現代語訳
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第三 成親卿、位争い故に平家に対し謀叛を企てられたことが現れ、その身を初め、与みした程のもの搦め捕られ、その内に西光というものは首を打たれた事。

右馬之允
さて、平家の悪行はこれだけではありませんよね?

喜一
そのことです。平家の悪行はこれだけではありません。無理な位争いをして、数多くの人々を蹴落とし、次男の宗盛を右大将という官職に就かせました。こうした状況を無念に思った藤原成親卿という人物が、何とかして平家を滅ぼすという本望を遂げようと、企てを働かせました。しかし、これも今思えば余計なことでした。
成親は親(藤原親隆)をも超える多くの大国を領有しており、さらに息子や従者たちまでも朝廷からの恩恵を受けていたほどです。何の不満もないように思われる人でしたが、それでもこのような反骨心を抱いたのは、ひとえに天魔(悪しき力)の仕業であったように思われます。この成親卿に限っては、平家に対して失礼な振る舞いをすることなど望んでもいないことでした。
藤原成親の謀反は2つ。平治の乱と鹿ヶ谷の陰謀です。
その詳細を語りましょう。かつて成親は、藤原信頼卿という人物と共謀し平家に敵対しました(1160平治の乱)。この時点で誅殺される運命にあったのですが、重盛と親戚であったことを理由に重盛が懸命に助命申し上げ、なんとか命永らえました。それなのに、成親はその恩を忘れ、外部の助けもない状況で兵器を整え、武士を集めて謀反の旨を語り合ったのです(1177鹿ヶ谷の陰謀)。謀反の準備以外には何もしていませんでした。
成親の妹、経子と重盛が夫婦です。
東山の麓、鹿ヶ谷という場所は、堅固な城だったために常にここで集まっては平家を滅ぼそうとする謀議が巡らされていたといいます。ある時、後白河法皇がその場に御幸、謀議に参加されました。法皇には、浄憲法印という僧がお供としていました。
浄憲法印は藤原信西の息子とされています
その夜の酒宴で謀反についての話し合いをしていたところ、淨憲が申しました。
「これほど多くの人が集まる中で、そのような話をされてはなりません。この話が外に漏れたら、天下の大事になりますぞ。」
と。成親は顔色を変えてさっと立ち上がったのですが、この時、目の前にあった瓶子(へいし)が袖に引っかかって倒れてしまいました。それを見た後白河法皇、
「あれは何だ?」
と言うと、成親は立ち居直し、
「平氏が倒れました。」
と申し上げたのです。
ツボに入った法皇は
「猿楽の者たちを呼んで曲を奏でさせよ」
と命じられました。北面武士の平康頼という者が、
「平氏(瓶子)のあまりもの多さに酔ってしまいました。」
と申し上げると、俊寛が
「それをどうするつもりだ。」
と尋ねました。すると西光法師が、
「首を取るのは難しくはない。」
と言いながら、瓶子の首を取って室内へ持ち帰ったのでした。
瓶子は酒瓶なので、酔ったと表現したようですね。
浄憲はあまりの出来事に呆れ果て、何も言葉が出ませんでした。謀反に加担した者は数多くおり、その中心は俊寛、平康頼、西光(俗名、藤原師光)、そして多田行綱でした。成親は行綱を呼び出し、
「あなたを謀反軍の大将に任せます。この計画が成功すれば、国でも荘園でも好きなものをお望みください。まずは弓袋の用意を。」
と言って、弓袋の素材である白布50端を送ったのでした。すぐに勢力を整えて謀反を起こす予定でしたが、その間に、比叡山で厄介な問題が発生したため、成親はこの計画を一時中断しました。
後白河法皇側近、西光の子である藤原師高・師経兄弟が比叡山に属する白山湧泉寺を焼き払うという事件が起きました(白山事件)。延暦寺は朝廷に強訴、その際、重盛の兵と武力衝突するという事態にまで発展しました。これを受けて朝廷は、藤原師経を尾張国へ配流としました。
とはいえ内議を経ながら準備は様々に進められていたのですが、肝心な成親は、単に謀反を急げとの催促をするのみでした。謀反が成功するとは思えなかった行綱は
「この謀反に加担するのは無益だ。」
<と考え始め、送られた布は弓袋ではなく、直垂や帷子に仕立て直しました。その後、それを従者や郎党に着せて様子を見に行かせたのでした。
