柳田国男明治
東北地方に伝わる逸話や伝承を記した説話集100話以上が収録されている。
全体構成
20話ずつ区切って記事にしました。
いずれも5000~10000文字ほどとなっています。
本文
101
旅人が豊間根(とよまね)村を過ぎた時の話である。夜更け頃、疲れていたためどこかで休息を取ろう考えていたところ、幸いにも知り合いの家に灯火が付いているのが見えた。入って休もうとすると、主人は「良い時に来合わせた。今夕に死人が出てな。留守の者がいなくてどうしようかと思っていたところだ。」と言い、しばらくの間主人は「頼む」と人を呼びに行った。迷惑千万な事この上ないが、仕方ない。旅人が囲炉裡の側で煙草を吸っていた時、奥の方で寝かせてあった死んだ老女の方をふと見ると死人が床の上にむくむくと起き直ろうとしている。大変驚いたが、落ち着いて静かにあたりを見回すと、流し元の水口の穴の向こうに狐のような物があるのが見え、顔を穴にさし入れて頻りに死人の方を見つめていたのだった。さて、これを見つけたので身を潜めて密かに家の外に出で、裏口の方に回って見ると、正体は間違いなく狐で、首を流し元の穴に入れ後ろ足を爪立てていた。そして、偶然そこにあった棒を手に持ち、この狐を打ち殺した。
※下閉伊郡豊間根村大字豊間根。
102小正月の行事
1月15日の晩を小正月という。夕方になると子供らは福の神と称して4,5人の群を作り、袋を持って人の家に行き、「明(あけ)の方から福の神が舞い込んだ」と唱えて餅を貰う習慣がある。日没を過ぎると、この晩に限り人々は決して家の外に出ることはない。午前0時過ぎは山の神が出て来て遊ぶと言い伝えがあるためである。山口の丸古立(まるこだち)に、おまさという今は35~36歳になる女がまだ12~13歳の時の話である。どういうわけか、人の身で唯一福の神に遭遇し、ところどころ歩いていたら遅い時間になっていた。ひとり寂しい帰り道に、向こうの方から背の高い男来てすれ違った。顔は非常に美しかったが、眼は赤く輝いていた。おまさは袋を捨てて逃げ帰り、その衝撃からか、精神的にかなり苦しんだという。
103雪女
小正月(1月15日)満月の夜、あるいは冬の満月の夜に、雪女が現れて遊んでいるという話がある。子供を多く連れてくるらしい。冬になると里の子供たちは近辺の丘に行きソリで遊ぶのだが、楽しさのあまり時間を忘れ、いつの間にか夜になっていることがある。「十五日の夜は雪女が出るから早く帰ってきなさい」と、どの家の子供たちも親からそう言われるのである。しかし、「雪女を見た」と言う者は少ない。
104
小正月の晩は行事が非常に多い。月見という行事は六つの胡桃の実を12片に割り、いっとき炉の火であぶってこれを引き上げ、一列に並べて右から「1月、2月」と数える。満月の日、晴れた日であれば月はいつまでも赤く、曇りの日であれば月はすぐに黒く、風のある日であれば月はフーフーと音をたてて火がふるうのである。何度繰り返しても同じ結果で、村中のどのの家でも同じ結果になるという。妙である。翌日はこの事を語り合い、例えば8月の十五夜の天気が風荒れであったら、その年の稲の刈入れを急ぐ。
※「五穀の占」や「月の占」というのは、多少のvariate(変化)をもって諸国で行なわれる。陰陽道を起源とする行事であろう。
105
(104に続いて)また、世中見(よなかみ)という行事は、小正月の晩に、いろいろな米で餅を拵えて鏡餅を作る行事である。同種の米を膳の上に平らに敷き、鏡餅をその上に乗せて、鍋を被せ置いて翌朝これを見る。餅についた米粒が多い品種の米は豊作であるとして、この結果をもとにその年の早稲(わせ)、中生(なかて)、晩稲(おくて)の種類を選び定めるのである。
106
海岸にある山田という所では、蜃気楼が年々見られるため、常に外国のような景色が広がっているという。見馴れない都の様子に驚くのと同じようで、車や馬が頻繁に往来する様子は、目が覚めるほど驚かれる。時代によって家の形などが大きく異なるということは無いという。
107
