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雨月物語【現代語訳#1白峯】崇徳院VS西行法師!崇徳院の平家への恨み

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「君が仰せになっていることは、人道の理を借りて説明なさっているとはいえ、欲塵(仏教用語。欲望によって心が穢れ、曇っている状態)の状態は逃れていません。遠く震旦(インド)の何かしらの逸話をあげるまでもないでしょう。近く我が国の逸話で十分です。昔、第15代誉田天皇(応神天皇)は第四皇子であった大鷦鷯王(のちの第16代仁徳天皇)を差し置いて、異母弟の皇子、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)を日嗣の太子(皇太子)にしました。応神天皇が崩御されてからというもの、この兄弟は譲り合って、両者とも天皇位に就こうとしませんでした。3年経ってもこのことが終わらないので、弟の菟道稚郎子が深く心悩まされ、『天皇位に相応しくない私が長く生きれば天下を煩わすのではないだろうか。いや、良くないことだ。』ということで、自ら宝算(天皇の年齢のこと)を断ったであったのです(自害なさった)。仕方なく、兄の大鷦鷯王が天皇位に就くことになりました。これは、天業(天の理)を重んじて忠信孝悌に勤しんだゆえの結果であり、そこに人の欲はありません。尭舜の道といっても良いでしょう。我が国が、儒教を尊び、それを専ら王道の支えとしたのは、菟道稚郎子が百済の王仁を召して学ばれたのが最初です。つまり、この兄弟の王の志は唐土の聖人の志を受け継いだものだと言えるのです。また、周の創始者である武王は、主君の紂王に怒りを覚えこれを倒し、天下の民に尽くしました。だから、『臣下だから主君を殺した』と言ってはならないのです。『仁義を蔑ろにした一人の男、紂王をただただ誅殺した』ということなのです。このことは『孟子』という書に書いてあると人から聞きました。唐土の書は経典から史策(歴史書)、詩文に至るまで渡ってきてないものなどないというのに、この『孟子』だけが伝来していない。この書を積んで来る船は必ず嵐に遭遇して沈むと言われているためです。何故でしょうか。それは、『孟子』のような小賢しい教えが伝われば、末世において「『孟子』の教えによれば、神の子孫を滅ぼしても罪にはならぬ!」といった敵が現れる可能性があったためです。我が国は天照大御神の天地開闢以来、日嗣の大王の系統は絶えることなく続いております。しかし、この教えによって途絶えるかもやしれない、そこで八百万の神はこれを警戒し、神風を起こして船を沈めたのだと聞いております。つまり、他国の聖人の教えといっても、この国に相応しくない場合が少なからずあるのです。また、『詩経』にも書いてあります。『兄弟鬩于牆 外禦其侮(兄弟は垣根の内で争ったとしても、外からの侮辱は共に防ぐ関係性であれ。』と。それなのに、骨肉の愛(親子兄弟間の深い愛情)をお忘れになって、その上、父帝が崩御されて殯の宮(本葬まで遺体を安置する施設)でその身がまだ冷たくならないうちに錦の御旗をなびかせ弓を引いて宝祚(天皇位)を争われるとは、これ以上の不孝罪はないでしょう。『天下は神器なり(『老子』第29章)』といいます。天下は人の手で制御できるものではなく、天命に従うべきだ、という意味です。天下というのは、私物にしようと奪おうとしても得ることができないのが道理です。たとえ、民が重仁親王の即位を望んだとしても、徳を行き渡らせず和を施さずに道理に反した謀でその御代をお乱しになったから、昨日まで君をお慕い申し上げていた者たちも今日にはたちまち怨敵となった。そして、君は本意も遂げられず、前例のない刑を受けることとなり、あのような辺境の地で土となったのです。ただただ生前の恩讐をお忘れ、『浄土に行こう(=成仏しよう)』とお思いになることこそが願わしいことでございます。」

とらちゃ
とらちゃ

王仁は千字文と論語を伝えた人物です。渡来したのは応神天皇の御代の出来事になります。この影響で、互いに天皇位を譲り合う結果となったのでしょう。

そう、憚ることなく奏上したのであった。

院は長嘘(ためいき。溜息のこと)をついて仰った。

「今お主が私のやったことを糺して罪を咎めたのは尤もである。だが残念なことに、私はこの島に謫されて(配流されて)、高遠の松山の家(配流後の住まいができるまで讃岐国司綾高遠の屋敷を仮の御所としていた)に幽閉され、毎日三度の食事を勧める者の他に参上して仕える者もいない。ただ空を飛ぶ雁が粗末な身の上の私の枕に訪れるのを聞けば『こ奴らは都に行くのだろうか。』と懐かしく思われ、暁に洲崎で騒ぐ千鳥の音は心を乱す種となった。烏の頭が白くなったとしても私が都に帰れる日は無いのだから、『きっと私は海辺に住まう鬼となるのだろう。』と思った。故に、一心に来世のためにと思って五部大乗経(華厳経・大集経・般若経・法華経・大般涅槃経)を写経したわけだが、鐘の音も聞こえない荒磯にこれを残しておくのも悲しく思うようになったわけだ。私は、『せめて我が筆跡だけは都へ還って欲しい』と願い、写経に次の和歌を添えて仁和寺の御室(おむろ。住職のこと)のもとへ送ったのだ。