そして行綱は、平家の繁栄ぶりを見れば、今の時代そう容易く打ち倒せはしまい。よく根拠もないのに謀反に加担してしまったな!自分は!もしこの計画が漏れてしまえば、まず真っ先に自分が殺されるだろう。他人の口から計画が漏れる前に、自分が先に平家へ寝返って忠誠を誓い、助命してもらおう。と思う気持ちが芽生えました。
同じ年(1177)の5月20日頃の深夜、行綱は清盛のもとを訪ねて、
「わたくし行綱は申し上げたい子細があって、ここまで参りました。」
と伝えました。清盛は、
「普段来ない者が訪ねてくるとは何事か。話を聞いてこい。」
と言って、平盛国という者に対応させました。
「これは人伝てでは申し上げられないことなのです。」
そう行綱が言うと、盛国は
「それならば。」
と引き下がって清盛に伝え、清盛自ら中門の廊下まで出てきました。
「夜もかなり遅い時間に、わざわざここまで来たのは一体何事か。」
と問いかけました。
「昼間は人目が多いので、夜に紛れて参りました。さて、このところ、後白河法皇の周囲の人々が兵を集めていると聞きましたが、それは何のためのことなのでしょうか?」
「それは比叡山を攻めるためだと聞いている。」
そう、事も無げに答えた清盛。すると行綱は清盛に近づき、小声で申し上げました。
「そのことではございません。ただひたすらに、御一家を倒すための準備と聞いております。」
「法皇もそれをご存知か?」
「詳細を申し上げるまでもありません。成親卿が兵を集めているのも院宣だとされています。俊寛がこう振る舞い、康頼がこう申し、また西光がこう申して――」
と、事細かに話しました。最初からありのままの出来事を大げさに話し散らした行綱は退出後に
「『それでは失礼します』と言ってさっと出てきたよ。」
と、言ったと伝えられています。というのも、清盛は非常に驚いて、大声をあげて侍たちを呼び集め、たいそうな騒ぎとなったためです。行綱は、大げさに申し上げた部分について、証人として追及されるのではないかと恐れました。大野に火を放ったような心境で、誰にも追われていないというのに、裾を押さえながら急ぎ足で門から外へ飛び出していきました。
清盛は、まず平家貞の子、平貞能を呼び出して、
「当家を滅ぼそうとする謀反の者どもが都中に溢れている。一門の者たちに触れ回れ。侍たちも招集せよ。」
と命じました。貞能は駆け回り、宗盛、知盛、重衡、行盛、その他一門の者たちを始め、兵までもが甲冑をまとい弓矢を帯びて雲霞のように馳せ集まりました。その一晩だけで、西八条に6、7000騎もの兵が集結したであろうと思われた。
翌6月1日のまだ暗い時間に、清盛は検非違使の安倍資成という者を呼び出して命じました。
「院の御所へ行け。そして後白河法皇の近臣、平信業を招いてこう伝えるのだ。『夜な夜な、法皇の近臣が我が平家一門を滅ぼして天下を乱そうと企んでいるらしい。よって、一人一人召し捕らえて真偽を糺して裁きを行うこととする。法皇は、これについて何もご存知ではなかろう。』とな。」
資成は急いで御所に馳せ参じ、信業を呼び出してこの内容を伝えました。これを聞いた信業は顔色を失い、そのまま法皇の御前に参上して奏上しました。これを聞いた法皇は、ついに彼らが内々に企んでいたことが漏れてしまったか、と思い、驚くと同時に、これはどういうことだ、と考えました。そして信業に対しては、はっきりとした返事ができませんでした。
資成は急いで清盛のもとに馳せ帰り、御所での顛末を報告しました。これを聞いた清盛は、
「ということは、行綱は本当のことを語ったのだな。この知らせがなければ、私は平穏でいられただろうか。」
と言い、すぐに
「謀反を企てた者どもを捕えよ。」
と命じました。これにより、2、300騎ほどの兵があちらに押し寄せこちらに押し寄せ、次々と謀反に加担した者たちを捕らえていきました。
さて、成親のもとに、
「相談申し上げたいことがあるので、ぜひ立ち寄ってください。」
という伝言が伝えられました。成親は、それが自分の身に関わることだとは露ほども思わず、ああ、これは法皇が比叡山を攻めようとなさっているのを止めさせるために呼ばれたのだろう、と解釈しました。そして、立派な車に乗り、侍を3、4人従えて、いつも以上に身なりを整えて家を出ました。