上郷村に「河ぷちのうち」という家がある。早瀬川の岸にある。この家の若い娘が、ある日河原に出て石を拾っていたところ、見馴れない男が来た。その男は背の高く顔は朱色のような人で、木の葉やら何やらを娘にくれた。娘はこの日から占いの術を得たという。その男は山の神で、娘は山の神の子になったのだとか。
108
山の神が乗り移ったといって占いをする人は所々で見られる。附馬牛村にもある。柏崎の孫太郎という男は、本業は木挽である。以前は発狂して喪心したりしに、ある日、山に入ると山の神からその術を得た。それから後は、不思議なことに、人の心を読むことができるようになっており、驚くばかりである。その占いの法は世間の者とは全く異なる。何の書物も見ず、占いを頼みに来た人と世間話をし、その最中にふと立ちあがって普段いる部屋の中をあちこちと歩き出すと思ったら、頼みに来た人の顔を少しも見ずに思っていることを言い当てるという。必ず当たるのだ。例えば、「お前のウチの板敷を取り外し、土を掘ってみよ。古い鏡または折れた刀があるだろう。それを取り出さないと近いうちに死人が出たり、家が焼けたりするぞ」とか言う。帰って土を掘ってみると、言った物が必ずある。このような例は非常に多く、指を折って数えることはできない。
109雨風祭
盆の時期になると、雨風祭といって、藁で人よりも大きな人形を作り、道の分岐点に持って行って立たせる祭りがある。藁だけでは寂しいので、紙で顔を描き、瓜で顔らしい形を作って付け足すようなこともする。虫祭という祭りの時の藁人形は雨風祭のよりも小さく、また、ように顔を付け足すこともしない。雨風祭の内容はというと、まず、部落から頭屋という祭りの運営役を選んで、里の人を集めて酒を飲む。その後、運営役が笛太鼓を吹いて里の人たちを大通りまで送っていくというものである。笛の中には桐の木で作った空洞があり、天高く響かせるのだ。その時に歌う曲は「二百十日の雨風まつるよ、どちの方さ祭る、北の方さ祭る」という歌詞である。
※『東国輿地(よち)勝覧』によれば、韓国でも 厲壇(れいだん)を必ず城の北方に作っている。この話も韓国の祭壇も、共に玄武神の信仰が由来なのだろう。
110里の神ゴンゲサマ
ゴンゲサマは、神楽舞の組ごとに一つずつ備えられている木彫の像で、獅子の頭部とよく似ているが、少し異なっている。非常に御利益のある像として扱われている。新張(にいばり)にある八幡社の神楽組のゴンゲサマと、土淵村にある五日市の神楽組のゴンゲサマが、かつて争いを起こしたことがあった。結果、新張のゴンゲサマは負け、像の片耳を失ってしまい今も片耳は無いままである。祭りの際は毎年村々を舞いながら歩くため、片耳無いことを知らないものはいなかった。ゴンゲサマの霊験は特に火伏(ひぶせ)によって得られた。先ほどの新張の八幡社の神楽組がかつて附馬牛村に行き、日暮れに宿を取ろうと訪ね歩いていた時のことである。ある貧しい者が彼らを快く泊めてくれたのだが、その間ゴンゲサマは五升桝を伏せてその上に座わらせて置いていた。人々が寝静まった頃、夜中にがつがつと物を噛む音がするので、驚きいて起きてみると、すでに軒端の火が燃え尽きていた。桝の上のゴンゲサマが飛び上り飛び上りして火を喰い消していたのだという。この話から、頭を病むような子供はよくゴンゲサマに頼んで、その病を噛んでもらうことがある。
111塚と森と
山口、飯豊、附馬牛にある字荒川東禅寺と火渡、青笹にある字中沢と土淵村にある字土淵には、ともに「ダンノハナ」という地名があり。その近くにこれと相対して必ず「蓮台野(れんだいの)」という土地がある。昔、六十を超えた老人をこの蓮台野へ連れていくのがこの土地の風習であった。とはいえ、自然と死なない老人も中にはおり、そのような者は日中は里へ下りて農作してかろうじて生活していた。そのため、今も山口土淵辺では老人が朝に野らに出てくることを「ハカダチ」といい、夕方に野らから帰ることを「ハカアガリ」というのだという。
112蝦夷の跡
