韓国併合までの経緯
韓国といっても、今我々のよく知る大韓民国ではなく、大韓帝国という国のことを指します。韓国併合は1910年に起きた、日本が朝鮮半島の植民地化に成功した歴史的事件で、朝鮮半島の社会や文化への影響は現在も国際問題として議論されています。
当時の日本は、ロシア帝国の南進やアヘン戦争などを目にして列強国の影響拡大を警戒、これに圧力をかけるためには朝鮮が重要拠点であると見ていました。しかし、朝鮮は冊封体制によって近代化が遅れていた現状があり、国力に不安があったがために、日本は植民地支配による朝鮮の近代化が必要だと判断しました。その目的のために、日本は日清戦争以前から段階的に植民地支配の準備を進めました。
大韓帝国の成立
①李氏朝鮮の独立(1894年)
李氏朝鮮は数百年に渡り清に対して冊封しており、19・20世紀に入っても属国としての国際的地位が認められていました。
そんな中、江華島事件(1875)が発生。これを契機に日朝修好条規を締結した朝鮮は開国を余議されることとなります。これは李氏朝鮮が清の属国としてではなく、独立国家として国際的に扱われるようになる最初の出来事となりました。その一方、属国という権益を失う可能性が生じた清は日本に対して猛反発したことで日清戦争が勃発します。そして1894年に清は降伏。下関条約にて、朝鮮の独立が国際的に認められることとなったのです。
②大韓帝国の苦難(1897年)
1897年、高宗は国号を「大韓帝国」に、称号を「皇帝」に変更し、独立国としての地位を明確に示しました。特に称号を「皇帝」としたのは、宗主国である清に対して非常に大きな驚きを与えたといいます。古代中国より、皇帝というのは唯一無二の存在だったためです。
晴れて独立国として前進していた大韓帝国ですが、国力が低いことには変わりないため、その地政学的利点を理解していたロシアや日本が朝鮮半島に対して圧力をかけ、内政も外交も不安定な状況となりました。そして、朝鮮半島の権益を巡る対立、三国干渉などの要因によって、日本は今度はロシアと戦争することとなったのです。
日本の段階的支配
③第1次日韓協約(1904年)
朝鮮半島を巡って展開された日露戦争。その戦時中の1904年、日本は韓国に対して第1次日韓協約を提示しました。内容は、日本から外交顧問と財政顧問の派遣を求め、受け入れるというもので、内政干渉を国際条約で結ばせたものでした。
④桂タフト協定・ポーツマス条約(1905年)
第2次日韓協約が結ばれる数か月前の7月、アメリカの陸軍長官ウィリアム・タフトと日本の外務大臣桂太郎との間で、東アジアにおける日本とアメリカとの影響域を明確化するために桂・タフト協定が結ばれました。これは秘密裏に取り交わされた協定でしたが、アメリカが日本の韓国に対する優位的立場を全面的に認めたことにより、韓国併合の実現を加速させた要因となりました。
また、日本の勝利というかたちで日露戦争が終結、9月にポーツマス条約が結ばれました。アメリカが仲介に入ったのは桂タフト協定の影響があったとも言われています。このポーツマス条約によって、ロシアは日本に対し韓国への優越権を認め、韓国を日本の「保護国」に認めました。

⑤第2次日韓協約(1905年11月)
さて、1904年に第1次日韓協約によって内政干渉した日本は、桂タフト協定やポーツマス条約をバックにつけて、1905年11月、第2次協約で韓国政府から外交権を奪い、韓国を保護国とすることに成功しました。この際、京城(ソウル)に韓国統監府を設置しました。
⑥ハーグ密使事件・第3次日韓協約(1907年)
皇帝の高宗は第2回万国平和会議が開かれたハーグに密使を派遣します。内容は、日本の朝鮮支配が不当である、というもの。しかしこれは日本によって阻止され、日本はこれを口実として第3次協約を締結させました。内政権を完全に奪取しただけでなく、軍隊も解散させ無力化、韓国統監府が大韓帝国の内政権を完全に掌握したのでした。
⑦完全支配路線へ
1909年、伊藤博文がハルビン駅で安重根に暗殺される事件が発生しました。この事件によって韓国併合論が爆発的に優勢となり、併合大綱が出されるまでとなりました。
⑧韓国併合
1910年8月22日、韓国統監府長の寺内正毅と韓国首相の李完用によって「日韓併合ニ関スル条約」が調印、翌週の8月29日に実効されました。日本によって独立を果たした大韓帝国は日本によって消滅したのです。
統治下の朝鮮
植民地支配期、朝鮮ではどのようなことが起きたのか見ていきましょう。
