卿従四位下大神朝臣安麻呂 | 1首 |
23 | 従三位左大弁石川朝臣石足 | 1首 |
24 | 従四位下刑部卿山前王 | 1首 |
25 | 正五位上近江守采女朝臣比良夫 | 1首 |
26 | 正四位下兵部卿安倍朝臣首名 | 1首 |
27 | 大納言従二位大伴宿禰旅人 | 1首 |
28 | 従四位下左中弁中臣朝臣人足 | 2首 |
29 | 大伴王 | 2首 |
30 | 正五位下肥後守道公首名 | 1首 |
31 | 従四位上治部卿境部王 | 2首 |
32 | 大学頭従五位下山田史三方 | 3首 |
33 | 従五位下息長真人臣足 | 1首 |
34 | 従五位下出雲介吉智首 | 1首 |
35 | 主税頭従五位下黄文連備 | 1首 |
36 | 刑部少輔従五位下越智「直」広江 | 1絶 |
37 | 従五位下常陸介春日蔵老 | 1首 |
38 | 従五位下大学助背奈王行文 | 2首 |
39 | 皇太子学士正六位上調忌寸古麻呂 | 1首 |
40 | 正七位上伊預掾刀利宣令 | 2首 |
41 | 大学助従五位下下毛野朝臣虫麻呂 | 1首 |
42 | 讃岐守外従五位下田中朝臣清足 | 1首 |
43 | 正二位左大臣長屋王 | 3首 |
44 | 従三位中納言安倍朝臣広庭 | 2首 |
45 | 正四位下大宰大弐紀朝臣雄人 | 3首 |
46 | 正六位上但馬守百斎公和麻呂 | 3首 |
47 | 正五位下大学博士守部連大隅 | 1首 |
48 | 正五位下図書頭吉田連宜 | 2首 |
49 | 大学頭外従五位下箭集宿禰虫麻呂 | 2首 |
50 | 陰陽頭正五位下大津連首 | 2首 |
51 | 贈正一位左大臣藤原朝臣総前 | 3首 |
52 | 正三位式部卿藤原朝臣宇合 | 6首 |
53 | 従三位兵部卿藤原朝臣万里 | 5首 |
54 | 従三位中納言丹墀真人広成 | 3首 |
55 | 従五位下鋳銭長官高向朝臣諸足 | 1首 |
56 | 律師大唐学生道慈師 | 2首 |
57 | 外従五位下石見守麻田連陽春 | 1首 |
58 | 大学頭外従五位下塩屋連古麻呂 | 1首 |
59 | 従五位下上総守雪連古麻呂 | 1首 |
60 | 隠士民忌寸黒人 | 2首 |
61 | 沙門道融師 | 5首 |
62 | 従三位中納言兼中務卿石上朝臣乙麻呂 | 4首 |
63 | 正五位下中宮少輔葛井連広成 | 2首 |
現代語訳
つかみ
はるか昔の賢人に聴き、はるか昔の書籍を見ると、天孫降臨した瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の御世、ならびに神武天皇が橿原(かしはら)に建国した時、まだ天地が創造されたばかりで、人間の文化は作られていなかったことが分かった。
新羅を服従させた神功皇后の息子、応神天皇の即位の時、朝貢した百済の朝貢使が厩坂道で儒教を教えひらいた。また、第30代敏達天皇の御世では、高麗国は烏の羽に書いた上表文を我が朝廷に奉った。
儒教と仏教
時を戻して第15代応神天皇の御世。王仁が応神天皇の皇居であった軽嶋豊明宮(かるしまのとよあきらのみや)で道理にくらい者に対して指導を始めた。
そして第30代敏達天皇の御世、王辰爾(おうしんに)が敏達天皇の皇居であった訳語田幸玉宮(おさださちたまんみや)で儒教を教え広めた。ここにおいて、ついに儒教は浸透、孔子の示した道(儒教)に人々を向かわせることに成功したのである。