「ダンノハナ」は昔、館があった時代は囚人を斬っていた場所だったという。地形は山口や土淵、飯豊とほぼ同じで、岡の上は村境にあたる。仙台にも「ダンノハナ」という地名がある。山口のダンノハナは大洞へ行くのに越える必要がある丘の上の館址から続いている。蓮台野はこれと山口の住居域を隔てて相対する。蓮台野の四方はすべて沢となっている。東側は低地で、南の方は星谷と呼ばれている。星谷には蝦夷(えぞ)屋敷という四隅に凹みがあるところが多くある。そこは跡地として極めて明白で、石器が多く出土する。山口で石器や土器が出土している場所は二ヶ所あり、そのうちの一つの地名を「ホウリョウ」という。不思議なことに、ここの土器と蓮台野の土器とは様式が全く異なっている。連台野の土器は技巧が少しもなく、「ホウリョウ」の土器は模様など巧みに作られている。また、「ホウリョウ」では埴輪、また石斧や石刀の類も出土する。蓮台野には蝦夷銭(えぞせん)といって、銭の形をした直径二寸ほどの物が多く出土している。これには単純な渦紋などの模様が付いている。「ホウリョウ」ではまた、丸玉・管玉も出土する。「ホウリョウ」の石器は精巧で石質も一致しているが、蓮台野の場合、石質が統一されない。現在の「ホウリョウ」は何の跡ということもなく、ただ狭い一町歩ほどの広さの場所である。また、現在の星谷は田地となっている。蝦夷屋敷はこの両側に連続して存在していたと言われており、囚人を斬っていたが故に、「掘ると祟りにあった」という場所がこの辺りに二ヶ所ほどある。
※他の村々の話でも、この二ヶ所の地形および関係は似ていた
※星谷という地名は諸国にあり、星を祭る場所である
※ホウリョウ権現は遠野をはじめ奥羽一帯で祀られている神である。蛇の神だという。その由来は知らない。
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和野に「ジョウヅカ森」という所がある。象を埋めた地だという。ここだけには地震がないと言われ、近辺で被災した際はジョウヅカ森へ逃げよと昔から言い伝えられている。確かに、よく見るとこの場所は人を埋めた墓である。塚の周囲には堀があり、塚の上には石がある。これを掘ると祟られるという。
※「ジョウズカ」は「定塚」「庄塚」または「塩塚」などと書き、諸国に多く存在する。これも、境の神を祀っていたところにて地獄のショウツカ[#「ショウツカ」は太字]の奪衣婆《だつえば》の話などと関係がある。このことについては、『石神問答』で詳しく記している。また「象坪」などの象頭神とも関係があるため、象に関する伝説に由来がないことは無いだろう。塚を森と表現することも東国の特徴である。
114
山口のダンノハナは、今は共同墓地である。岡の頂上にうつ木を植えて周囲をめぐらし、その入口は東方を向いており門口のような印象を受ける。その中ほどには大きな青石がある。かつてこの石の下を掘った者がいたらしいが、何も発見されなかった。後に再び掘ってみると大なる瓶があるのを見つけた。村の老人たちがきつく叱ったため、またもとの場所に置いたのだった。館の主の墓だとという。ここから近い館の名はボンシャサの館といい、いくつかの山を掘り割いて水を引き、三重四重に堀をめぐらせている。また、寺屋敷・砥石森などいう地名もある。井の跡で、石垣が残っており、山口孫左衛門の祖先がここに住んでいたという。『遠野古事記』で詳しく記している。
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御伽話のことを「昔々」という。「ヤマハハ」の話が最も多く存在する。「ヤマハハ」は山姥のことである。その1つ、2つを次に記そう。
116昔々