それが自分の最期となろうとは、この時はまだ気づいていませんでした。西八条が近づいたところで、四、五町(約500m)ほど先に兵が溢れかえっているのを目にしました。
「なんとも驚くべき光景だ!これは何事だ。」
と成親は胸騒ぎを覚えました。車を降りて門の中へ入ってみると、中にも兵たちが隙間なく溢れかえっていました。
中門の入り口には、見るからに怖い武士たちが大勢待ち構えていました。成親の左右の腕を掴んで引っ張りながら、
「縄をかけましょうか。」
と言い放つと、清盛が御簾の内から姿を現し、
「する必要はない。」
と言いました。そして、14、15人ほどの武士が成親の前後左右を固めながら囲み、縁の上に引き上げて、一間しかない狭い部屋に幽閉したのでした。成親はまるで悪夢の中にいるような心地がしていました。茫然となった成親は、何も言葉を発しませんでした。
成親に付き従っていた武士たちも、軍勢に押しのけられて散り散りになりました。また、召使いや牛飼いたちも恐怖で顔色を失い、牛や車をその場に捨てて逃げ去ったのでした。そうしているところに、謀反に加担していた者たちは残らず捕えられ、清盛のもとに連れられました。
この事を耳にした西光は、
「これは自分の身にも降りかかることだ。」
と思い、馬に鞭打って御所へ急ぎました。しかし、その途中で平家の侍たちに遭遇し、
「西八条に召し出されている。すぐに参れ。」
と告げられたのでした。
「法皇に申し上げたいことがある。それで御所へ参るのだ。その後で西八条へ向かう。」
そう答えましたが、侍たちは
「憎らしい坊主だな!何を法皇に奏上しようというのか。そんなことはさせぬぞ。」
と言って、西光を馬から引きずり下ろしました。そして縄で縛り上げて、そのまま西八条へ連行したのでした。
西光は最初からこの謀反に加担していた者だったため、特に厳しく縛り上げられ、坪庭の中に引き据えられました。清盛が大広縁に立ち、
「我が一門を滅ぼそうとした奴の身は!ここへ引き寄せよ。」
と命じたため、西光は縁の端に引き寄せられました。清盛は履物を履いたまま、西光を乱暴に踏みつけながら言いました。
「そもそも、お前のような身分の低い者は君に仕える召使われるのが道理だというのに、身に余るほどの官職を与えられたせいで、父子そろって過ぎた振る舞いをしたのだろう。その上この平家一門を滅ぼそうとする謀反に加担したとはな。さあ、全てを話せ!」
父は実の父親ではなく、本来の主、信西のことです。1159年平治の乱で殺されました。ちなみに、信西の死がきっかけで藤原師経は出家、西光と名乗り始めました。
西光はもともと非常に剛胆な性格だったため、全く顔色を変えず、悪びれた様子もなく、居座り直して嘲笑いながら清盛に言いました。
「とんでもない。清盛公こそ、過ぎたことをなさっているではありませんか。他人の前でどうかは知りませんが、この西光の耳に入る範囲では、そのようなこと言えませんよ。私は院に仕える身として、成親卿から『これは院宣だ。』だと言われて命令された以上、それに従わないわけにはいきません。確かに謀反話に加担しました。それは事実です。ですが、それとは別に耳を疑うようなことを仰いましたな!そもそも、あなたは忠盛公の子でありながら、14、15歳までは出仕もできていない。藤原家成卿の家に出入りしていた頃は、都の子どもたちは『高平太(たかへいだ)』と馬鹿にまでしていたではありませんか。それが、保延元年に将軍職を賜って海賊三十余人を捕らえた恩賞として従四位下を授かり、それどころか四位の兵衛佐にまでなった。『これは過分なことだ』と当時の人々は言い合っていましたよ。殿上の交わりすら避けられていた人の子で、太政大臣にまで登り詰めた者がかつていたか?これこそ過分だろう。侍のような身分の低い者が受領や検非違使になるのは珍しくもない。それが太政大臣ですよ。これをどうして過分でないと言えるのですか。」
憚ることなく言い切ったので、清盛は怒りのあまり言葉も出ませんでした。
高平太とは、高下駄+平太の合わせ文字です。高下駄を履くのは身分の低い者の証でした。そして清盛は平家の太郎(長男)です。つまり、身分の低い平家の長男という意味のあだ名です。