浜千鳥 跡はみやこに かよへども

身は松山に 音をのみぞ鳴く

浜辺の千鳥の足跡が都に通じるというのに、わが身は松山から外へ出られず、その千鳥の鳴き声だけが聞こえるよ。

ところが、少納言信西が策略を巡らし、『もしかしたら呪詛が込められたものかもしれませぬ。』と奏上したために、そのまま私のもとへ返されてきたのはなんとも恨みが募る話よ。古からわが国でも唐土でも、国権を争って兄弟で敵となった例は珍しくない。私の場合、それを罪深いことだと思って悪心懺悔のために写経したというのに、どうにかこれの都入りを妨害しようとした者がいたからといって、天皇家に近しい者は情状酌量するという勅命に反してまで筆跡すら受け入れないという帝のお考えは、今日まで私にとって永遠の恩讐となっている。そこで私はこの経を懺悔ではなく魔道に回向(えこう。功徳を対象に向けること。ここでは魔道に向ける)することとし、恨みを晴らさんとして一筋に思い定めて、指を切って血で願文を書いた。経と共に志戸の海(詳細不明)に沈めた後、人目を避けて深く閉じ籠り、一心に魔王にならんと大願を立てたところ、願いが成就して平治の乱が起ったのだ。まず、藤原信頼が持つ高位を望む驕慢な心を唆し、源義朝を味方につけさせた。この義朝こそ私にとって本当に憎い敵である。保元の乱では義朝の父為義をはじめ一族の武士は皆私のために命を捨てたのに、奴だけは私に弓を引いたのだ。為朝の勇猛、為義や忠政(詳細不明)の軍配で勝ち目が見えていたのに、西南の風のせいで焼き討ちにされてしまった。白川の宮(崇徳天皇の住まい)を脱出して、如意ヶ嶽(現京都滋賀県境)の険しい山道に足をとられ、ある時は山賊の椎柴(しいしば。粗末な衣服のたとえ)を被って雨露を凌いで歩みを進めた。最終的に捕らわれてこの島に謫られたわけだが、それまでずっと義朝の小賢しい計略に苦しめられたのである。これの仕返しとして、私は義朝の心を虎狼の心(残虐で欲深い気持ち)に障化(しょうげ。変化させること)させて信頼の陰謀に加担させた。地祇(ちぎ。地の神のこと。天地の神で対でよくあらわされる)への反逆罪の報いとして、義朝は最期武に優れない清盛に討たれたのだ(入浴中に家臣に討たれた)。それだけでない。義朝は父為義までも殺しているのだ。これは天神の祟りを受けて家臣に謀殺されたのだよ。また、少納言信西は常に自分を博士ぶって人の意見を受け入れないひねくれ者であったから、私はこれも唆して信頼・義朝と敵対させた。最期は家を捨てて山城国田原に逃れ、箱に隠れて家臣に命じて地中に埋めさせたが結局見つかり、六畳河原で首を切られたのだ。これは経を私に送り返させるよう讒言を謀った罪への報いである。さらに應保年(1161~1163)の夏には美福門院の命を縮め、長寛年(1163~1165)の春には藤原忠通を祟り殺した。その年の秋に私も死んだわけだが、嗔火熾(しんかし。激しい怒りの炎に燃える様)は尽きず、遂には大魔王となって、無数の鬼の巨魁(首領)となったのだ。我が眷属が成すところは、人の福を見ては災いをもたらし、世が治まるのを見ては乱を起こさせる。ただ清盛は、果報が大きいがため親族氏族全てが高位に連なり、己の思いがままに国政を執り行っているが、子の重盛が忠義をもって父清盛を支えているので、未だ殺し損ねている。お主よ、見よ。平氏の栄華もまた永遠ではない。私に辛く当たった雅仁(後白河天皇)も、終には報いを受けさせてやる。」