昔々あるところにトトとガガとという夫婦がおり、娘が一人いた。娘を家に置いて町へ行ことになり、娘に「誰が来ても戸を開けるな」と言い、鍵を掛けて家を出た。娘は留守番が恐ろしかったので一人炉のあたりにすくんでいたところ、真昼間に戸を叩いて「ここを開けろ」と呼ぶ者がいた。加えて「開けないのであれば蹴り破るぞ」と脅してくるので、仕方なく戸を開けると入ってきたのは山妣(やまはは)であった。主人が座る席にあたる炉の横座に踏み込んで火にあたり、「飯を炊いて食わせろ」と言った。その言葉に従い娘は膳を支度して山妣に食わせた。その間に家から逃げ出しただが、山妣は飯を食い終えて娘を追いかけてき、徐々にその距離も近くなて今にも背に手が触れるくらいの距離になった時、山のかげで柴を刈っていた翁に逢った。「私は山妣に追いかけられているところだ、隠してくれ。」と頼み、刈り終えて山になっている柴の中に隠れたのだった。山妣がこちらへ尋ね来て、「どこに隠れたのだ」と柴の束を除けようとした時、柴を抱えたまま山を滑り落ちていった。その隙にここを逃れて、今度は萱を刈る翁に逢った。「私は山妣に追いかけられているところだ、隠してくれ。」と頼み、刈り終えて山になっている萱の中に隠れたのだった。山妣がこちらへ尋ね来て、「どこに隠れたのだ」と萱の束を除けようとした時、萱を抱えたまま山を滑り落ちていった。その隙にここを逃れて、今度は大きな沼の岸に出たのだった。これより先行方法も無いので、沼の岸にあった大木の梢に昇って身を隠した。山妣は「どこへ行っても逃すものか」と、沼の水に娘の影が映っているのを見つけて、すぐに沼の中に飛び入ったのだった。この間に走り逃げ、逃げた先で一つの笹小屋を見つた。中に入ると若い女がいた。ここでも同じことを告げて、石の唐櫃(からうど)があったのでこの中へ隠してもらった。そこへ山妣がまた飛び来て娘の居場所を女に聞くが、女は「知らない」と答えた。しかし、「いいや、来ていないはずはない、人間のにおいがするからね。」と山妣は言うのだった。「それは今雀を炙って食ったからだろう。」と女が言い返すと、山妣も納得して「それなら少し寝ることにしよう、石のからうどの中にしようか、木のからうどの中がよいか。そうだな、石は冷たいから木のからうどの中にしよう。」と言って、木の唐櫃の中に入りて寝てしまった。家の女はこの唐櫃に鍵をかけ、娘を石の唐櫃から連れ出し、そして「私も山妣に連れて来られた者です。これを機に殺して里へ帰ろう」と言った。赤くなるまで焼いた錐を木の唐櫃の中に差し通したのだが、山妣は外でこのようになっているとも知らず、ただ二十日鼠だけが通るだけであった。それから湯を煮立てて焼錐の穴から注ぎ込んで、ついにその山妣を殺し、二人ともにそれぞれの家に帰っていった。「昔々」で始まる話の終りはいずれも「コレデドンドハレ」という語をもって結ぶのである。
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昔々あるところにトトとガガ※と娘(おりこひめこ)がいた。トトとガガが、嫁に行く娘の支度のために、町へ買い物に行くことになった。戸を閉ざし、「誰が来ても開けるなよ」と言ったので、「はア」と答えた。しかし、昼にヤマハハが来て娘を食い、娘の皮を被って娘に変装したのだった。そうとも知らず、夕方に両親が帰ってきて、「おりこひめこいるかー」と門の口から呼ぶと、「あ、いますいます、早かったな」と答えた。両親は買って来た色々な支度の物を見せて娘の悦ぶ顔を見ていた。次の日の夜明け時、家の鶏が羽ばたきして、「糠屋※の隅ッこを見ろじゃ、けけろ」と鳴いた。はて、いつもと様子が違う鶏の鳴き声のような気が、と両親は思ったが気にかけなかった。そして花嫁を送り出す時が来た。おりこひめこ(ヤマハハ)を馬に載せ、今にも行こうとした時、また鶏が鳴いた。その声は、「おりこひめこでなくて、ヤマハハ乗せた、けけろ」と言っていたようだった。繰り返し歌うものなので、両親はここで始めて気づき、ヤマハハを馬から引きずり下して殺したのだった。それから糠屋の隅を見に行くと、娘の骨が多くあったという。
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紅皿欠皿(べにざらかけざら)の話も遠野郷にはある。ただし、欠皿の方は「ヌカボ」と呼ばれる。ヌカボは空穂(うつぼ)※のことである。この紅皿欠皿の話は、継母に憎まれていたが神の恵があって、ついに長者の妻になった、というものである。エピソードには色々な美しい絵様が付けられている。機会があれば詳しく記そう。
※空穂(うつぼ)太い筒形の中のがらんどうな所に矢を入れ、腰につけて持ち歩く道具