しばらくして清盛が
「こ奴の首をすぐには切るな。念入りに縛り上げておけ。」
と命じました。松浦重俊という者がそれを受けて、西光を足で羽交い締めにするなどして、さまざまに痛めつけながら尋問した。最初から否認するつもりもなかった上に、拷問が厳しかったため、残らず全て白状した。それを清盛方の者が4、5枚の白状書として書き記した。その後、清盛が
「こ奴の口を裂け」
と命じたので、西光は口を裂かれ、そして首を刎ねられた。そのほか、西光の一族やそれに仕える者らも処刑された。
さて、狭い一間の牢に押し込められた成親。汗をかきながら、
「ああ、これは私が密告するに関わらず、日頃から計画が漏れていたのだろう。誰が漏らしていたのか。北面の者たちの中の誰かに違いない。」
と、思いもよらない出来事を正当化しようとあれこれ案じ続けておられた。その時、後ろのほうから高い足音が響いてきたので、
「これはついに死ぬ時が来たか。武士たちが来る。」
と、待ち構えていたところに、
清盛自らが、大きな音を立てながら板敷きを踏み鳴らし、大納言(成親)の座っている後ろの障子を勢いよく開けた。成親が振り返ると、清盛は素絹の短い衣に、足で踏むほどの長い白い大口袴を履き、聖柄の刀(木地のままの柄、または、三鈷の形の柄で、僧が帯びることが多い)を無造作に腰に差すといった風貌で、成親が想像していた以上に怒りに満ちた様子で立っていた。清盛は成親をしばらくの間睨みつけていた。
「そもそもお前は平治の乱の際にすでに誅殺される運命にあったところを、重盛が自らの身を賭して説得し、その首を繋いだのだ。それなのに、何の恨みがあって、我が一門を滅ぼそうと企んだのだ? 恩を知る者は人というが、恩を知らない者は畜生だ。私は、我が一門の運がまだ尽きていないから、お前を迎え入れたのだ。さあ、日頃からお前が企ててきた計画の内容を直接聞かせてもらおう。」
「まったくそのようなことはございません。これは人の讒言でありましょう。よくお調べくだされ。」
成親がそう申し上げると、清盛はその言葉に耳を貸すことなく、
「誰かいるか」
と叫んだ。貞能が参上すると、清盛は
「西光の白状を持ってこい」
と命じた。白状を取り寄せた清盛は2度3度、成親にその内容を読み聞かせ、
「ああ憎らしい。この上何を弁解しようというのだ。」
と言って、その白状を成親の顔に投げつけた。そして、障子を勢いよく閉めて立ち去ったのでした。
その後も清盛は怒りが収まらず、
「経遠!兼康!」
と呼びつけた。2人が参上すると清盛は
「あの男を庭に引きずり出せ。」
と命じた。しかし2人はすぐに行動に移さず、畏まって
「重盛様のお気持ちはいかがでしょうか。」
と申し上げたのだが、清盛は大いに怒った。
「そうかそうか。お前たちは重盛が繋いだ命を重んじ、私の言うことを軽んじるというのだな? そうするなら、力づくでやらせるしかないな。」
そう言われた2人は、このままでは悪く思われるだろうと考え、大納言(成親)の左右の手を取って庭に引きずり出した。その時、清盛は満足そうな様子で
「地に伏せさせて、声を上げさせよ。」
と命じた。2人は、成親の左右の耳に口をあてて
「どのようなことがあっても、そっと声をお出しください」
と囁き、地面に伏せさせた。成親は苦しげに2度3度声を上げた。その様子は、哀れと言うのも愚かなものであった。
声を上げさせるのは、返事ではなく、地に押さえつけて苦しい声を上げさせるという意味です。
成親卿は、自分の身がこのようなことになった時、息子である少将(藤原成経)や幼い子どもたちがどのような目に遭うのかと思いを巡らせました。自分の体では心が耐えきれなかったと聞いています。そして時は暑い6月。衣服さえも脱ぐことが許されず、暑さに耐えられない成親は、胸が塞がる心地がして、汗と涙が入り交じって流れ落ちたのでした。
「それでも重盛は、私を見捨てるようなことはしないだろう。」
と口にするも、聞いてくれる者は誰もおらず、途方に暮れていたのでした。
(第三。終。)
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