朝鮮総督府の設置
併合直後、日本は朝鮮総督府を設置します。初代総督は寺内正毅で、すぐに憲兵警察制度を導入し、朝鮮における言論や集会の自由を制限しました。
土地調査事業
土地調査事業を推し進めたことによって、朝鮮内の土地が区画化されました。これによって日本の資本の大量流入を招き、結果、現地の住民は移動を強いられる事態となりました。これには国内外から大きな反発が出たといいます。
教育統制
何といっても朝鮮の教育の制限は大きいテーマになります。日本語教育の義務化や、朝鮮の文化財の破壊、歴史修正など、日本民族同化政策がとられ、現代にも負の遺産として大きな爪痕を残しました。
三・一独立運動
1919年3月1日、三・一独立運動が起きました。京城(ソウル)の学生や市民らが独立宣言を勝手に行いながら行進するというもので、暴動などを起こしましたが結果は失敗に終わりました。しかし、これをトリガーとして抗日運動が激化、日本はより激しい弾圧を加えることでこれを鎮圧しようとし、統治が難航することとなったのです。
条約の内容
韓国併合条約は全8条で構成された条約です。内容は、日本への統治権の譲与(第1条)、韓国貴族の優遇(第3条)、韓国人の官吏登用(第7条)などとなっており、プラスな面も見られますが、第1条の日本への統治権の譲与により、全て形式的な文言であることを物語っています。これによって、韓国は主権を失いました。
現代語訳
朕(私)は、枢密院議員との議論を経て、韓国併合に関する条約を裁可した。ここに韓国併合条約を公布する。
御名 御璽
明治43年(1910)8月29日
内閣総理大臣、侯爵、桂太郎(第二次)
外務大臣、伯爵、小村寿太郎
条約第四号
大日本帝国皇帝陛下及び韓国皇帝陛下は、「両国間の特別で親密な関係を求め相互の幸福を増進させること」、「東洋の平和を永久に確保すること」の二つの目的を達成させるために、大日本帝国が韓国を併合する必要があると確信した。
それ故、ここにおいて、両国間に併合条約を締結することを決定した。このため、大日本帝国皇帝陛下は1905年に設置した韓国統監府の現統監、寺内正毅を、韓国皇帝陛下は内閣総理大臣、李完用を本条約締結の全権委員に任命した。
全権委員は、会同協議の上、左の諸条を協定した。
第一条
韓国皇帝陛下は、韓国に関する全ての統治権を完全に、かつ永久に大日本帝国皇帝陛下に譲与する。
第二条
大日本帝国皇帝陛下は、第一条に掲げた譲与を受諾し、かつ韓国を大日本帝国に完全に併合することを承諾する。
第三条
大日本帝国皇帝陛下は、韓国皇帝陛下、太皇帝陛下、皇太子殿下、並びにその后妃と後裔に、それぞれの地位に相当する尊称、威厳、名誉を与え、かつこれら権利を保持するために十分な歳費を供給することを約束する。
第四条
大日本帝国皇帝陛下は第三条に記した以外の韓国皇族とその後裔に対し、それぞれ相当の名誉と待遇を与え、かつこれら権利を保持するために十分な歳費を供給することを約束する。
第五條
大日本帝国皇帝陛下はは勲功ある韓国人のうち、特に表彰するに値すると認めた者に対し、高い位を授け、かつ相応の金を与えること。
第六條
大日本帝国政府は、併合を行った後、韓国の政治を担当する。また、併合後に施行される法律を遵守する韓国人の身体及び財産に対し、十分な保護を与え、かつその福利の増進を図るべし。
第七條
大日本帝国政府は、誠意忠実に新制度を尊重する韓国人のうち、相当の資格があると判断される者には、事情の許す限り、韓国における大日本帝国管理下の帝国官吏に登用すること。
第八條
本条約は、大日本帝国皇帝陛下と韓国皇帝陛下との裁可を経て、承認されたものである。公布の日からこの条約を施行する。
右は証拠として残す。両国の全権委員が本条約に記名、調印する。
明治43年(1910)8月22日
統監 子爵寺内正毅 印
韓国統監、子爵、寺内正毅
隆熙4年(1910)8月22日
内閣総理大臣、李完用 印
まとめ
韓国併合は、中世の西洋諸国の侵略と違い、合法的な手続きを経て得た植民地支配でした。日清戦争、日露戦争の争点でもあった朝鮮半島は、戦後も朝鮮戦争が起こるといった具合に、地政学的にも東アジアにとって要所となっています。大日本帝国の場合、朝鮮半島を支配するには、中露の2大大国を打ち負かす必要がありました。それほど価値がある半島なのです。
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