聖徳太子の御世。彼は第33代推古天皇の摂政となり、『冠位十二階』を定めた。礼と義を法で示した、はじめての出来事である。しかしながら、この時期は儒教ではなく専ら仏教が崇拝されており、漢詩を作る暇はなかった。
天智天皇の功績
そして時代は人々が天智天皇の命を受ける時代に至る。『近江令』だ。天智天皇は広く治国を始め、治世の方針を明らかにした。この方針は日本全国の統治の基準となったほどで、その功績は無限に広がる世界の光となった。
『近江令』制定は、天智天皇が
「風俗を正してそれを習慣化させるには、文化を尊ぶほかなく、徳を身につけ身を立てるには、何よりも先に学問を習得するべきである。」
とお思いになったことに始まる。
大学寮を建て、秀才を徴収し、5つの礼儀である五禮(祭祀、冠婚、賓客、軍旅、喪葬)を定めるなど、様々な制度を定めた。これが『近江令』である。法の寛大さというのは、古より今日まで未だ見たことがないほどであり、宮中に三つの階段を設けるほどの栄華を遂げ、日本全土は繁栄した。天皇が何もする必要がないほど安定した世の中となったのである。争いごとが無いため、屈強な兵士たちも暇が多いほどであった。
余暇が生まれた天智天皇。文芸に時間を注ぐようにもなり、しばしば学問に通ずる者を招いては酒宴を開いた。この酒宴の際、天皇自ら漢詩をお作りになったのである。賢者らはこれを褒めたたえ、詩歌にして奉った。見事な表現がいくつも刻まれた詩歌の数、百首どころではなかった。
壬申の乱と漢詩の隆盛
ところが、天智天皇の御世に戦乱が起きてしまう。壬申の乱である。壬申の乱によってそれら文書はたちまち灰燼と化し、跡形もなく消えてしまう。天智天皇は心を痛めて嘆き悲しんだ。「これがきっかけで、以降漢詩が廃れてしまうのではないかーーー」そう感じたのだ。
しかし、壬申の乱後も優れた漢詩を作る者が現れた。
大津皇子は天の画紙に鶴を描いた[述志:天紙風筆画雲鶴〜]の漢詩を作り、
文武天皇は月を霧に浮かべた[詠月:月舟移霧渚〜]の漢詩を作った。
また、三輪高市麻呂(みわのたけちまろ)は公的な題の中でも奇抜な[従駕応詔:臥病已白髪〜]の漢詩を作り、
藤原不比等は年の始まりである元日と、天皇の始まりである即位を巧みに表現した[元日。應詔。:斉政敷玄造〜]の漢詩を作りました。
このように、見事な漢詩は壬申の乱以前よりも多くそして盛んになり、彼らの名声は後の時代にも伝わったのだった。
淡海三船のわたくし事
さて、わたくし事だが、私は位階が低いが故に業務にゆとりがあったため、文学界に心遊ばせた。昔の人の遺跡を見ては、風月に思いを馳せた。今の時代に、彼らの生きた証はわずかしか残っていない。しかし、残された文書や詩歌はここにある!優れた作品を愛でて、はるか昔のことを思いやると、思わず涙が流れる。体を起こし、余暇を活かして優れた作品の痕跡を訪ね歩くのだが、風のように彼らの歌が過ぎ去り消えゆくのがなんとも惜しく思う。
『懐風藻』成立
そこで私は、孔子廟魯壁の壺のように、残された優れた作品を集め、一括りにした。対象時期は、遠く天智天皇の御世(即位:663~672)から平城京(710)に至るまで、要するに飛鳥時代の約50年間である。漢詩を約120首を収め、一巻に集成した。作者は64名、題に細かく姓名を記した。あわせて、位階と出身地を始めに置いた。私がこれら漢詩を選び抜いたのは、昔の優れた賢人らの教えを忘れないようにするためである。それを由としたために「懐風」と名付けた。
天平勝宝3年、辛卯(かのとう)の年、11月季節冬、これを献上する。
(『懐風藻』序文 終)