新院の声がますます恐ろしく聞こえた。西行は言う。

「君はこうにまで魔界の悪行と関係を持っておりましたか。魔界は、私が目指す浄土と遠く隔てておりますので、再び口を聞くことはしませぬ。」と。

ただ沈黙して新院に向かい居座っていた。

その時、峰や谷が揺れ動き、風が林の一団をなぎ倒すほどの勢いで吹き荒れ、沙石を空に巻き上げた。みるみるうちに怪火の一塊が新院の膝の下から燃え上がり、山も谷も昼のように明るくなった。その光の中で新院のご様子を見ると、顔は朱を注いだように赤く、髪は膝にかかるまで乱れ、目は白目を吊り上げて、熱い息を苦しげに吐いていた。

衣は非常にくすんだ柿色になり、手足の指の爪は獣のように伸び、まるで魔王のような形相であった。驚き呆れながらも恐ろしく思われた。新院が空に向かって

「相模!相模!(化鳥の名前。『源平盛衰記』には「白峰相模坊」という天狗が登場する)」

と叫ぶと、それに応えて鳶のような化鳥が飛んできて、新院の前に伏して詔を待った。

とらちゃ
とらちゃ

題の白峰と「白峰相模坊」、さらに『源平盛衰記』と平治の乱は時代が一致します

新院がその化鳥に向かって言う。

「何故早く重盛の命を奪って、雅仁や清盛を苦しめないのか。」

「後白河上皇の天命はいまだ尽きておりません。重盛の忠義には近づき難いものがあります。今から干支一巡待てば、重盛の命も尽きましょう。彼が死ねば平家の天命も同時に滅ぶでしょう。」

これを聞いて新院は手を合わせてお喜びになった。

「かの仇敵どもを残らず目の前の海に沈めよ!」

という詔が谷や峰に響き渡る。その凄まじさは言い表すことができない。西行は、魔道の力の浅ましさを目前にして涙を抑えることもできず、再び和歌を一首詠み、随縁の心(仏の道によって得られる心)を勧め奉った。

「たとえあなたが生前に天皇の座におられた身分だったとしても、お亡くなりになった以上、それが何になるというのでしょうか。いえ、何にもなりません。どうか成仏なさいませ。地獄に落ちてしまえば、刹利(せつり支配階級や武士階級=自分や平家の比喩)も須陀(しゅだ。修行僧=西行の比喩)も変わらない存在になってしまうのですぞ。」

感極まって高らかにを吟じたのであった。この言葉を聞いた新院は感じ入った様子になり、表情は和らぎ怪火も次第に収まり消えていくと同時に、ついに新院のお顔もかき消したように見えなくなった。そばにいた化鳥もどこかへ去ったような跡も残さず見えなくなっていた。

十日余りの月は峰に隠れて、木陰と暗闇の見分けもつかない。まるで夢路を彷徨っているようであった。ほどなくして夜が明け始めた。朝鳥の鳴き声が趣深く響き渡る中、再び金剛経一巻を供養として奉った。山を下って庵に戻り静かな室中で夜に起こったことなどを思い返してみると、平治の乱からというもの、知り合いの消息や長い年月会っていないことに気づいたため、誰かに深く慎みをもって語ることもしなかった。

それから十三年後の治承三年(1179)秋、平重盛が病に罹って世を去ったので、平相國入道(平清盛)は、往年恨んでいた後白河上皇を烏羽離宮に幽閉し、さらにその後福原の茅の宮に幽閉した。

とらちゃ
とらちゃ

この出来事は治承三年の政変と呼ばれています。1177年の鹿ケ谷の陰謀において後白河上皇は平家打倒を計画しましたが、重盛の助力によって許されました。当然、清盛とは対立関係にありました。治承四年に以仁王が「平家追討の宣旨」を発し、治承・寿永の乱が勃発しました。要するに、源平合戦の開始です。平家の柱、重盛の死の翌年だったのですね。

鹿ケ谷の陰謀と重盛の活躍は、こちらで読むことができます!

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源頼朝は東風と競うように挙兵、木曽義仲が北国の雪を払って出現(1180年俱利伽羅峠の戦い。現石川富山の県境。火牛の計によって平家軍を大破した)したことによって、平家一門は悉く西海に漂うこととなった。遂に讃岐の海志戸八嶋(かいしどやしま)に追い込まれた平家の勇猛な武士どもは大魚の腹(源氏)に葬られ、赤間が関の壇ノ浦まで迫るに至り、幼い安徳天皇が入水されたので、それに続くように将軍たちも残らず滅んだ。平家滅亡の物語が、すでに亡くなったはずの新院の話と全く違わなかったのは不思議な話である。

西行はその後、新院のお墓に宝石などをちりばめ丹青(鮮やかな青や赤)で彩り、新院の威厳を奉った。そして、讃岐国に訪れる人々はここにやってきては必ず幣を捧げて、斉祭る(いつきまつる。祭祀をする)神となったということである。

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