プロフィール帳
語呂合わせ
建てるなら、名の良い(741)所で。国分寺。
建てるなら、で国分寺「建立」を表しています。
聖武天皇と奈良時代
聖武天皇とその出自
聖武天皇(在位724~749)は、天智天皇の系譜を継ぐ天皇ではなく、皇族と藤原氏の血筋が絡む複雑な出自を持っていました。母は藤原宮子、父は第42代元正天皇です。藤原氏が親族にあるため、藤原氏の後ろ盾を受けながらの即位となりました。
つまり、聖武天皇の権力は、皇位の正統性と、藤原氏の権勢のバランスの上に成り立っていました。
特に、藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)は政界で強大な影響力を持ち、聖武天皇の政策決定に大きく関与しました。
自然災害と疫病の頻発
度重なる天災や疫病が社会を不安定にしていました。特に、天平8年(736)~天平15年(743)にかけては、天然痘が大流行し、多くの死者を出します。一般庶民はまだ土葬の文化が根強かったため、天然痘のみならず、死体から排出される疫病も深刻な問題となりました。
こうした災厄の原因は、「天皇の徳」と「仏の加護」が不足しているためだと言われ、民衆や官僚など、全国民からの不安が増大しました。
奈良時代とは・・・
藤原氏が台頭してきた時代
災害が頻発した時代
国分寺・国分尼寺建立の目的
中央集権体制の強化
飛鳥時代、天智天皇によって始まった中央集権国家計画は奈良時代も継続されました。
奈良時代は、律令制による中央集権国家の構築期ともいえるフェーズにあたります。故に、地方の支配は完全ではなく、豪族や国司がその領地を独立支配するといった社会構造が残っていました。
そんな時期に即位した聖武天皇は、宗教と政道を結び付けて、全国の統治権を可視化することにします。そこで用いたのが仏教です。先ほど述べたように、奈良時代は災害に多く見舞われた時代であったため、幸か不幸か、仏教をもって国家を安んじる(鎮護国家思想)がタイミング的にも完璧だったのです。
そして、ただ国体として仏教を推進するのではなく、仏教施設を全国に設置するといった、視覚的な政策によって、民草の精神面を救うことことにしました。この仏教施設というのが、国分尼寺・国分尼寺建立です。この政策は、「全国に」というのが重要で、同時に中央集権化を進める駒としても機能したのです。
そして、結果的に、仏教は天皇の権威と国家秩序の象徴となりました。
国分寺・国分尼寺建立は、日本の中央集権化の歴史において、非常に重要な役割を果たしていたのです。
藤原氏との権力関係
中央集権化を進めるにあたって、絶大な効力を発揮した国分寺・国分尼寺の建立政策ですが、当然、藤原氏への権益へと結びつく形となりました。
国家的事業のため、莫大な資金と労力が必要。天皇は、藤原氏の政治基盤と人脈に頼ることが必然であった。
藤原氏としても、全国に仏教施設を設置することは、地方支配や官僚機構への影響力を強化する手段となった。
つまり、国分寺・国分尼寺は、単なる宗教施設ではなく、政治的な意味を含有した建物だったのです。
もちろん、国家の安寧が最優先
大人な事情としての国分寺・国分尼寺建立の目的を話してきましたが、もちろん、もともとの発端は、国家の安寧と平穏です。
国分寺・国分尼寺は、民の心の拠り所となり、天皇の慈悲を示す救いの場として機能しました。
根底にあるのは・・・
- 国家の安寧と平穏のため(鎮護国家)
政治的に見ると・・・
- 中央集権化を進めるため
- 藤原氏の権勢をより高める結果となった
正式名称について
国分寺は、正しくは金光明四天王護国之寺といい、
国分尼寺は、正しくは法華滅罪之寺といいます。
この意味は何なのでしょうか。
国分寺(金光明四天王護国之寺)
国分寺の「金光明四天王護国之寺」という正式名称の由来は、「金光明経」という仏典の影響を受けています。
『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』という経典に、国家や天皇を守護し、国家安寧をもたらす四天王の加護 が説かれていることが由来
です。
王と国家中心という思想をもつのが最大の特徴です。つまり、国家祭祀などの場にも使われたことを意味します。これは、後に説明する国分尼寺とは別の性格になります。
この四天王とは、持国天・増長天・広目天・多聞天を指します。
国分寺では、金光明最勝王経の経典を学び、祈祷を捧げます。また、配置される仏像は、
- 中央:釈迦如来(本尊)
- 周囲:四天王像
となっていました。
「四」天王の上手な使い方
日本全国のことを、古来より「四海」と表現してるように、四天王も、四方という意味合いが含まれています。
そのため、全国四方を天が護ってくれる、という考え方にも結び付いたのです。
国分尼寺(法華滅罪之寺)
一方、国分尼寺では「法華滅罪之寺」という名称でした。
これは、「法華経」に由来します。
『法華経』は、”すべて”の人は成仏できる(救済・滅罪など)という普遍救済の思想が強いことが由来
どういうことが説明しましょう。
仏教における女性
仏教において、女性とは、
女性=穢れや罪との関係を意識される存在
でした。
また、仏教は制度上、基本的に男性優位の伝統があったため、王と国家中心という思想が強い金光明最勝王経で女性に説くには不適切であったのです。
そこで見出されたのが法華経でした。法華経は「すべて」の人が成仏できるという考え方のため、女性の帰依も認めた慣用的な教法であり、全ての民を救済する鎮護国家思想には持って来いの存在だったのです。
その性格もあり、国分尼寺では、国家祭祀よりも、滅罪や祈願、民衆救済の意味が強かったのです。
開祖の釈迦は、女性の出家を認めていたのですが、後に、
比丘尼(女性僧)は比丘(男性僧)に従う「八敬法(はっきょうほう)」という女性側の追加規定が設けられました。
この伝統制度によって、男性優位的な運用がなされています。
まとめると、以下のようになります。
- 金光明最勝王経と法華経では、教えの内容が異なる
- つまり、国分尼寺と国分尼寺は、異なる目的のもと建てられた
| 国分寺 | 国分尼寺 |
| 金光明最勝王経 | 法華経 |
| 国家・王の上位の力による護国 | 罪や災厄を滅する |
| 天皇・国家が対象 | 民衆・社会が対象 |
国分尼寺・国分尼寺建立の詔を読む
国分尼寺・国分尼寺建立の詔はこちらで読むことができます。
まとめ
鎮護国家思想は、確かに、名前の通り仏教の力で国を鎮めるといった趣旨の内容ですが、それを主導しているのが天皇と貴族、要するに政治家なわけなので、政治史の視点で見ると、「歴史」が見えてきます。今回取り上げた『国分寺・国分尼寺建立の詔』は、表としての鎮護国家思想と、裏としての中央集権化が見え隠れしていました。
一言でまとめるとこうです。
国分寺建立は「仏教で国を守る政策」であり、同時に「中央集権を完成させる政治装置」だった。
以上、国分尼寺・国分尼寺の詔の背景と目的でした!
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